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北尾光司

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北尾 光司(きたお こうじ、1963年8月12日 - )は、三重県津市出身の元大相撲力士・元総合格闘家・元スポーツ冒険家・ナイフ評論家、元プロレスラー

大相撲横綱時代(第60代横綱)の四股名は双羽黒 光司(ふたはぐろ こうじ)。

大相撲時代

誕生~立浪部屋入門前

双羽黒 光司
基礎情報
四股名 双羽黒 光司
本名 北尾 光司
生年月日 1963年8月12日
出身 三重県津市
身長 199cm
体重 157kg
BMI 39.65
所属部屋 立浪部屋
得意技 右四つ、寄り、掬い投げ
成績
現在の番付 廃業
最高位 第60代横綱
生涯戦歴 348勝184敗24休(54場所)
幕内戦歴 197勝87敗16休(21場所)
優勝 十両優勝1回
序ノ口優勝1回
殊勲賞5回
技能賞2回
データ
初土俵 1979年3月場所
入幕 1984年9月場所
引退 1988年1月場所(番付掲載のみ、前年12月に廃業)
引退後 スポーツ冒険家
プロレスラー・格闘家
ナイフ評論家
立浪部屋アドバイザー
備考
金星3個(北の湖敏満千代の富士貢隆の里俊英
2015年8月29日現在

幼少期に父親の影響で柔道を始め、津市立敬和小学校に土俵が完成してからは毎日のように相撲を取って相撲が徐々に好きになり、地元の商店街で出場を勧められた相撲大会で優勝してからはさらに好きになった[1][2]。 次第に対戦相手に困るようになると、立浪部屋後援会会員の中にアマチュア相撲三段の腕を持ち、「津相撲クラブ」の責任者を務める人物から指導を受け、東橋内中学校へ入学して以降は立ち合いの当たりで対戦相手を土俵下まで吹っ飛ばすほどの実力を付けた。指導者の協力で、毎年の夏休みには立浪部屋へ泊まり込みで稽古し、6時に起きて周辺を5km走るのも絶対に欠かさなかった[2]

中学入学後は同じ中学生の中に十分な相手がいなかったために三重高等学校へ出稽古に出かけたが、高校生を相手に全く負けず、3年生の夏休みに相撲教習所で行われた日本相撲協会指導普及部の進級試験兼各支部対抗試合でも優勝し、中学校には相撲部や土俵がなかったために無名だったが、角界でたちまち評判になった[2]。両親はそのまま三重高等学校への進学を願ったが入門の意思は変わらず、「5年で関取になれなかったら帰って来る」との条件付きで、中学校卒業と同時に立浪部屋に入門した[2]

立浪部屋入門後・度重なるトラブル

1979年3月場所に立浪部屋より初土俵。のちに北尾は「花のサンパチ組」(昭和38年生まれ)の一人として、幕内上位で活躍する事となる。当初から鳴り物入りで入門した北尾は、恵まれた体格と素質は入門後でも誰もが認めるほどだった。相撲教習所では自他ともに認める「バスケットボール選手みたいな体」で注目を集め、中でも同期の保志信芳は特に驚いていたという[2]。一方の北尾は「小柄な保志は保志で、すごく目立っていました」と後年述懐している[2]幕下時代には後援者と食事をした時に、自身の大好物であるステーキを3000g食べたかと思うと、直後に中華丼天津丼オムライス炒飯チャーシュー麺・冷やし中華カツ丼を次々に注文しては殆ど完食するほどだった。リーチを生かした突っ張りから右を差して左おっつけから上手を引く相撲が北尾の型であった。相手によっては頭をつけることも厭わず、寄り、上手投げを得意とした。ほぼ2mの長身でありながら腰高や脇甘は顕著でなく、機敏さもある程度持ち合わせていた。がっぷりに組めば千代の富士貢をも苦しめることがあり、外四つになって肩から覆いかぶさる相撲でも力を発揮した。

しかし、父親が建設会社の取締役で北尾はその一人息子として甘やかされて育てられたためか、少しでも厳しい稽古をさせると口癖のように「故郷へ帰らせてもらいます」と発言し、師匠の立浪親方(元関脇安念山治)も北尾に対してではなく、稽古を付けた兄弟子を注意する始末だった[3]椎間板ヘルニアで途中休場して入院した時、師匠の立浪への不信感を抱いて本当に故郷へ帰ってしまった。これに怒った父親が北尾を追い返すと、立浪は罰として1年間の便所掃除を命じた。さらに鞭打ち症で途中休場して伊豆へ温泉治療に行った際には、伊豆で廃業を決意して友人の家に行ったが立浪にすぐ発見され、懇々と諭されて連れ戻された。酷い時は稽古をサボって喫茶店に行くこともあったが、立浪が注意しないために誰もが見て見ぬふりをしていた。だが北尾は高砂部屋への出稽古通い[4]や隠れ稽古に関しては絶対に欠かさなかったという。

その成果なのか、1984年9月場所で新入幕を果たした。1984年11月場所には憧れの北の湖敏満と最初で最後の取組を演じ、これに勝利。「対戦できたこと自体がもう嬉しくて…自分が目標としてきた力士と対戦できる喜び。とにかく負けてもいい」と語っていた中での初金星であった[2]。この場所初の三賞の殊勲賞を獲得。翌1月場所は新小結に昇進し、2場所連続で10勝。同年5月場所は新関脇となったが、中日の保志戦で左足を怪我したため途中休場(その後13日目から再出場)で6勝(6敗3休)に終わり、平幕陥落した。

しかし1985年7月場所は東前頭筆頭の地位で、千代の富士貢と隆の里俊英を共に下して2個の金星を獲得した他対戦した全横綱大関破る活躍で12勝の優勝次点で殊勲、技能の三賞も獲得した。翌9月場所関脇に復帰し11勝、次の11月場所も関脇で12勝の優勝次点と、幕内上位及び三役の地位で3場所連続二桁勝利を達成。この3場所合計でも35勝の好成績を挙げた事を高く評価され[5]、翌1986年1月場所で新大関となった。

ところが、大関時代の1986年5月場所には、同場所で大関獲りだった小錦八十吉との取組で鯖折りによって小錦の右膝を負傷させた[6]。小錦にとってはこの故障が引退まで祟って充分な力が出せなくなったうえ、双羽黒が後述のトラブルが原因で廃業したことで横綱昇進の基準が厳しくなったこともあり、双羽黒が「横綱・小錦」を阻んだと見られることがある(但し小錦自身は双羽黒を憎んではおらず「あのケガがあったから大関になれた」と語っている)。

北尾の横綱昇進討議

1986年7月場所の千秋楽から2日後、横綱審議委員会が開催されて北尾の横綱昇進が討議された。同年5月場所は12勝3敗(優勝次点、千秋楽結びの一番で横綱千代の富士と優勝を賭けた相星決戦に敗れる)、今場所は14勝1敗(優勝同点、再び千秋楽結びの一番で千代の富士に勝利して同点に並ぶも、優勝決定戦での再戦にて惜敗)と2場所続けて千秋楽まで優勝争いに絡む活躍を見せたことで昇進を決定する動きが見られた。当時の横審委員長の高橋義孝は「まれにみる逸材で将来性が多いに買える。優勝経験もなく、心・技・体の心・技に、まだ若いせいか劣る面もあるが、素晴らしい素質を持っており、横綱として十分やっていけると思う。努力すれば大横綱になれる」と折紙をつけ、当時理事を務めていた大鵬も「スケールの大きい素晴らしい素質を持っている。まだ若いし、大成できるかどうかは、これからの精神、努力次第。稽古で足腰を鍛えればダイヤモンドになれる。若いのだから、スムーズにいけば20回は優勝できるだろう」と期待を寄せた[7]

しかし、当時の横審委員の一人だった稲葉修だけは「(幕内)優勝経験が一度も無い力士が(横綱に)なるのはおかしい」「身体は文句無しだが、精神面に甘さがある」と述べた。稲葉は最後まで反対したものの、結局は多数決によって北尾の横綱昇進が決まった[7]。当時、22歳1ヶ月での横綱昇進は昭和以降では4位のスピード記録であり、新入幕から12場所での昇進も昭和以降で6位であった[7]。幕内優勝経験が一度も無いまま横綱に昇進したことから、千代の富士の一人横綱を解消するための仮免横綱と呼ばれるなど、実力が正当に評価されないことが多くなった[8][9][10]

「双羽黒 光司」に改名

横綱昇進時に、春日野理事長から「立浪一門から生んだ双葉山定次の『双』と、立浪部屋の定番でもある羽黒山政司の『羽黒』を合わせて、四股名を付ければ良いではないか。そうすれば史上最高力士が誕生するかもしれん」と説得され、最終的には「双羽黒」への改名を受け入れた[7]。双羽黒と同様に横綱昇進と同時に改名した玉の海正洋若乃花幹士 (2代)の推挙式の際には推挙状はそれぞれ大関時代の「玉乃島」「若三杉」名義だったが、双羽黒の際には「双羽黒」名義で発行された[2][11][12]

なお、ノンフィクションライターの小室明も後年、優勝経験が無い北尾を横綱に昇進させたことを問題視し、また「未来の大横綱を期待する春日野理事長の気持ちは分かるが、『双羽黒』という四股名はあまりにも不自然で作られたものであり、候補にあった『緑嶌[13]などに留めるべきだった」と指摘。さらに日本相撲協会の幹部達や横綱審議委員会らの責任についても言及している[14]

横綱昇進後

昇進に際して立浪は「いままでの3倍ぐらい稽古してもらいたい。1日に少なくとも30番はやることだ」と厳しい注文を付けていた[7]。横綱昇進伝達式で北尾は「心技体の充実に心懸け、横綱の名に恥じぬよう一層稽古に精進致します」と口上を述べ、横綱土俵入りの型は立浪・伊勢ヶ浜連合(2014年現在では伊勢ヶ濱一門)伝統の「不知火型」を選択した(指導は佐渡ヶ嶽)。なお日本相撲協会は、1986年5月に吉田司家と絶縁していたことで、明治神宮での横綱推挙式は協会単独で行われ、11月場所前に行われていた司家での奉納土俵入りも廃止された。こうして、「第60代横綱・双羽黒光司」が誕生した。しかし、双羽黒の土俵入りはせり上がり後に1ヶ所余計な構えが含まれて「交通整理」と揶揄され、東西どちらの土俵入りでも足は必ず正面側から出すべき所を何度か向正面側から出したことがあり、これで横綱としての評価を落とす最初の要因になってしまった。

横綱昇進直後は食中毒虫垂炎で入院し、体調管理が問題視された。新横綱で迎えた9月場所は3勝3敗で頸椎捻挫のため途中休場した。翌11月場所は8連勝して土付かずで勝ち越したが9日目に土が付き、千代の富士とともに12勝2敗で千秋楽を迎え、17場所ぶりの横綱相星対決となったが、千代の富士に敗れて優勝を逃した。続く1987年1月場所は前場所と同じ中日で勝ち越した。この時点で千代の富士は既に2敗を喫していたため差をつけていた。しかし、9日目に初顔の益荒雄に初金星を与え、翌10日目にも小錦に敗れ、千代の富士と同じ2敗となった。13日目に大乃国に敗れ3敗となり、千秋楽の相手は2敗の千代の富士となった。本割では千代の富士を上手投げで破り、優勝決定戦に持ち込んだものの決定戦で敗れ、またも優勝を逃した。

3月場所は9日目を終わって2敗と1敗の北勝海を追っていたが、10日目から左膝の痛みを理由に突然休場。これには多くの批判が浴びせられた。5月場所は10勝5敗と2桁に乗せたが、7月、9月と1桁に終わり、9月場所後の巡業中に付け人が集団脱走する騒ぎが起きた(詳細は後述)。11月場所は初日から13連勝と勝ち続け優勝も期待されたが、14日目に北勝海に敗れ、千秋楽も千代の富士に敗れ、優勝を逃した(千代の富士は全勝で22回目の優勝)。翌年こそ双羽黒が初優勝を達成すると思われたが、同年暮れに起きた突然の廃業により(後述)、優勝の夢は断たれた。

結果的に合計3場所(1986年11月・1987年1月・同年11月)で千秋楽まで優勝争いに絡んだものの、その3回全てで最後は千代の富士に敗れて幕内最高優勝は果たせなかった。また、肝臓疾患と靭帯損傷が影響したためか、当時の横綱陣の中で双羽黒の成績が最優秀だったことが一度も無かったため、番付では必ず西の正横綱か東西の張出横綱に甘んじることになり、その後の騒動によって廃業したことで、東の正横綱の座に双羽黒の名前が載ることは出来なかった[7][15]。結果的に最後の出場となった1987年11月場所の場所前優勝予想では5分の4の親方衆が双羽黒の名前を挙げたものの、その予想は見事に外れてしまった[2]

突如廃業

1987年12月27日、立浪との若い衆に関する意見の対立から部屋を脱走、そのまま「(破門同然の)廃業」という事態になった[7]

発端は、同日の夜に部屋の若い衆が「『あんなちゃんこが食えるか』と横綱(双羽黒)が言っている」と立浪に言いつけたことだった。立浪の主張によれば、ちゃんこの味付けについて立浪と大喧嘩した北尾は、仲裁に入った女将を突き飛ばし、「二度と戻らない」と言って部屋を出て行ったという[16]。一方、北尾自らの著書では「(ちゃんこが)美味い・不味いの問題ではなく、若い衆が料理を作れないほどたるんでいることで、(立浪)親方に再三指導するよう求めてきたが全く取り合ってもらえず、逆に親方から若い衆に謝罪するよう求められた。それが納得できず、部屋脱走を試みるも女将が止めに入ったため、それを振り切る形で部屋を後にした。すると親方がそれを見て『(女将に)暴力を振るった』と新聞記者を煽って大騒ぎになった」と明かしている。確かにこの件では「立浪と双羽黒の言い分が大きく食い違っていること」「被害者側からの公的な告訴が無かったこと」から、立浪の発言に関して信憑性を疑う余地もある。双羽黒本人が引退後にバラエティ番組に出演した際は、「殴っていないとしても、実は足で蹴ったりしたんでしょう」と茶化されたが、双羽黒は苦笑しながら「腕力を自慢する訳では無いが、僕のような大男が女性(女将)を殴ったら少々の怪我では済まされない。場合によっては命に関わるでしょう」と返答し、女将への暴力行為は頑なに否定した。

部屋を出て行った双羽黒は都内のマンションの一室に籠城していたところ、武隈が居場所を見つけて部屋に戻るように説得するも失敗、その間に立浪が協会へ双羽黒の廃業届を提出した。この事態を受け、同年12月31日に緊急理事会が開かれ、双羽黒の廃業届を受理することを正式決定した[17]。同日、双羽黒は緊急記者会見を開き、「私はもう(相撲界に)未練は無い。相撲は好きだが、幕下の時から相撲道の違いで(師匠・立浪には)とても付いて行けない(と思っていた)。『横綱』の名を汚したことは公私共に良くないが、人間として自分を貫いた」と述べて、正式に大相撲の廃業を発表した。

既に発表されていた1988年1月場所の番付には、双羽黒の名が東張出横綱に残っていたが、横綱在位数は僅か8場所(番付上では9場所)と、琴櫻傑將三重ノ海剛司と並ぶ最短記録2位タイ[18]短命横綱に終わった。ケガや体力の衰えで引退したのではなく師匠と喧嘩した挙句の廃業とあって世間の見方は非常に厳しく、双羽黒への同情論はほとんど聞かれなかったものの、野坂昭如など僅かに双羽黒支持を表明した者もいた。1988年3月には東京都内のホテルで断髪式が行われたが、同年3月場所の直前だったため関係者や後援会からは一人も出席せず、最後の止め挟を入れたのは父親だった[7]

この廃業が事実上の「破門」であることは、立浪と双羽黒の双方が認めている。

またこの事件をきっかけに横綱昇進基準が「大関で2場所連続優勝」が厳格に適用されるようになり、事実2連覇せずに昇進した事例は2014年5月場所の鶴竜力三郎まで27年もの間現れなかった。

スポーツ冒険家時代

大相撲廃業後には二輪免許を取得。プロレス入りまでの間は、ボクシングアメリカンフットボールなどのオファーを断って「スポーツ冒険家」という肩書きでタレント活動を行った。テレビや週刊誌の取材にもよく応じ、「相撲は(自分の)ビジネスの一つ。未練は全くない」とのことだった。さらには週刊プレイボーイビッグコミックスピリッツ(新感覚人生相談 綱に訊け!)で人生相談のコーナーを担当し、「大相撲を辞めたからプロレスに行くだろうとか思っているかもしれないが、そんな安易な考えはない」と語っていた。

とはいえ、「北尾の進むべき道はプロレスしかない」という世間の見方が根強かった。そんな中、スポーツ冒険家の仕事でアメリカ合衆国プロレスラー養成所の一つである「モンスター・ファクトリー」を訪れたところ、同行していた東京スポーツの取材に対し「(もしプロレスを)やるなら外人と同じように1シリーズごとに契約という形だね」と初めてプロレス転向に色気を示す発言をした。その場では進展こそなかったが、この発言によって急速にプロレスへ傾倒していく。

プロレス参戦

プロレスデビュー

北尾 光司
プロフィール
リングネーム 北尾 光司
北尾 光覇
本名 北尾 光司
ニックネーム デンジャラス新人類
サンダーストーム
身長 199cm
体重 150kg
誕生日 (1963-08-12) 1963年8月12日(60歳)
出身地 三重県津市
スポーツ歴 大相撲横綱
トレーナー 坂口征二ルー・テーズ
デビュー 1990年2月10日
引退 1998年10月11日
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大相撲での電撃廃業から約2年後の1990年2月10日、東京ドーム大会でのプロレスデビューが新日本プロレスから決定、発表された。北尾曰く「アメリカで数ヶ月間みっちり修行を重ねた」という触れ込みで帰国し、その際にルー・テーズの指導も受けており、北尾は「僕の(プロレスの)師匠(と呼べるの)はルーお父さん」と語っている。リングネームは、自身が考案した「サンダーストーム北尾」を希望していたが、実際には使用されずに本名でデビューする運びとなった。ただしこれは具体的に検討されていたらしく、オリジナル技の名称や入場曲(曲の途中「Break down Thunder Storm…」というコーラスが入る部分がある)に名残がみられる。

北尾のデビュー戦の相手は、巨体ながら優れた運動神経を持ち、全身にタトゥーを刻んだインパクトのある外見で人気を博していたクラッシャー・バンバン・ビガロが選ばれた。「プロレスラー・北尾光司」の初披露はデーモン小暮閣下に作曲を依頼した入場テーマ曲「超闘王のテーマ」が流れ、次々とスモークが吹き上がりスポットライトが多く照らす中、派手なコスチュームに身を包んだ北尾が現れるという、新人としては異例といえるほど非常に豪華なものだった。この際に着用していた、リベットなどで装飾を施した独特のデザインの革製ジャケットは、北尾が漫画「北斗の拳」の大ファンだったことを受けて制作した特注品だという。

リングに上がった北尾は黄色いタンクトップを引き裂くパフォーマンスを見せ、しきりに声を上げては決めポーズを取るアメリカンプロレスを意識したプロレスを展開、デビュー戦を勝利で終えた。この試合でのフィニッシュ技ギロチン・ドロップで、試合運びやパフォーマンスは世界的人気レスラーであるハルク・ホーガンを意識したものだった。それでいて自信満々の態度で入場して相手を挑発し、勝利して意気揚々を引き上げる態度と言動によってプロレスファンの失笑を買い、なかには「帰れ」コールまで起きた。北尾の数年前に全日本プロレスでデビューした輪島大士にも同様の特別待遇が見られたが、輪島は当時30代後半と体力的な衰えがみられており、北尾のように勘違いした行動も一切見せなかったため、大相撲のファンからも同情されて温かい目で見守られたが、北尾は20代半ばと若く、下積みの努力をすれば本格的なレスラーとしても通用すると認識されていただけに、相撲廃業時と同様に厳しい目に晒される結果となった。

北尾に対する冷評

それ以降も対戦相手に恵まれて勝利を収めるものの、デビュー戦から改善が見られない単調な試合運びはプロレスファンの間で冷評され続け、「(北尾は)しょっぱい」という声が上がり始める。やがて、北尾の試合では観客から激しいブーイングや強烈な野次が浴びせられ、対戦相手の二級外人レスラーに応援コールが沸き起こる始末だった。さらに北尾が、その厳しい評価に対して不満を露わにしたことも、ますますファンの反感を煽る結果という悪循環に陥った。当時、シングルとして発売された「超闘王のテーマ」のキャンペーンで中日スポーツの取材に応じた北尾は「自分の試合が早く終わるので、客はそれに不満に思ってブーイングが起きる」という持論を展開している。

この北尾の言動はファンのみならず、対戦レスラーの間でも「技を受けない」「セルを取らない」などの不満の声が上がり、露骨に北尾を軽蔑した態度を取るなど、リング上でも不穏な空気が流れるようになる。また、北尾は受け身の技術に難があったため、特定の技をかけられることを極度に嫌い、これが技を受けない姿勢に拍車をかけた。そしてある試合中、ブレーンバスターをかけられた際に恐怖心から無理な体勢で着地して腰を強打、負傷する。このアクシデントの後、北尾は「今日は腰が痛い」「体調が良くない」など理由をつけては練習をサボるようになり、また地方巡業に帯同しながらも決まっていた試合を当日になって突然欠場を申し入れたりするなど、大相撲時代と同様の「練習嫌いの問題児」の悪名を響かせ始めた。その後、新日本の現場責任者とマッチメイカーを務めていた長州力と激しく対立すると、北尾のあまりに怠慢な態度に業を煮やした長州が発した「プロレスラーは常に多少なりとも故障を抱えて試合に臨んでいる。フロントがどう言おうと、練習をしない奴は試合で使わない」という言葉に対し、北尾は「何か文句があるなら勝負(喧嘩)して、負けたら言うことを聞く」「怖いのか?この朝鮮人野郎!」という度を過ぎた暴言、さらには民族差別発言によって新日本プロレスから契約解除を言い渡された。

北尾が辞める際には当時社長だった坂口征二が同席しての記者会見が開かれ、

  1. デビューは新日本プロレスだが実際には所属レスラーではなくフリーランス扱い(「アームズ」という芸能事務所に在籍)だった
  2. そのために北尾は新日本の社員として扱われる他の所属レスラーと違って、個別にフロントとの交渉を行っていた
  3. 待遇面に関しても新人選手ではなく所属選手と同等、もしくはそれ以上の扱いを受けていた

など数々の内部事情が明らかにされた。それらの情報を公表した新日本は「トラブルなどによる解雇ではなく、本人の十分な同意を得た円満退社」という旨のコメントを出している。長州は後にインタビュー記事で、「どの団体が獲得しても、北尾は必ず同じトラブルを起こすぞ」という旨の発言をしており、それはさほど時を要さず現実のものとなってしまった。

SWSへ

新日本プロレスを契約解除された北尾は、大相撲の先輩である天龍源一郎を頼って創立間もないSWSへ参戦する。しかし、同じく元大相撲力士であるジョン・テンタ(ジ・アースクエイク、元幕下・琴天山)との試合中にレフェリーを蹴り、反則負け[19]を宣せられた挙句、リングを降りて手にしたマイクでテンタに向かって「八百長野郎この野郎!!八百長ばっかりやりやがって!」と発言、さらに観客に向かって「お前ら、こんなもの(八百長試合)見て面白いのか!」と叫んだ。観客の前でプロレス業界における「禁句」を連呼する北尾の姿はその会場のみならずプロレス業界全体を騒然とさせたが、北尾本人はこの直後に満足気な態度で「どうだ、盛り上がっただろう?」と話している[20]

その後は北尾の発言のみが一人歩きしてしまい、「北尾事件」として一般週刊誌もスキャンダラスに報じるようになり、天龍が「この件は私の不徳と致すところ」と当時就いていた3つの役職(取締役・「レボリューション」道場主・理事会長)に関し田中八郎社長に辞表を提出し(田中は慰留)、ザ・グレート・カブキが「北尾復帰戦はオレがやる」と発言するなど、波紋と代償は大きかった。団体側は一旦北尾に謹慎を命じたものの、内外から批判が渦巻いたことで事態を重視、ついに北尾を解雇する決断を下した。この決定にはさすがに「仕方ありません」と受け入れざるを得なかった。

新日本プロレス・SWSと立て続けに解雇となったことで、大相撲だけではなくプロレス界でも「復帰は難しい情勢であり、事実上の永久追放」と見る関係者も多かった。

復帰と引退

SWSを解雇された北尾はしばらくの充電期間の後、「空拳道」の師範、大文字三郎を伴って謝罪会見を開き、その場で「武道家の道を歩みたい」と宣言、総合格闘家への転向を発表した。しかし当時は総合格闘技路線の試合を組む団体は少なく、この後およそ1年にわたり北尾は移籍先を探して奔走することとなった。

それから約1年後の1992年3月、UWFインターナショナルが北尾の参戦を発表、マット界への復帰が正式決定した。Uインター側は当初、何かと悪評がついて回る北尾の起用に消極的だったが、同団体のプロモーション業に携わっていた宮戸優光が「北尾は道場に通うようになってから礼節が身につき、人間的に落ち着いたようだ」という話を耳にし、ワンマッチ契約の条件付きで参戦が決まったという。

そして同年5月8日、Uインター横浜アリーナ大会で山崎一夫と対戦し北尾が勝利を収めた。この試合直後に北尾は山崎との再戦について問われ、「勝負がついた相手(山崎)とはもうやらない。次はもっと強い相手がいい」と語り、山崎を格下扱いする発言だとマスコミに書き立てられる結果となった。しかし実際は、北尾のヒール的なイメージを利用して次の高田戦を盛り上げようとした意図的な発言だったことが後年に様々な文献で明らかにされている。

山崎戦から約半年後の10月23日、北尾は日本武道館高田延彦との「格闘技世界一決定戦」と銘打たれたビッグマッチに臨む。この試合は当初、山崎戦と同じ時間無制限一本勝負と予定されていたが、「北尾の代理人」を名乗る人物が強硬な態度でこれを拒否。試合直前になって3分5ラウンドの変則ルールに変更された。この他にも北尾側は理不尽な要求を繰り返し、試合直前になってもブック(試合の筋書き)についてクレームをつけ試合放棄をほのめかしたため、交渉役を務めていた宮戸が北尾の控え室へ駆け込んでいき怒声を上げたという逸話が残されている。

結局この試合はブックの了承も不透明なまま開始され、北尾は3ラウンド46秒に高田が放ったハイキックを顔面に受けダウン、KO負けを喫した。諸説あるがこのハイキックは高田側が意図的に行った「ブック破り」で、本来は判定による引き分けに終わるはずだったとされている。この一戦は、過去の北尾の言動を快く思わなかったプロレスファンの溜飲を下げ、前田日明と比較して目立たなかった高田の名前を上げることになり、北尾に対する幻想は大いにそがれることとなった。

しかし、総合格闘技への復帰後は以前のような態度は影を潜め、リング四方に深々と頭を下げる、前述の山崎戦では試合直後、ダウンしている山崎にも一礼するなどの謙虚さを見せて、過去を知るファンを大いに驚かせた[21]

1994年には格闘技塾「北尾道場」(後の武輝道場)を旗揚げし、道場生と共に天龍源一郎率いるWARを主戦場にした。この時期の北尾はプロレスもある程度そつなくこなせ、ファンからも声援を送られるようになっており、天龍とタッグを組むことも多かった。しかし、前述のジョン・テンタとの数年ぶりの再戦がWARの興行にて行われた際は、終始いきり立って格闘色の際立つ展開となってしまい、呆気ない幕切れとなった。

初期のPRIDEUFCにも参戦しており、1996年4月5日に行われた「第1回ユニバーサル・バーリトゥード・ファイティング」では、ペドロ・オタービオと対戦して1R5分49秒、グラウンドでの肘打ちで敗れた。同年5月17日に行われたUFC 9では、 マーク・ホールと対戦、鼻の骨折によるドクターストップで敗れた。1997年10月11日にはPRIDE.1においてネイサン・ジョーンズと対戦、総合格闘技戦で初勝利を挙げる。

1998年5月1日に開催された全日本プロレス東京ドーム大会では、同じ大相撲出身の田上明とのシングルマッチが組まれたが、カード発表直後にキャンセル[22]。その後「やりたいことをやり終えた」として現役引退を表明し、同年10月11日のPRIDE.4にて引退セレモニーを行った。武輝道場は、当時所属選手の岡村隆志が引き継いだ。

角界復帰

プロレスの引退から5年後の2003年、日本相撲協会所属ではないフリーの立場ながら、代替わりした第7代立浪部屋のアドバイザーに就任。現役時代に使用した化粧回しを日本相撲協会に寄贈した。

それから数年後のある時期に行われた光文社のインタビューでは、当時の先代立浪の指導方針に対してその真意を汲み取る様子を見せ、先代立浪に対する感情は軟化していた。インタビューにおいては「私は、自分のまわりにいた若い子たちに、少しでも楽をさせてあげたいという気持ちがありましたが、師匠は、昔風に、若い者にはつらい思いをさせないと強くなれないという考えだったので、そこに心のズレがあったように思います。(中略)修行途中で、精神的な部分がまだ未熟な人間に贅沢をさせたり、わがままを聞いたりすると、こういうことになってしまう。相手をつぶしてしまうことだったんだということを、当時の自分は把握できていなかった。私自身の心の未熟さだったと思っています」と語っていた。

同時に廃業事件騒動についても「これまでのことなども含めて、師匠と意見が対立してしまい、お互いに歩み寄れればよかったんですが、中々そういう訳にもいかなかった。私は、部屋の個室とは別に自分で別にマンションを借りていたので、自分のマンションで冷静さを取り戻そうと思っていました。しばらく頭を冷やしたら、また師匠と話をするつもりでいたのです。ところがその最中に当時師匠の女将さんが、マスコミ各社に片っ端から電話をしたことにより、事態は最悪に次ぐ最悪になってしまった。師匠と私は『廃業』などいう選択をするつもりは、毛頭なかったんですよ」と改めて証言している。そして現況については「表立った活動は特にしていません」とした上で「このまま時が経って、風化されればいいかなぁという気持ちだけですね」と今後表舞台に出る意志がないと表明している[2]

人物

大相撲時代

  • 当時としては珍しくパソコンが趣味だったこともあって「新人類」という異名が付けられていた[2]
  • 春日野には大変に目をかけてもらったそうであり、自著にもその旨を記している。春日野もまた大相撲時代の北尾にかなり理解のある態度を示していた。
  • 立浪部屋のちゃんこには本当に不満があったようであり、北の富士の著書には北尾が当時の九重部屋のちゃんこを羨んでいたことが記述されている[23]
  • 北の湖のことを横綱として尊敬しており、「目標とする力士は誰ですか?」と聞かれた時でも必ず北の湖の名前を挙げた。後年のインタビューでは「相撲のすべてがお手本であり、目標」と形容しているが、当時は他の部屋の横綱の名前を出したことが原因でずいぶんいじめられたという[2]
  • 横綱昇進後、部屋関係者からは常に双葉山や羽黒山を見習うように言い聞かされていたが、固定観念を押し付けられる辛さを感じ、個性を貫くことを重視していた。加えて「私の場合も、オリジナリティを貫いた結果、横綱に上がることができたのです」とも後年言い残している[2]
  • 幕内時代に優勝次点は4回、優勝同点は3回記録するも、念願の幕内優勝は一度も達成出来なかったが、これは当時元大関・豊山勝男(優勝次点8回、幕内優勝・優勝同点0回)に次ぐ珍記録だった[24]
千代の富士戦で健闘

双羽黒が活躍した時代は横綱・千代の富士の全盛期時代だったが、それでも対千代の富士戦は幕内対戦成績で6勝8敗(他に決定戦2敗)、横綱昇進後は2勝3敗(決定戦1敗)と健闘していた。北尾は横綱昇進後、千代の富士以外の横綱は眼中になかったという[2]。千代の富士自身も後年、朝日新聞のインタビューで「もし(双羽黒が)廃業していなかったら、自分は横綱の地位にこれだけ長く留まれていたのかは分からない。又その後の53連勝を初め、通算1000勝や優勝31回も達成出来なかったかも知れない」「それだけにあの廃業事件は、自身にとっても本当に残念な出来事だった」と、その素質と強さを認めるコメントを出している。

付け人集団脱走事件

弟弟子に対するイジメまがいの行動(付人をエアガンで撃って遊ぶなど)で、横綱時代に付き人7人中6人が巡業から逃げ出し、1週間後に5人が帰って来て双羽黒が直接謝罪したものの、戻らなかった1人はそのまま廃業したと報道された。一方で後年本人が語ったところによると「私は相撲をがんばった結果、外食したり、贅沢なものを食べることもできる。身銭を切って私がそうすることで、彼らにも『いつかはこういうおいしいものを、自分のお金で食べられるように、相撲をがんばろう』と思ってほしかった。でも、それが彼らの足を引っ張ってしまったんですね。自分だけおいしい物を食べて、付け人たちには食べさせないなんてことは、私にはできなかったんです」といい、寧ろ自身は付き人に甘い横綱であったと主張していた[2]

プロレス・格闘家時代

大相撲廃業前から稽古嫌いで有名だったが、プロレス転向後も練習を嫌がりたびたびトラブルを起こした。試合でも過剰なパフォーマンスや挑発的な言動を繰り返してプロレスファンから反感を買い、程なくして解説者から「存在自体がヒール」と呼ばれる扱いを受けている。北尾本人はそれらを「不当な評価」と言い切り、ブーイングに対して口汚く言い返すこともあるなど不遜な態度は大相撲時代と変わらなかった。

しかしSWSで起こした「北尾事件」以降は、ブーイングを浴びせかけられながらも四方の客席へ一礼をしてから試合に臨むなど、かつての「わがままな問題児」という姿は鳴りを潜めていった。その後は自ら道場を立ち上げ、岡村隆志をはじめとする弟子の育成に取り組み指導者としての道を歩み始めた。

部屋付きアドバイザーとして

当時部屋を脱走したと報じられた羽黒海憲司の要請で、代替わりした第7代立浪部屋のアドバイザーとして条件付きながら相撲界に略式復帰を果たした。若手力士への細かいアドバイスや新弟子のスカウトにも携わるなど、人間的に成長したとの評もある。

大相撲の通算成績

主な成績

  • 通算成績:348勝184敗24休 勝率.654
  • 幕内成績:197勝87敗16休 勝率.694
  • 大関成績:46勝14敗 勝率.767
  • 横綱成績:74勝33敗13休 勝率.692
  • 現役在位:53場所(番付上は54場所)
  • 幕内在位:20場所(番付上は21場所)
  • 横綱在位:8場所(番付上は9場所)
  • 大関在位:4場所
  • 三役在位:5場所(関脇3場所、小結2場所)
  • 連勝記録:13(1987年11月場所初日 - 同場所13日目)
  • 連続6場所勝利:69(1985年9月場所 - 1986年7月場所)
  • 通算連続勝ち越し記録:10場所(1983年9月場所 - 1985年3月場所)
  • 幕内連続2桁勝利記録:7場所(1985年7月場所 - 1986年7月場所)

各段優勝

  • 十両優勝:1回(1984年7月場所)
  • 序ノ口優勝:1回(1979年5月場所)

三賞・金星

  • 三賞:7回
    • 殊勲賞:5回(1984年11月場所、1985年3月場所・7月場所、1985年9月場所・11月場所)
    • 技能賞:2回(1985年1月場所・7月場所)
  • 金星:3個(北の湖1個、千代の富士1個、隆の里1個)

場所別成績

  
双羽黒光司
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1979年
(昭和54年)
x (前相撲) 東序ノ口5枚目
優勝
7–0
東序二段21枚目
4–3 
東序二段2枚目
4–3 
東三段目78枚目
4–3 
1980年
(昭和55年)
西三段目56枚目
4–3 
西三段目40枚目
2–5 
西三段目69枚目
4–3 
東三段目55枚目
4–3 
東三段目36枚目
5–2 
西三段目9枚目
4–3 
1981年
(昭和56年)
西幕下55枚目
4–3 
西幕下40枚目
5–2 
東幕下23枚目
4–3 
西幕下15枚目
3–4 
西幕下21枚目
4–3 
西幕下13枚目
4–3 
1982年
(昭和57年)
東幕下9枚目
3–4 
東幕下15枚目
0–1–6 
東幕下50枚目
6–1 
東幕下22枚目
5–2 
西幕下11枚目
4–3 
東幕下9枚目
3–4 
1983年
(昭和58年)
東幕下15枚目
4–3 
東幕下12枚目
4–3 
東幕下7枚目
4–3 
東幕下3枚目
2–3–2 
東幕下18枚目
6–1 
西幕下4枚目
4–3 
1984年
(昭和59年)
東十両13枚目
8–7 
東十両9枚目
10–5 
東十両7枚目
10–5 
西十両筆頭
優勝
12–3
東前頭8枚目
8–7 
西前頭3枚目
8–7
1985年
(昭和60年)
西小結
10–5
東小結
10–5
西関脇
6–6–3[25] 
東前頭筆頭
12–3
西関脇
11–4
東関脇
12–3
1986年
(昭和61年)
東張出大関
10–5 
西大関
10–5 
東大関
12–3 
東大関
14–1[26] 
西横綱
3–4–8[27] 
西横綱
12–3 
1987年
(昭和62年)
西横綱
12–3[26] 
西横綱
7–3–5[28] 
西横綱
10–5 
西横綱
8–7 
東張出横綱
9–6 
西張出横綱
13–2 
1988年
(昭和63年)
東張出横綱
引退
––[29]
x x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

主な力士(横綱・大関)との幕内対戦成績

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
朝潮 12 4 旭富士 12 6 大乃国 5 5
北の湖 1 0 琴風 2 1 霧島 2 0 
小錦 9 7(1) 隆の里 2 0 千代の富士 6 8**
北勝海 9 8 北天佑 13 2 若嶋津 7 7

(カッコ内は勝敗数の中に占める不戦敗の数)

改名歴

  • 北尾 光司(きたお こうじ):1979年3月場所 - 1986年7月場所
  • 双羽黒 光司(ふたはぐろ - ):1986年9月場所 - 1987年11月(番付上では1988年1月)場所

ファイトスタイル

プロレス時代の北尾は恵まれた体格を利して圧力をかけ、大技で一気にダメージを与えるという試合運びを好んだ。元大相撲横綱という肩書きは伊達ではなく、攻めに転じた際は日本人離れしたパワーで相手を圧倒した。

しかし防御面にやや難があり、レスラーとして持ち技は多い方ではなかった。そのため試合を膠着させてブーイングを浴びる場面もあったが、後にプロレスラーとしての活動に注力するようになってからは小技もある程度こなすようになり、タッグマッチでも活躍するなど技術的な成長を見せている。

得意技

裏投げ
正面から組み付いて抱え上げ、自ら倒れこむようにして斜め後方へと叩きつける。SWS参戦後の北尾のフェイバリット・ホールドである。
ニー・バット
膝蹴り。前かがみになっている相手をかち上げるように仕掛ける他、ランニング式も使用する。その場合いわゆるキチンシンクではなく、正面から体重を乗せて膝をぶつけるスタイルである。
ローキック
総合格闘技路線に転向してから多用するようになった。Uインター参戦の際の初戦ではローキックの連打で山崎を圧倒し、ファイトスタイルの変貌を観客に強く印象づけた。

オリジナル技

サンダーストーム
変形ジャイアントスイングで、仰向けに寝た相手の両足をテキサスクローバーホールドと同型のクラッチで固め、自ら横回転することで振り回す流れ。プロレスデビュー当時に必殺技と喧伝されたものの、北尾本人は数回しか使用しなかったために「幻の必殺技」とも呼ばれていたが、後に井上京子が「キョーコスペシャル」の名称で同型の技を使用している。
北尾ドリラー
変形パイルドライバー[30]。相手をハイアングル・ボディスラムのように肩に担ぎ上げ、そのまま垂直に脳天をマットに突き刺す技。仕掛けから完成までのプロセスはみちのくドライバーIIとほぼ同様だが、北尾ドリラーは担ぎ上げた直後に独特の溜めがある。北尾道場を旗揚げ後、プロレスに本腰を入れるようになってから好んで使い始めた。

プロレスの通算成績

タイトル歴

戦績

総合格闘技 戦績
3 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
1 0 1 0 0 0 0
2 1 1 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
ネイサン・ジョーンズ 1R 2:14 V1アームロック PRIDE.1 1997年10月11日
× マーク・ホール 1R 0:40 TKO(ドクターストップ:鼻の骨折) UFC 9: Motor City Madness 1996年5月17日
× ペドロ・オタービオ 1R 5:49 ギブアップ(肘打ち) Universal Vale Tudo Fighting 1 1996年4月15日

著書

  • 『しゃべるぞ!』 徳間書店 1988年3月 ISBN 419553643X
  • 『北尾光司の相撲界言い捨て御免』 大陸書房 1989年2月 ISBN 4803318999

声優

参考資料

第60代横綱 双羽黒光司 光文社のインタビュー[要出典]

脚注

  1. ^ 父親の英才教育を受け、父親と共に毎朝10km程度走り込んでいたという。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 光文社
  3. ^ 親方曰く、「(北尾は)怒られると若い衆に八つ当たりするから誰も注意しなくなるし、私に言う人もいなくなる」とのこと。
  4. ^ この高砂部屋への出稽古で目をかけてもらった高砂1988年10月に急逝した際、北尾は「廃業事件の際に大変ご迷惑を掛け、深く責任を感じている」という理由で通夜に参列していた。
  5. ^ 現在大関昇進の基準は「三役(関脇・小結)の地位で直前3場所合計33勝以上」が目安とされている。3場所前北尾の地位は東前頭筆頭と三役でなかったが、1983年5月場所新大関の朝潮太郎)も3場所前が東前頭筆頭ながら3場所合計35勝だった経緯があり、北尾も朝潮同様に満場一致で大関昇進が決まっている。
  6. ^ 一度は小錦に軍配が上がったものの物言いが付き、取り直しとなった挙句に膝を負傷させられた。
  7. ^ a b c d e f g h 北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)146ページから147ページ
  8. ^ 【今日は何の日?】横綱・双羽黒が失踪sportiva 2011年12月27日
  9. ^ その後に発生した「1横綱6大関」は、2012年5月場所から同年9月場所までの3場所において、横綱:白鵬翔、大関:琴欧洲勝紀日馬富士公平把瑠都凱斗琴奨菊和弘稀勢の里寛と、5月場所が新大関の鶴竜力三郎
  10. ^ 北尾の横綱昇進は、いわゆる「ところてん式」(関脇→大関・大関→横綱の地位に押し出される意味の例え)による横綱昇進だった。ちなみに、幕内最高優勝が無いまま横綱に昇進した力士は過去に源氏山(後の西ノ海嘉治郎)と照國萬藏が存在するが、いずれも昇進直前場所はその場所で優勝した横綱(源氏山は栃木山守也、照國は双葉山定次)と同成績で、2人とも横綱昇進後に優勝を経験している。また、同時に大関に昇進した力士(源氏山は太刀光電右エ門、照國は名寄岩静男)がいたが、この時は大関が過剰になるということも無く、むしろ新横綱の誕生で大関が不足する(東西制の時代だったが、このままでは片大関になる)ための同時昇進だった。
  11. ^ 横綱昇進後も本名のままだった力士は輪島大士のみである(帰化によって本名の変わった外国出身力士を除く)。
  12. ^ 北尾は「『白鳳(はくおう)』を名乗りたかった」とも言われた。その後、北尾は後年になって「『素質の北尾、努力の保志』とレッテルを貼られ、『稽古嫌い』と言われ続けたことは非常に心外だった。自分は一生懸命強くなろうと努力したのに誰も評価してくれなかった」と述べている一方で、横綱昇進後も本名で取りたかったとも伝わっている。
  13. ^ 緑嶌友之助は明治時代に活躍した幕内力士で、立浪襲名後に双葉山と羽黒山を育てた人物である。
  14. ^ 小室明「天晴れ小錦―プライドが支えた5638日」イーハトーヴ出版 1997年
  15. ^ のちに1987年9月場所後に昇進した、第62代横綱・大乃国康も東正横綱を一度も経験しなかった。
  16. ^ 【今日は何の日?】横綱・双羽黒が失踪sportiva 2011年12月27日
  17. ^ 委員からは「破門、または除名すべし」との意見もあったが、まだ24歳という青年の将来を配慮して恩情的に「廃業」という形が採用され、立浪が当面謹慎および3ヶ月間3割の減俸処分、理事全員が3ヶ月間2割の減俸処分を決定した。また双羽黒に対する恩情の背景として、春日野理事長がインタビューで立浪に対してかなり突き放した内容のコメントを残している。
  18. ^ ただし、番付上では琴櫻と同じく横綱在位9場所となる。
  19. ^ 問題のこの試合では、プロレスの試合を組み立てようとするテンタに対してロックアップ(リング中央で相手と組み合う事)すらせず、目潰しのポーズをとって威嚇する(いわゆる「シュート」を仕掛けた)など目に余る態度だった。(北尾は実際に目を突こうとし、危うく避けたテンタは激怒し罵声を浴びせる)この試合での目潰しポーズはサミング(親指による目潰し)ではなく、人差し指と中指を立てたもので、両者ともに臨戦ポーズをとりながらにらみ合いの硬直状態が続いて一切のプロレス的攻防をしない事に、注意しようと近づいたレフェリーは北尾にローキックを浴び直後に反則負けを宣告した。この際も、客席からは北尾に対するブーイングが巻き起こっている。
  20. ^ 「八百長発言」が出た1991年4月1日の神戸ワールド記念ホール大会の僅か2日前、北尾とテンタは同年3月30日の東京ドーム大会にて初めてシングルで対戦した。フォール負けした北尾は自身の試合が終わると、大会の全カード終了を待たずして会場から去ってしまう事件を起こしている。「八百長」事件後の一部週刊誌では、この試合で、相撲時代の番付では遥かに上だった自分が、テンタ相手に「負け役」をやらされたという不満が募っていた事も事件の引き金になったのではないかと指摘されている。
  21. ^ 復帰に際して記者会見を行った際に頭を丸刈りにして現れたり、用意した声明文を読み上げる際に丁寧な表現を使うなど、既にそうした態度の一端は窺えた。
  22. ^ キャンセルとなった事情は明らかになっていない。もちろんキャンセルが確定した後だが、北尾は大会と同日、すなわち真裏で行われた大日本プロレス戸田市スポーツセンター大会に参戦、8人タッグマッチに出場している。
  23. ^ 北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)P104
  24. ^ 2016年現在、現役大関の稀勢の里が優勝次点を12回達成するも、幕内優勝・優勝同点は未だに0回のまま記録継続中である(但し2016年の稀勢の里は、大相撲史上初となる優勝皆無で年間最多勝の受賞者となった)。
  25. ^ 左足母趾第二趾中足趾関節挫傷により9日目から途中休場、13日目から再出場
  26. ^ a b 千代の富士優勝決定戦
  27. ^ 頸部捻挫及び神経根症により7日目から途中休場
  28. ^ 膝関節挫傷・左膝蓋靭帯英語版及び左膝外側側副靭帯損傷により10日目から途中休場
  29. ^ 1988年1月場所前に廃業を表明
  30. ^ ツームストーン・パイルドライバーの一種とされる場合があるが、膝で相手の頭を挟み込まない点が異なる

関連項目

双羽黒の横綱昇進当時、やくみつるの4コマ漫画(おちゃんこクラブ)より「『羽黒』は稽古嫌いだった若羽黒から名付けたもので、『双』は若羽黒の倍以上に稽古しないという意味だ」と揶揄されていた。なお、若羽黒も双羽黒と同様に立浪部屋所属で、自由奔放な性格から異端児と称された上に引退ではなく廃業している。

外部リンク