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塩谷頼純

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塩谷 頼純(しおのや よりずみ、天仁元年(1108年)? - 没年不詳)は平安時代末期の武将。妻は、原重房の娘弥生。子に惟純。左衛門尉、下野武者所。源義親の庶子。堀江記には、源義家の庶子と記される。

概要

喜連川塩谷系譜によれば、天仁元年(1108年)正月に父・義親が討たれた後に、摂津国堀江で生まれたとされる。生後は、父・義親の遺領である摂津国堀江荘に住し、義親が創始した堀江姓を名乗っていた。元服の後、大治5年(1130年)頃、下野国塩谷郡に下り塩谷荘司として塩谷姓を創始する。喜連川塩谷系譜では、流罪により、塩谷の地に下ったとされる。居城は堀江山城。頼純が居城した頃の堀江山城は、現在残る山城の遺構の北側、三方を山に囲まれ奥まった山麓に作られた馬蹄形の居館であったと思われる。但し、居城を御前原城とする説もある。

堀江記によれば、頼純の妻・弥生が美人であったため、時の下野国司に見初められ、これを奪うべく弥生の父・原重房をそそのかし、武蔵国相模国の境にある上田山で、頼純は、重房に討ち取られたとされる。塩谷氏が菩提寺として信仰した寺山観音寺の記録にも「堀江三良(三郎)頼澄(頼純)公 武蔵相模ノ境ナル上田山ニテ上野板蔵(板鼻)城主原ノ左衛門重房ノ逆心ニヨツテ打ホロビ」とある。年代的には、1130年代初頭、天承-長承年間の頃と推測されるが定かではない。ちなみに、寺山観音寺の記録では、後伏見天皇の時代のこととしているが、頼純を川崎城主とするなど錯誤が見られ、この記述は誤りである。