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大石良雄

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大石内蔵助の銅像。(東京・泉岳寺

大石 良雄おおいし よしお/よしたか万治2年(1659年) - 元禄16年2月4日1703年3月20日))は、江戸時代武士播磨国赤穂藩家老藤原を称する。内蔵助(くらのすけ)は通称で、名は良雄(よしお/よしたか)。幼名は喜内(きない)。大石良昭(大石權内)の子。近年の研究では、富山藩家老・横山氏から大石氏に養子に入ったともいわれるが定かではない。正式な名のりは藤原良雄(ふじわら・の・よしお)。

経歴

延宝元年(1673年)父良昭が早くに亡くなったため、祖父良欽(通称、大石内藏助)の養子となる。内蔵助は山鹿素行より軍学を、伊藤仁斎より儒学を学ぶ。延宝5年(1677年)祖父良欽の遺領1500石を継ぎ家老になる。「昼行燈」と渾名されるような凡庸な家老ぶりだったと伝えられる。

貞享5年(1687年豊岡藩京極家筆頭家老、石束源五右衛門の18歳の娘りく寛文9年(1669年) - 元文元年(1736年11月19日 (旧暦))と結婚。

元禄元年(1688年)長男松之丞(後の主税良金)生まれる。

元禄3年(1690年)長女くう生まれる。

元禄4年(1691年)次男吉之進(後の吉千代)生まれる。

元禄7年(1694年備中松山藩水谷家改易となったとき、主君淺野長矩(浅野内匠頭)が収城使に任じられ、内蔵助は先発して改易に不満で徹底抗戦の構えの松山城に単身入り説得を行って無事に城を明渡させた。この見事な手腕が世間の評判になった。ただし、この話は討ち入り事件後の後世になってつくられた話らしく当時の史料には内蔵助が活躍したという事実はない。その後、翌年まで内蔵助は松山城に在番している。

元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松之大廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷におよんだ。殿中での刃傷に将軍徳川綱吉は激怒し、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。一方、吉良上野介には何らの咎めもなかった。

刃傷事件と浅野内匠頭切腹の報は直ちに赤穂にもたらされ、幕府の処置に不満で徹底抗戦を主張する篭城派と開城すべきとする恭順派に分かれて藩内は紛糾。内蔵助は篭城殉死希望の藩士たちから義盟の血判書を受け取り、城を明渡した上で浅野内匠頭の弟浅野大学を立てて浅野家再興を嘆願し、あわせて吉良上野介の処分を幕府に求めることで藩論を統一した。内蔵助は藩札の交換や藩士への分配金の配分などの処理を適切に采配。

4月18日、内蔵助は到着した幕府の目付けに浅野家再興と吉良上野介処分の三度の嘆願を行っている。

4月19日、赤穂城は幕府の収城使に明渡された。

赤穂退去後、内蔵助は家族とともに京都山科に隠棲。旧藩士たちと連絡をとりながら御家再興運動を行った。一方で、堀部安兵衛江戸の急進派は吉良上野介への仇討ちを強硬に主張しており、内蔵助は自ら江戸に下ってこの動きを抑えている。この頃から、内蔵助の遊興が激しくなる。

元禄15年(1702年)4月に身重の妻りくを離別して、幼い子どもたちの長女くう、次男吉之進、次女るりとともに実家の豊岡へ帰している。

7月三男、大三郎生まれる。(後広島淺野宗家に仕官。)

7月、浅野大学の広島藩浅野宗家への永預けが決まり、御家再興は絶望的となった。内蔵助は京都円山で会議を行い、吉良上野介への仇討ちを決定する。

大石内蔵助(旅姿)の銅像。(赤穂御崎)

10月7日、内蔵助一行は垣見五郎兵衛と名乗り江戸へ下向。忠臣蔵ものの物語では道中、本物の垣見五郎兵衛が出現して内蔵助と会見。五郎兵衛は内蔵助たちを吉良上野介を討たんとする赤穂浪士と察して、自分が偽物だと詫びる。もちろん、創作である。

11月5日、内蔵助一行は江戸に入り、同志に吉良邸を探索させ、討ち入りの大義名分を記した口上書を作成した。12月14日に吉良邸で茶会があることが分かり、討ち入りは同日夜に決する。

12月15日未明。47人の赤穂浪士は本所吉良屋敷に討ち入った。表門は内蔵助が大将となり、裏門は嫡男大石主税が大将となる。2時間近くの激闘の末に、遂に吉良上野介を探し出し、これを討ち果たして、首級を取った。本懐を果たした内蔵助たち赤穂浪士一行は江戸市中を行進して、浅野内匠頭の墓がある泉岳寺へ引き揚げ、吉良上野介の首級を供えて仇討ちを報告した。

内蔵助は大目付仙石伯耆守久尚に口上書を提出して幕府の裁定に委ねた。幕府は赤穂浪士を4大名家にお預けとし、内蔵助は肥後熊本藩細川越中守綱利の屋敷に預けられた。

仇討ちを義挙とする世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、将軍綱吉は天下の法を曲げる事はできないとして、武士としての体面を重んじた上での切腹を命じた。

元禄16年(1703年)2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらされる。同日、幕府は吉良家当主吉良義周(吉良左兵衛、吉良上野介の養子)の領地没収と信州配流の処分を決めた。その日のうちに内蔵助をはじめ46人の赤穂浪士はお預かりの大名屋敷で切腹した。

辞世の句

大石内蔵助の辞世の句一般には1として知られるが一部文献には2とされる。

  1. あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
  2. あら楽や 思いははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし - 『介石記』、『江赤見聞記』、『義人遺草』

しかしながら上記は浅野内匠頭の墓に対してのもので、実際には次が辞世の句ともいわれている。

  • 極楽の道はひとすぢ君ともに阿弥陀をそへて四十八人

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