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塩谷孝綱

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塩谷 孝綱(しおのや たかつな、文明2年5月5日1470年6月4日) - 天文15年10月19日1546年11月12日))は、下野国塩谷郡戦国武将。伯耆守、民部大輔。幼名は弥六郎[1]。別名として泰綱、塩谷天的[2]宇都宮正綱の四男。養父は塩谷隆綱[3]。子に塩谷義孝塩谷孝信

誕生から塩谷家家督相続まで

孝綱は、宇都宮正綱の四男として生まれ、文明10年(1478年)1月18日、塩谷隆綱の養子となり、延徳元年(1489年)12月28日、隆綱の死とともに塩谷家の家督を継ぐ。塩谷家は、元々宇都宮家の一門であったが、隆綱の父教綱の謀反により宇都宮持綱が殺されて以来、関係は断絶していた。教綱も、宇都宮家からの報復により殺害されているが、この養子縁組は、名目的には、隆綱に跡継ぎがなく行われたものとされているが、両家の和睦のために行われた意味合いが大きい。[4]

家臣の謀反

永正6年(1509年)、那須氏那須資房)が、塩谷家臣である大貫石見守、印南修理進、油井筑後守と三者の一族に通じ謀反させ、孝綱を討とうとする謀略を企てる。しかし、孝綱側はこれをいち早く察知し、孝綱は、これを重く罰しようとするが、家臣の安藤光忠の進言により、三者とその一門計13名に二度と謀反を起こさないよう起請文を書かせ、木幡神社に奉納させ、これを許した。

孝綱が塩谷家の家督を継いだばかりの頃は、家臣にはこれに反発する者が多かったが、この事件をきっかけに塩谷家臣団は、孝綱の下にまとまっていった。[5]

孝綱の塩谷郡支配と晩年

孝綱の時代、塩谷家はその勢力を拡大、喜連川塩谷氏との争いでは、大永3年(1523年)11月7日には、和睦という形で、喜連川塩谷氏の支城である乙畑城を手に入れ、次男の塩谷義尾(乙畑孫四郎?)を乙畑城主にし、その弟の孝信を喜連川塩谷氏の養子として家督を継がせ[6]、その支配はかなり安定していた。また、数多くの寺社に寄進をしており、財政的にも安定していたと見られている。

そして、天文15年(1546年)10月19日、77歳で没する。

脚注

  1. ^ 弥三郎、弥四郎、弥五郎などとする文献もあり。
  2. ^ 在俗出家名。
  3. ^ 秋田塩谷系譜では、孝綱は塩谷隆綱の養子となって塩谷家を継いだとしているが、断絶した塩谷家の名跡を継いだだけとしている文献もある。
  4. ^ 但し、これは秋田塩谷系譜に基づく通説であり、文献によっては塩谷隆綱の名は見えず、教綱の死により断絶した塩谷家を、宇都宮家が塩谷郡支配を安定させるために孝綱を立てて再興させたとする説もある。
  5. ^ 那須記』は、この件に触れて"遂に君信(臣)融和になりける"と記す。
  6. ^ 但し、秋田塩谷系譜では、孝綱の子は、由綱(塩谷義孝)、盛綱(長門守)、泰成、娘、宗親の5人であるとし、義尾や孝信の名は見えない。