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'''三別抄'''(さんべつしょう、[[朝鮮語|朝]]:<span lang=ko>삼별초</span>)は、[[高麗]]王朝の軍事組織。[[武臣政権]]私兵として用いられた。後に、モンゴル軍の襲撃に際しては事実上高麗の国軍に発展したとも言われる。
'''三別抄'''(さんべつしょう、[[朝鮮語|朝]]:{{ko|삼별초}})は、[[高麗]]王朝の軍事組織。[[武臣政権|崔氏政権]](武臣政権)において、[[林衍]](イム・ヨン)ら時々の実権を握った者の私兵として、しばしば政敵の暗殺や現代でいう所のクーデターのための武力として用いられた。後に、高麗のモンゴル軍の襲撃に際しては事実上の国軍に発展したとも言われる。


== 別抄とは ==
'''別抄'''とは、別に組織された「抄」という意味である。「抄」とは没収することを意味し、反乱を起こした地域へ派遣され、当該反乱を鎮圧したのち、没収した財産を分け与えられる臨時の軍組織であった。すなわち初めは国内の反乱鎮圧などのための臨時編成される組織であたが、崔氏政権のもとで拡大されるとともに、続発する反乱により半ば常備軍化したことで、左別抄右別抄の2部隊となり、のちに[[モンゴル帝国|モンゴル]]の捕虜から脱出した人員による「神義軍」を加えて「三別抄」と呼称されるようになった。
'''別抄'''とは、別に組織された国内の反乱鎮圧などのための臨時編成される組織である。騎馬部隊である「馬別抄」と、夜間の巡察警戒のめの「夜別抄」が、崔氏政権のもとで組織が拡大されるとともに、続発する反乱により半ば常備軍化したことで、'''左別抄'''・'''右別抄'''の2部隊となり、のちに[[モンゴル帝国|モンゴル]]の捕虜から脱出した人員による「'''神義別抄'''(神義軍」を加えて「三別抄」と呼称されるようになった。


== 三別抄の乱 ==
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[[朝鮮半島]]で936年に成立した高麗は中華諸王朝の[[冊封]]を受けていたが、北方の[[モンゴル]]系[[遊牧民]]や[[契丹]]などの強大化した諸民族が高麗へ侵攻するなど、辺境防備に悩まされていた。高麗は当初、侵攻に抵抗したが後に屈し、契丹や[[女真]]族の[[金 (王朝)|金]]王朝に対して入朝を行う。高麗では[[科挙]]制度の導入など国家体制を確立させて対抗を図るが、文臣だけを優待したため、不満を持った武臣たちによる政変が発生した。これを[[武臣政変]]といい、以後の高麗は武臣政権が統治するようになる。そして[[1196年]]には、武臣の[[崔忠献]](チェ・チュンホン)が同じ武臣である[[李義ビン|李義&#x65fc;]](イ・ウィミン)を殺害し、高麗の実権を握った。
[[朝鮮半島]]で936年に成立した高麗は中華諸王朝の[[冊封]]を受けていたが、北方の[[モンゴル]]系[[遊牧民]]や[[契丹]]などの強大化した諸民族が高麗へ侵攻するなど、辺境防備に悩まされていた。高麗は当初、侵攻に抵抗したが後に屈し、契丹や[[女真]]族の[[金 (王朝)|金]]に対して入朝を行う。高麗では[[科挙]]制度の導入など国家体制を確立させて対抗を図るが、文臣だけを優待したため、不満を持った武臣たちによる政変が発生した。これを[[武臣政変]]といい、以後の高麗は武臣政権が統治するようになる。そして[[1196年]]には、武臣の[[崔忠献]](チェ・チュンホン)が同じ武臣である[[李義]](イ・ウィミン)を殺害し、高麗の実権を握った。


崔忠献は自らの権力基盤を安定化させるために王権を弱体化させ、宿衛機関である都房(トバン)を組織して崔氏独裁体制を成立させる。次代の[[崔瑀]](チェ・ウ)は、騎馬部隊である馬別抄と夜間の巡察警戒のための夜別抄を組織した。これらの組織が統合され三別抄になる。三別抄は崔氏政権を維持するための[[私兵]]組織であったが、崩壊していた高麗の軍事制度に変わって事実上の国軍と化していくことになった。
崔忠献は自らの権力基盤を安定化させるために王権を弱体化させ、宿衛機関である都房(トバン)を組織して崔氏独裁体制を成立させる。次代の[[崔瑀]](チェ・ウ)は、騎馬部隊である馬別抄と夜間の巡察警戒のための夜別抄を組織した。これらの組織が統合され三別抄になる。三別抄は崔氏政権を維持するための[[私兵]]組織であったが、崩壊していた高麗の軍事制度に変わって事実上の国軍と化していくことになった。


[[モンゴル]]の諸民族を統一して成立した[[モンゴル帝国]]([[1271年]]に[[クビライ]]によって国号を[[元 (王朝)|大元]]とした)は、[[1219年]]に高麗と同盟を結ぶが、モンゴルが高麗に貢納の要求などをしたことで両国の関係が悪化し、1231年に[[モンゴルの高麗侵攻|第一次高麗侵攻]]が開始された。高麗軍は各地で苦戦を強いられ、[[1232年]]には[[開城]]を放棄し、[[漢江]]河口の[[江華島]]への遷都を余儀なくされる。その後もモンゴルによる断続的な侵攻が行われて高麗は衰退の一途をたどる中、[[金俊]](キム・ジュン)([[:ko:김준 (고려의 무신)|ko]])を主体に崔氏政権に対する[[クーデター]]が勃発、[[1258年]]に崔氏政権は滅亡する。
モンゴルの諸民族を統一して成立した[[モンゴル帝国]]([[1271年]]に[[クビライ]]によって国号を[[元 (王朝)|大元]]とした)は、[[1219年]]に高麗と同盟を結ぶが、モンゴルが高麗に貢納の要求などをしたことで両国の関係が悪化し、1231年に[[モンゴルの高麗侵攻|第一次高麗侵攻]]が開始された。高麗軍は各地で苦戦を強いられ、[[1232年]]には[[開城]]を放棄し、[[漢江]]河口の[[江華島]]への遷都を余儀なくされる。その後もモンゴルによる断続的な侵攻が行われて高麗は衰退の一途をたどる中、[[金俊]](キム・ジュン)を主体に崔氏政権に対する[[クーデター]]が勃発、[[1258年]]に崔氏政権は滅亡する。この時、金俊に協力してクーデターの主力を担ったのは三別抄の[[朴希実]]らであった


政権奪取後には、金俊が新しい武臣政権の首班となったが、彼はモンゴルへの入朝を拒否<ref>金俊はモンゴルの使臣を殺し江華島からもっと遠くの島に入る計画まで立ててい。だその計画は高麗が既長い戦争により疲弊であったため高麗王から頑強に拒絶される。</ref>、王以上の権力を振る回ったため、自身に敵対的な勢力を作ってしまう。これに国王[[元宗 (高麗王)|元宗]]は[[林衍]](イム・ヨン[[:zh:林衍|中国版]])不満勢力集め、[[1268年]]に金俊を暗殺した。
政権奪取後、金俊はモンゴルに降伏したが、崔氏続く武臣政権の傀儡となった高麗王[[元宗 (高麗王)|元宗]]は[[林衍]]ら文臣と手を結び金俊かの政権剥奪画策、[[1268年]]に三別抄を取り込んで金俊を暗殺した。


しかし、林衍もまたモンゴルと関係で元宗と対立<ref>元宗は講和派、林衍は強硬派であった。</ref>、1269年に国王[[元宗 (高麗王)|元宗]]を廃して政権を掌握した。そうすると、元宗の要請を請けたモンゴル軍が林衍討伐のため進し、林衍は三別抄を動員して抵抗するが、その最中に急死した。[[1270年]]5月に林衍の子の[[林惟茂]](イム・ユム)([[:ko:임유무|ko]])らが国王側に雇われた三別抄によって暗殺され、ここに高麗王朝に実権を握り続けてきた武臣政権は崩壊した。
しかし、林衍らは実権掌握を企図して元宗と対立、1269年に高麗王元宗を廃して政権を掌握した。元宗およびその世子の[[忠烈王|王諶]](後の忠烈王)の要請を請けたモンゴル林衍討伐のため進し、林衍は三別抄を動員して抵抗するが、その最中に急死した。[[1270年]]5月に林衍の子の[[林惟茂]](イム・ユム)らが国王側に雇われた三別抄によって暗殺され、ここに高麗王朝に実権を握り続けてきた武臣政権は崩壊した。


モンゴルの支援を受けた元宗は[[江華島]]から[[開城]]へ戻り、武臣政権の私兵集団として国内騒擾の元凶ともなってきた三別抄に対しては解散を命じた。これに対して、三別抄の裴仲孫(ペ・チュンソン)夜別抄の盧永禧らは宗室の承化公・[[王温]]([[:zh:王溫 (承化侯)|中国版]])を推戴し、江華島を本拠に自立した。
モンゴルの支援を受けた元宗は[[江華島]]から開城へ戻り、武臣政権の私兵集団として国内騒擾の元凶ともなってきた三別抄に対しては解散を命じた。これに対して、三別抄の{{仮リンク|裴仲孫|ko|배중손}}(ペ・チュンソン)夜別抄の盧永禧らは宗室の承化[[王温 (承化侯)|王温]]([[:zh:王溫 (承化侯)|中国版]])を推戴し、江華島を本拠に自立した。


6月、三別抄政権は西南の[[珍島]]に移り、城を作るなど、抗戦の準備を進めるとともに、[[全羅南道]]や[[慶尚南道]]に勢力を拡大していった。[[1271年]]には日本の[[鎌倉幕府]]へ救援を求めたが、に対し日本側がどのうように対応は史料に残っていない。一方同年3モンゴル帝国の中央機関・[[中書省]]にい官吏の話よると三別抄は駐屯する(蒙古)諸軍を撤収せて欲しい。そうすれば帰順る」と言ったが、[[忻都]](モンゴル将軍)その要請を聞かなと、今度は「[[全羅道]]に居住できるのであれば、直接朝廷に隷属する返事ったという
6月、三別抄政権は西南の[[珍島]]に移り、抗戦の準備を進めるとともに、[[全羅南道]]や[[慶尚南道]]に勢力を拡大していった。この間、[[1271年]]には日本の[[鎌倉幕府]]へ救援を求めたが、朝廷からも鎌倉幕府からも黙殺されている。しか2モンゴルから降服を求められ、「軍を引き上げてください。そうすれば服従いたしま。蒙古の将軍[[忻都]]が願いを聞いてくれません。私たちに[[全羅道]]をくだされば、蒙古朝廷に直接したがいます」<ref>『[[元史]]』世祖本紀 [[至元 (元世祖)|至元]]八年三月己卯(1271年4月26日)条「中書省臣言:『高麗叛臣裴仲孫乞諸軍退屯、然後内附;而忻都未従其請、今願得全羅道以居、直隷朝廷』」</ref>と返書をしたように、主要指導者である裴仲孫自身が、全羅道を領土としてモンゴルに隷属するとを画策するなど、内部の権力闘争が表面化するようになり、自ら弱体化を招くことになった。


だが結局、モンゴルとの交渉は失敗り、三別抄は徹底抗戦態勢固め<ref>『元史』叛臣裴仲孫,稽留使命,負固不</ref>。1271年4月、皇帝[[クビライ]]は三別抄の討伐を命じ、珍島の三別抄はモンゴル・高麗の連合軍に撃破され、残党が[[金通精]](キム・トンジョン)に率いられて耽羅([[済州島]])に落ち延びて命脈を保つが、[[1273年]]には耽羅島も攻め落とされて三別抄の乱は完全に鎮圧、三別抄の歴史も閉じることになる。三別抄の壊滅と同時にモンゴルは[[耽羅総管府]]を設置した。
また、モンゴルからすれば高麗王朝度々反乱を起こした忠誠の疑しい三別抄による武臣政権よりも、忠誠の篤い高麗王朝自身による朝鮮間接統治望んだめに、降条件は折り合うこともなかったこの結果、1271年中に、珍島の三別抄は高麗の[[金方慶]](キム・バンギョン)・[[洪茶丘]](ホン・タグ)らモンゴルの連合軍に撃破され、残党が[[金通精]](キム・トンジョン)に率いられて耽羅([[済州島]])に落ち延びて命脈を保つが、[[1273年]]には耽羅島も攻め落とされて三別抄の乱は完全に鎮圧、三別抄の歴史も閉じることになる。三別抄の壊滅と同時にモンゴルは[[耽羅総管府]]を設置、ここにモンゴルによる高麗の征服事業は完了した。


== 三別抄のその後について ==
== 三別抄のその後について ==
20世紀後半に、[[沖縄県]][[浦添市]]浦添ようどれで高麗瓦が発掘された。この瓦の文様は、三別抄が[[珍島]]に造営した龍蔵城跡から出土した瓦の文様と類似している。浦添ようどれの瓦には「癸酉年高麗瓦匠造」という刻印があるが、[[癸酉]]年は1153年、1273年、1333年、1393年などが該当する。これが1273年だとすれば、三別抄が[[済州島]]で滅ぼされた年と同一であるため、三別抄の生き残りの人々が沖縄に逃避してきたのではと推測する研究者もいる<ref>[http://kinur.exblog.jp/7839215/ 珍島からイルボンへ] - 国士舘大学 文学部 考古・日本史学専攻 戸田研究室ブログ</ref>。
20世紀後半に、[[沖縄県]][[浦添市]]にある[[琉球王国]]時代の王墓、[[浦添ようどれ]]で高麗瓦が発掘された。この瓦の文様は、三別抄が[[珍島]]に造営した龍蔵城跡から出土した瓦の文様と類似している。浦添ようどれの瓦には「癸酉年高麗瓦匠造」という刻印があるが、[[癸酉]]年は1153年、1273年、1333年、1393年などが該当する。[[国士舘大学]]教授の[[戸田有二]]は、これが1273年だとすれば、三別抄が[[済州島]]で滅ぼされた年と同一であるため、三別抄の生き残りの人々が沖縄に逃避してきたのではと推測している<ref>[http://kinur.exblog.jp/7839215/ 珍島からイルボンへ] - 国士舘大学 文学部 考古・日本史学専攻 戸田研究室ブログ</ref>。その時代、[[徳之島]]には既に高麗陶工が入り[[カムィ焼]]の生産に従事していた事が確実視され<ref>『11~12世紀初頭の日麗交流と東方ユーラシア情勢』中村翼(2014年)、[[帝国書院]]”高等学校 世界史のしおり2014年度1学期号より</ref>、浦添ようどれが最初の琉球王国の王統を築いた[[英祖 (琉球国王)|英祖]]によって[[咸淳]]年間(1265年~1274年)に造営されたとする『[[琉球国由来記]]』の記述とも年代としては一致する


==脚注==
== 脚注 ==
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<references />
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==関連項目==
== 関連項目 ==
*[[元寇]]
*[[元寇]]



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[[Category:高麗]]
[[Category:高麗]]
[[Category:済州特別自治道]]
[[Category:耽羅]]
[[Category:浦添市の歴史]]

2024年6月16日 (日) 18:04時点における最新版

三別抄
各種表記
ハングル 삼별초
漢字 三別抄
発音 サンビョルチョ
日本語読み: さんべつしょう
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三別抄(さんべつしょう、삼별초)は、高麗王朝の軍事組織。崔氏政権(武臣政権)において、林衍(イム・ヨン)ら時々の実権を握った者の私兵として、しばしば政敵の暗殺や現代でいう所のクーデターのための武力として用いられた。後に、高麗のモンゴル軍の襲撃に際しては事実上の国軍に発展したとも言われる。

別抄とは

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別抄」とは、別に組織された国内の反乱鎮圧などのための臨時編成される組織である。騎馬部隊である「馬別抄」と、夜間の巡察警戒のための「夜別抄」が、崔氏政権のもとで組織が拡大されるとともに、続発する反乱により半ば常備軍化したことで、左別抄右別抄の2部隊となり、のちにモンゴルの捕虜から脱出した人員による「神義別抄(神義軍)」を加えて「三別抄」と呼称されるようになった。

三別抄の乱

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朝鮮半島で936年に成立した高麗は中華諸王朝の冊封を受けていたが、北方のモンゴル遊牧民契丹などの強大化した諸民族が高麗へ侵攻するなど、辺境防備に悩まされていた。高麗は当初、侵攻に抵抗したが後に屈し、契丹や女真族の金朝に対して入朝を行う。高麗では科挙制度の導入など国家体制を確立させて対抗を図るが、文臣だけを優待したため、不満を持った武臣たちによる政変が発生した。これを武臣政変といい、以後の高麗は武臣政権が統治するようになる。そして1196年には、武臣の崔忠献(チェ・チュンホン)が同じ武臣である李義旼(イ・ウィミン)を殺害し、高麗の実権を握った。

崔忠献は自らの権力基盤を安定化させるために王権を弱体化させ、宿衛機関である都房(トバン)を組織して崔氏独裁体制を成立させる。次代の崔瑀(チェ・ウ)は、騎馬部隊である馬別抄と夜間の巡察警戒のための夜別抄を組織した。これらの組織が統合され三別抄になる。三別抄は崔氏政権を維持するための私兵組織であったが、崩壊していた高麗の軍事制度に変わって事実上の国軍と化していくことになった。

モンゴルの諸民族を統一して成立したモンゴル帝国1271年クビライによって国号を大元とした)は、1219年に高麗と同盟を結ぶが、モンゴルが高麗に貢納の要求などをしたことで両国の関係が悪化し、1231年に第一次高麗侵攻が開始された。高麗軍は各地で苦戦を強いられ、1232年には開城を放棄し、漢江河口の江華島への遷都を余儀なくされる。その後もモンゴルによる断続的な侵攻が行われて高麗は衰退の一途をたどる中、金俊(キム・ジュン)を主体に崔氏政権に対するクーデターが勃発、1258年に崔氏政権は滅亡する。この時、金俊に協力してクーデターの主力を担ったのは三別抄の朴希実らであった。

政権奪取後、金俊はモンゴルに降伏したが、崔氏に続く武臣政権の傀儡となった高麗王元宗林衍ら文臣と手を結び、金俊からの政権剥奪を画策、1268年に三別抄を取り込んで金俊を暗殺した。

しかし、林衍らは実権の掌握を企図して元宗と対立、1269年には高麗王元宗を廃して政権を掌握した。元宗およびその世子の王諶(後の忠烈王)の要請を請けたモンゴルは林衍討伐のため進軍し、林衍は三別抄を動員して抵抗するが、その最中に急死した。1270年5月に林衍の子の林惟茂(イム・ユム)らが国王側に雇われた三別抄によって暗殺され、ここに高麗王朝に実権を握り続けてきた武臣政権は崩壊した。

モンゴルの支援を受けた元宗は江華島から開城へ戻り、武臣政権の私兵集団として国内騒擾の元凶ともなってきた三別抄に対しては解散を命じた。これに対して、三別抄の裴仲孫朝鮮語版(ペ・チュンソン)・夜別抄の盧永禧らは宗室の承化侯王温中国版)を推戴し、江華島を本拠に自立した。

6月、三別抄政権は西南の珍島に移り、抗戦の準備を進めるとともに、全羅南道慶尚南道に勢力を拡大していった。この間、1271年には日本の鎌倉幕府へ救援を求めたが、朝廷からも鎌倉幕府からも黙殺されている。しかし、2月にモンゴルから降服を求められた際には、「軍を引き上げてください。そうすれば服従いたします。蒙古の将軍忻都が願いを聞いてくれません。私たちに全羅道をくだされば、蒙古朝廷に直接したがいます」[1]と返書をしたように、主要指導者である裴仲孫自身が、全羅道を領土としてモンゴルに隷属することを画策するなど、内部の権力闘争が表面化するようになり、自ら弱体化を招くことになった。

また、モンゴルからすれば高麗王朝に度々反乱を起こした忠誠の疑わしい三別抄による武臣政権よりも、忠誠の篤い高麗王朝自身による朝鮮の間接統治を望んだために、降服条件は折り合うこともなかった。この結果、1271年中に、珍島の三別抄は高麗の金方慶(キム・バンギョン)・洪茶丘(ホン・タグ)らモンゴルの連合軍に撃破され、残党が金通精(キム・トンジョン)に率いられて耽羅(済州島)に落ち延びて命脈を保つが、1273年には耽羅島も攻め落とされて三別抄の乱は完全に鎮圧、三別抄の歴史も閉じることになる。三別抄の壊滅と同時にモンゴルは耽羅総管府を設置、ここにモンゴルによる高麗の征服事業は完了した。

三別抄のその後について

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20世紀後半に、沖縄県浦添市にある琉球王国時代の王墓、浦添ようどれで高麗瓦が発掘された。この瓦の文様は、三別抄が珍島に造営した龍蔵城跡から出土した瓦の文様と類似している。浦添ようどれの瓦には「癸酉年高麗瓦匠造」という刻印があるが、癸酉年は1153年、1273年、1333年、1393年などが該当する。国士舘大学教授の戸田有二は、これが1273年だとすれば、三別抄が済州島で滅ぼされた年と同一であるため、三別抄の生き残りの人々が沖縄に逃避してきたのではと推測している[2]。その時代、徳之島には既に高麗陶工が入りカムィ焼の生産に従事していた事が確実視され[3]、浦添ようどれが最初の琉球王国の王統を築いた英祖によって咸淳年間(1265年~1274年)に造営されたとする『琉球国由来記』の記述とも年代としては一致する。

脚注

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  1. ^ 元史』世祖本紀 至元八年三月己卯(1271年4月26日)条「中書省臣言:『高麗叛臣裴仲孫乞諸軍退屯、然後内附;而忻都未従其請、今願得全羅道以居、直隷朝廷』」
  2. ^ 珍島からイルボンへ - 国士舘大学 文学部 考古・日本史学専攻 戸田研究室ブログ
  3. ^ 『11~12世紀初頭の日麗交流と東方ユーラシア情勢』中村翼(2014年)、帝国書院”高等学校 世界史のしおり2014年度1学期号より

関連項目

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