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吉田豊彦

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吉田 豊彦
東北楽天ゴールデンイーグルス コーチ #82
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大分県武蔵町(現・国東市
生年月日 (1966-09-04) 1966年9月4日(57歳)
身長
体重
174 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1987年 ドラフト1位
初出場 1988年4月10日
最終出場 2007年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

  • 東北楽天ゴールデンイーグルス(2008 - )

吉田 豊彦(よしだ とよひこ、1966年9月4日 - )は、大分県出身の元プロ野球選手投手)。現在は東北楽天ゴールデンイーグルス二軍育成コーチ(投手担当)。

経歴

プロ入り前

小学3年時に野球を始める。大分県立国東高等学校に進学し、高校1年秋からエース。大分県大会決勝で敗退し、甲子園行きはならなかった。

社会人・本田技研熊本を経て、1987年のドラフト会議立浪和義を外した南海ホークスに契約金2800万円、年俸600万円(いずれも推定)で入団。

プロ時代

南海・ダイエー時代

速球とチェンジアップを主武器に、1年目の1988年に、杉浦忠監督のもと1軍入りを果たし、主にリリーフとしてチームに貢献した。

1988年オフ、チーム名が「福岡ダイエーホークス」となり、福岡に移転した初年度1989年、先発ローテーション入りし、初の2桁となる10勝をマークした。チームはこの年、近鉄に13勝11敗2分け、オリックスに12勝13敗1分け、西武に11勝13敗2分けと、上位球団と互角に戦い、最終的に1位と3位の勝率が2厘差というパ・リーグ史上最大の混戦であったが、それを演出する立役者となった。さらに準本拠地・北九州市民球場では7戦して全勝(特に最初の主催ゲームとなった4月20日は吉田の完投により、オリックスの開幕連勝を8で止めた)しており、ファンの間では「北九州不敗神話」とまで言われた。

1990年からは、田淵幸一監督のもとでチームを支え、ダイエー創成期の左腕エースとなった。 1992年、2度目の2桁勝利(11勝)で、初のオールスターに出場した。チームはこの年を最後に平和台球場から撤退、本拠地を福岡ドームに移した。

1993年からは根本陸夫監督のもと福岡ドーム元年、ダイエーのエースとしてプレー。 1994年、球団はFA(日本人FA移籍第1号選手)によって阪神から松永浩美西武から秋山幸二らをトレードで獲得し、これまでになく士気が高まるチームとなったが、その中で堂々の開幕投手を務め、4月には月間MVP受賞、2度目のオールスター出場、自身最多の12勝を挙げた。またシーズン終了後、同期入団で3歳下の捕手吉永幸一郎と共に最優秀バッテリー賞を受賞した(チーム成績は、大きく勝ち越したにも関わらず、それ以上の勝率の球団が3球団あった為4位で終了)。

1995年からは王貞治監督の下でプレーし、常勝軍団の礎を築いた。同年こそ8勝を挙げるものの、以後2年間(96、97年)はわずか1勝と低迷。1997年オフにはFA権の行使を表明するも、王監督らの慰留があり、行使せずに残留。

1998年、入団以来の背番号11をエースナンバー18に変更し心機一転を図るが、シーズン半ばに金銭トレードで阪神タイガースに移籍する。この期間の吉田の様子を追った番組「にんげんドキュメント"二軍"」(NHK制作)が放送され話題となった。番組では、吉田が雁ノ巣球場(二軍が使用する球場)で若手選手と共に汗を流す様子や、石毛宏典ダイエー二軍監督(当時)が二軍選手達を集めて吉田のトレードが決定したことを伝え、「野球選手である以上トレードはある意味で宿命である」と訓示を述べるシーンが登場した。

阪神時代

1998年は吉田義男監督、1999年~2001年は野村克也監督の下でプレー。制球難を克服するために投球フォームをサイドハンドに改造するなどして先発・リリーフを共に務めた。しかし、満足する結果を残すことが出来ず、2001年の野村政権終了を以って、戦力外通告を受ける。阪神時代の4年間はわずか7勝しか挙げられなかった。

2002年、大阪近鉄バファローズのテストを受けて近鉄に入団。

近鉄時代

当初は梨田昌孝監督にも信頼感が薄く、敗戦処理に回ることが多かったものの、徐々に信頼感を得るようになり、シーズン終盤では試合の勝敗を左右する場面を任されるまでに至る。

2003年は抑え投手不在のチーム事情もあり、15年ぶりのセーブを記録するなど、セットアッパー・抑えとして好成績を収めた。同年3回目となるオールスターに出場、公式戦登板数も自己最多の60を数えた。

2004年は、記録ずくめの年で、8月22日500試合登板、同25日には1500投球回、9月22日に1000奪三振を記録している。そして、11月に行われた選手分配ドラフトで新規球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍する。

楽天時代

2005年、田尾安志監督のもとでプレー、主にセットアッパーとしてチーム最多の50試合に登板した。

2006年、再び野村克也監督と同一チームに。野村監督が茶髪長髪ヒゲ禁止令を出したため、トレードマークであったヒゲを剃り落とした。9月5日の対オリックス17回戦で600試合登板を達成した。この記録は、日本プロ野球では、21世紀初の600試合登板投手となる。同年は弱体投手陣の中で41試合に登板、防御率3.19と安定感ある成績を収めたが、中でも31イニング投げ、被本塁打0は特筆すべき点である。

2007年、開幕一軍に入ったものの怪我の影響もあってか打ち込まれてしまい、開幕から20日ほどで二軍落ち。その後、5月と8月に一軍に復帰。若手の台頭もあり出番は少なかったが、安定感ある投球がもどりつつあった。しかし、9月30日に現役引退を表明。

引退試合は同年10月4日の対千葉ロッテマリーンズ23回戦(フルキャストスタジアム宮城)の9回からリリーフ登板、先頭打者の竹原直隆にセンター前ヒットを打たれるも今江敏晃から3球三振を奪い20年に及ぶ選手生活を終えた。この試合では野村克也に直訴し、かつてのトレードマークであったヒゲを復活させて登場した。この日はトヨ(10・4)と読み替えることが出来る。登板近くから引退を惜しむファンの心を表したかのように雨が降り出し、セレモニーでは大粒の雨の中、マイクを握り「まだまだ投げたい!!」と叫んだ第一声にファンからは「ありがとう」の合唱となった。式典終了後にはその大粒の雨も降り止み、ファンの間では「トヨの涙雨」と言う伝説の日となった。

吉田の引退により南海ホークス出身の現役選手は大道典嘉(現:読売ジャイアンツ)だけになる。なお、大道は南海時代に1軍ではプレーしておらず、南海の1軍でプレーした最後の現役選手は吉田である。この年の交流戦(6月9日、東京ドーム)では8回裏に吉田がリリーフ登板すると代打大道がコールされ、元南海選手同士の最後の対決が実現した。結果は大道のライト前ヒットだった。

引退後

2007年の秋季キャンプからは楽天二軍投手コーチに転身し、11月2日に就任会見を行った。なお11月30日に自由契約公示された。2009年より同二軍育成コーチ(投手担当)。

人物

契約金で実家の牛を買った。

新聞や雑誌等で吉田豊と表記されることが多く、ファンだけでなく、首脳陣や選手からも「よしだゆたか」と間違えて呼ばれることがよくあったと言う。逆に、中央競馬で吉田豊と言う騎手がいたことから、「俺、実は週末は騎手やってるんよ、騎手の欄に吉田豊と書いているやろ」と冗談で話すこともあったと言う。

1995年7月4日対オリックス戦、4対2で迎えた9回ツーアウト、1・3塁、バッターはイチロー。4球つづけてストレートの後、ウィニングボールはカーブ。ポーカーフェースのイチローが珍しく頬を紅潮させた。その試合を完投で勝利した。この試合はファンの記憶に残る名勝負となった。

1996年5月9日「生卵事件」、場所は日生球場、対近鉄戦の終了後それは起きた。いわゆる、ファンによる卵投げつけ事件のことである。選手・監督・コーチの乗り込んだバスに生卵を投げつけるという、前代未聞の事件であったことは、広く知られているところだが、この試合の先発が吉田であったということは、意外と語られない。

2004年9月22日対オリックス戦(大阪ドーム)でセーブを挙げたが、これは近鉄球団最後のセーブとなった。なおこの試合で、通算1000奪三振となる三振を早川大輔から奪って、ゲームを締めている。

楽天の本拠地・フルキャストスタジアム宮城では「鉄腕」と場内放送されていた。

関川浩一と同年引退。引退セレモニーでは関川の後に引退挨拶をした。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1988 南海
ダイエー
43 4 1 0 0 4 4 3 -- .500 379 87.2 82 17 45 4 0 64 4 0 53 43 4.41 1.45
1989 26 24 6 0 0 10 8 0 -- .556 664 149.0 172 27 59 7 3 88 4 0 95 88 5.32 1.55
1990 18 16 9 0 0 5 10 0 -- .333 481 111.1 109 15 50 5 1 96 4 0 67 62 5.01 1.43
1991 20 14 2 1 1 4 6 0 -- .400 405 95.0 105 17 27 0 1 36 2 0 48 44 4.17 1.39
1992 23 23 11 3 0 11 9 0 -- .550 702 165.2 159 23 53 1 7 81 3 2 70 67 3.64 1.28
1993 24 24 6 0 1 7 14 0 -- .333 678 157.2 149 18 60 1 11 103 2 0 88 81 4.62 1.33
1994 30 29 11 1 0 12 11 0 -- .522 841 190.2 197 15 82 0 3 129 9 0 94 80 3.78 1.46
1995 26 24 3 0 0 8 8 0 -- .500 704 160.1 155 17 73 0 9 99 2 1 77 74 4.15 1.42
1996 18 6 0 0 0 1 3 0 -- .250 185 41.1 47 6 17 0 2 28 1 0 25 23 5.01 1.55
1997 27 3 0 0 0 1 2 0 -- .333 202 44.0 53 6 20 0 2 27 6 0 30 30 6.14 1.66
1998 阪神 44 2 0 0 0 4 3 0 -- .571 238 52.0 50 4 27 4 6 41 0 0 34 30 5.19 1.48
1999 23 14 0 0 0 2 8 0 -- .200 371 81.1 85 10 43 7 8 49 4 2 46 44 4.87 1.57
2000 24 1 0 0 0 1 3 0 -- .250 127 27.1 34 4 12 0 2 24 0 0 18 17 5.60 1.68
2001 8 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 40 8.1 11 0 4 0 1 5 1 0 9 9 9.72 1.80
2002 近鉄 42 0 0 0 0 2 1 0 -- .667 124 30.0 26 3 9 1 3 21 0 0 7 7 2.10 1.17
2003 60 0 0 0 0 3 3 8 -- .500 247 58.0 48 3 25 6 1 66 1 1 16 15 2.33 1.26
2004 56 0 0 0 0 3 6 4 -- .333 200 47.2 47 8 14 2 2 43 0 0 24 22 4.15 1.28
2005 楽天 50 0 0 0 0 2 2 1 12 .500 201 47.2 48 2 7 2 5 43 3 0 22 18 3.40 1.15
2006 41 0 0 0 0 1 1 1 10 .500 137 31.0 32 0 10 1 4 24 1 0 11 11 3.19 1.35
2007 16 0 0 0 0 0 0 0 1 ---- 55 10.0 22 2 3 0 0 8 0 0 11 11 9.90 2.50
通算:20年 619 184 49 5 2 81 102 17 23 .443 6981 1596.0 1631 197 640 41 71 1075 47 6 845 776 4.38 1.42
  • 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更

背番号

  • 11(1988年 - 1997年)
  • 18(1998年)
  • 91(1998年途 - 2001年)
  • 49(2002年 - 2007年)
  • 82(2008年 - )

記録

タイトル・表彰

関連項目

外部リンク