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小千谷縮

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小千谷縮(おぢやちぢみ)は、新潟県小千谷市を主な生産地とする麻織物。南魚沼市を生産地とする越後上布と共に、無形文化遺産に指定されている。堀次郎将俊が越後麻布から改良したもので、昔は農民の副業として特にに生産されていた。

小千谷縮の歴史

  • 17世紀、堀次郎将俊(明石次郎)が、越後麻布の改良に成功した。その改良は魚沼地方全体に広がっていった。当時は、越後縮と呼ばれていた。
  • 17世紀中頃、小千谷で縮市が開かれるようになった。魚沼・刈羽頚城で織られた縮が小千谷の仲買人・問屋に集められた。他に、堀之内十日町でも縮市が開かれていた。
  • 『越後名寄』には、4月~7月迄行われる縮市には、江戸京都大阪など日本中の商人が集まっていたと書かれている。
  • 1800年の『北越志』には、「大きな家も、小さな家も、民家は一軒残らず機織の音のしない家はない。皆、縮を織っているのだ。」と書かれている。『北越志』の著者が越後を訪れたのはの為、最盛期ではないのだが、それでも、多くの家が機織していたという。
  • 寛政の改革(1787年)、天保の改革(1842年)で、高級品の売買や使用を制限され、縮問屋や生産者は大損害だった。
  • 1955年、国の重要無形文化財に指定される。
  • 2009年10月1日、ユネスコ無形文化遺産に指定される。

小千谷縮と堀次郎将俊

 播磨国明石の浪人で、本名は堀次郎将俊だが、明石出身の為、明石次郎と呼ばれていた。17世紀、同市山谷の庄屋の家に妻と二人の娘と共に移り住んだ。越後麻布を改良し、村人に教え、魚沼地方に広がった。その改良は、横糸に強いよりを加えてちぢみをだし、苧績みや、布のさらし方にも工夫を凝らしたものだった。その後、夏の高級織物とし、日本中に名が広がっていった。堀次郎将俊の死後、小千谷縮を発明し、小千谷が発展した功績を称え、明石堂が建てられた。今でも、5月12日、9月12日には、織物組合により、お祭りが行われている。また、明石堂は平成18年に小千谷市指定文化財に指定。

縮商人

 西脇家や西新家はじめ、多くの問屋があった。また、小さなたび商人は、一人で、3,40反の縮を担ぎ江戸へ出かけ、行商していた。行商人は次第に大きくなり、呉服問屋などにも影響を与えるほど盛んになった。行商人は組合をつくり、魚沼に43人、頚城に41人、刈羽に25人いた。

外部リンク