コンテンツにスキップ

ワ民族軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ワ民族軍
ဝအမျိုးသားတပ်မတော်
ミャンマー内戦に参加
ワ民族機構旗
活動期間 1974年7月29日 (1974-07-29) – 現在
活動目的 ワ民族主義
分離主義
創設者 マハサン
本部 シャン州
活動地域 シャン州
ミャンマータイ国境
上位組織 ワ民族機構英語版
前身 ヴィングンKKY
関連勢力 国民党第3軍中国語版(1980年代まで)
シャン州軍 (1977年まで)
敵対勢力

敵対国

敵対勢力

戦闘 ミャンマー内戦
テンプレートを表示

ワ民族軍 (ビルマ語: ဝအမျိုးသားတပ်မတော်英語: Wa National Army、略称:WNA) はシャン州タイ国境で活動する少数民族武装勢力であり[1]ワ民族機構英語版(WNO)の軍事部門である。

歴史

[編集]

前史

[編集]

1969年の1月から2月にかけて、指導者はヴィングン最後のツァオパー英語版の息子であるマハサンは850人のワ族兵士を連れてタンヤンに進軍し、ネ・ウィン政権に忠誠を誓った。マハサンの軍勢はミャンマー軍傘下の民兵Ka Kwe Ye(KKY、防衛隊)となった。また、マハサンはタンヤンで、ロー・シンハンと関係の深いワ族のボー・ライウーと組み、国民党軍のアヘン取引のネットワークと繋がった[2][3]

マハサンのKKYは、シャン州ではロー・シンハン英語版のコーカンKKY、クン・サのロイモーKKYに次ぐ大軍勢となった[2]

一方で、1972年に始まるビルマ共産党の攻勢では、ヴィングンのKKYは装備の整った共産党軍に敵わず敗走し、サルウィン川を越えてタンヤンの司令部に合流した[4]。この後、ワ族の居住地はビルマ共産党の支配下となった。そして、ネ・ウィン政権はKKYを廃止する決定を下した[5]。1973年、マハサンはロー・シンハンと共に地下に潜伏し、数百人の兵士とその家族と共にタイ国境へと移動した。

1974-

[編集]

1974年7月29日[注 1]モンマイの近くのシャン州軍南部軍区の基地で、マハサンはシャン州軍の支持のもとWNAを結成した[6] [7]

1978年、シャン州進歩党 (SSPP)の参謀長であったサイ・ザムマウンはSSPPはビルマ共産党の同盟であるのでWNAをもはや支援できないとマハサンに伝えた。ザムマウンはビルマ共産党への疑いを隠すことは無かったものの、状況が安定すればビルマ共産党の「革命的な」同盟であるSSPPはワ族「解放区」の統治をおそらく許されるので、もしWNAの兵士は家に帰りたいのならばSSPPに入るべきだとまで述べた[6]

これにより、WNAは複数の派閥に分裂した。マハサイとニー・アウンの2人の将校はSSPPに離反し、1980年の恩赦により、ロー・シンハンのコーカンKKY残党と共に降伏した。マハサンはピアンルアンに移動し、モーヘンのシャン連合革命軍と同盟を結んだ。アイ・チョーソーを首魁とする派閥は更に東のタイ国境に位置するパントーで国民党軍の支持を受けて軍を結成した。このほかに、タ・マーは100人程度の兵士を率いて完全に国民党軍の指揮下で麻薬取引に従事した[6]。1982年3月、マハサンは複数の派閥を合同し、新たに500人規模の新たなWNAを誕生させた[8]

1983年、WNAの政治部門であるワ民族機構は公式に民族民主戦線(National Democratic Front: NDF)に加盟した[7]

1980年代、WNAはシャン州ミャンマータイ 国境付近で活動していたが、1989年までビルマ共産党が支配していた中緬国境では活動していなかった[1]

1997年8月、WNAは軍事政権と和平合意を締結した[7]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ Smith (1999:493)はWNA結成を1976年7月のことであるとしている。

出典

[編集]
  1. ^ a b Tucker, Shelby (2001) (英語). Burma: Curse of Independence. Pluto Press. p. 6. ISBN 9780745315416. https://books.google.com/books?id=WX-8MeW9ZasC 2016年4月10日閲覧。 
  2. ^ a b Smith 1999, p. 350.
  3. ^ Lintner 1999, pp. 256–257.
  4. ^ Lintner 1999, p. 271.
  5. ^ Smith 1999, pp. 350–351.
  6. ^ a b c Smith 1999, p. 351.
  7. ^ a b c Lintner 1999, p. 493.
  8. ^ Smith 1999, p. 352.

関連項目

[編集]