コンテンツにスキップ

「三別抄」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
26行目: 26行目:
6月、三別抄政権は西南の[[珍島]]に移り、城を作るなど、抗戦の準備を進めるとともに、[[全羅南道]]や[[慶尚南道]]に勢力を拡大していった。[[1271年]]には日本の[[鎌倉幕府]]へ救援を求めたが、これに対して日本側がどのうように対応したかは史料に残っていない。一方、同年3月、モンゴル帝国の中央機関・[[中書省]]にいた官吏の話によると、三別抄は「駐屯する(蒙古)諸軍を撤収させて欲しい。そうすれば帰順する」と言ったが、[[忻都]](モンゴル将軍)がその要請を聞かないと、今度は「[[全羅道]]に居住できるのであれば、直接朝廷に隷属する」と返事を送ったという。
6月、三別抄政権は西南の[[珍島]]に移り、城を作るなど、抗戦の準備を進めるとともに、[[全羅南道]]や[[慶尚南道]]に勢力を拡大していった。[[1271年]]には日本の[[鎌倉幕府]]へ救援を求めたが、これに対して日本側がどのうように対応したかは史料に残っていない。一方、同年3月、モンゴル帝国の中央機関・[[中書省]]にいた官吏の話によると、三別抄は「駐屯する(蒙古)諸軍を撤収させて欲しい。そうすれば帰順する」と言ったが、[[忻都]](モンゴル将軍)がその要請を聞かないと、今度は「[[全羅道]]に居住できるのであれば、直接朝廷に隷属する」と返事を送ったという。


だが結局モンゴルとの交渉は失敗に終わり、三別抄は徹底抗戦の態勢を固めた<ref>『元史』叛臣裴仲孫,稽留使命,負固不服</ref>。1271年4月、皇帝[[クビライ]]は三別抄の討伐を命じ、珍島の三別抄はモンゴル・高麗の連合軍に撃破され、残党が[[金通精]](キム・トンジョン)に率いられて耽羅([[済州島]])に落ち延びて命脈を保つが、[[1273年]]には耽羅島も攻め落とされて三別抄の乱は完全に鎮圧、三別抄の歴史も閉じることになる。三別抄の壊滅と同時にモンゴルは[[耽羅総管府]]を設置した。
だが結局モンゴルとの交渉は失敗に終わり、三別抄は徹底抗戦の態勢を固めた<ref>『元史』叛臣裴仲孫,稽留使命,負固不服</ref>。1271年4月、皇帝[[クビライ]]は三別抄の討伐を命じ、珍島の三別抄はモンゴル・高麗の連合軍に撃破され、残党が[[金通精]](キム・トンジョン)に率いられて耽羅([[済州島]])に落ち延びて命脈を保つが、[[1273年]]には耽羅島も攻め落とされて三別抄の乱は完全に鎮圧、三別抄の歴史も閉じることになる。三別抄の壊滅と同時にモンゴルは[[耽羅総管府]]を設置した。


== 三別抄のその後について ==
== 三別抄のその後について ==

2014年6月3日 (火) 05:23時点における版

三別抄
各種表記
ハングル 삼별초
漢字 三別抄
発音 サムビョルチョ
日本語読み: さんべつしょう
テンプレートを表示

三別抄(さんべつしょう、삼별초)は、高麗王朝の軍事組織。武臣政権で私兵として用いられた。後に、モンゴル軍の襲撃に際しては事実上高麗の国軍に発展したとも言われる。

「別抄」とは、別に組織された「抄」という意味である。「抄」とは没収することを意味し、反乱を起こした地域へ派遣され、当該反乱を鎮圧したのち、没収した財産を分け与えられる臨時の軍組織であった。すなわち初めは国内の反乱鎮圧などのための臨時編成される組織であったが、崔氏政権のもとで拡大されるとともに、続発する反乱により半ば常備軍化したことで、左別抄、右別抄の2部隊となり、のちにモンゴルの捕虜から脱出した人員による「神義軍」を加えて「三別抄」と呼称されるようになった。

三別抄の乱

朝鮮半島で936年に成立した高麗は中華諸王朝の冊封を受けていたが、北方のモンゴル遊牧民契丹などの強大化した諸民族が高麗へ侵攻するなど、辺境防備に悩まされていた。高麗は当初、侵攻に抵抗したが後に屈し、契丹や女真族の王朝に対して入朝を行う。高麗では科挙制度の導入など国家体制を確立させて対抗を図るが、文臣だけを優待したため、不満を持った武臣たちによる政変が発生した。これを武臣政変といい、以後の高麗は武臣政権が統治するようになる。そして1196年には、武臣の崔忠献(チェ・チュンホン)が同じ武臣である李義旼(イ・ウィミン)を殺害し、高麗の実権を握った。

崔忠献は自らの権力基盤を安定化させるために王権を弱体化させ、宿衛機関である都房(トバン)を組織して崔氏独裁体制を成立させる。次代の崔瑀(チェ・ウ)は、騎馬部隊である馬別抄と夜間の巡察警戒のための夜別抄を組織した。これらの組織が統合され三別抄になる。三別抄は崔氏政権を維持するための私兵組織であったが、崩壊していた高麗の軍事制度に変わって事実上の国軍と化していくことになった。

モンゴルの諸民族を統一して成立したモンゴル帝国1271年クビライによって国号を大元とした)は、1219年に高麗と同盟を結ぶが、モンゴルが高麗に貢納の要求などをしたことで両国の関係が悪化し、1231年に第一次高麗侵攻が開始された。高麗軍は各地で苦戦を強いられ、1232年には開城を放棄し、漢江河口の江華島への遷都を余儀なくされる。その後もモンゴルによる断続的な侵攻が行われて高麗は衰退の一途をたどる中、金俊(キム・ジュン)(ko)を主体に崔氏政権に対するクーデターが勃発、1258年に崔氏政権は滅亡する。

政権奪取後には、金俊が新しい武臣政権の首班となったが、彼はモンゴルへの入朝を拒否し[1]、王以上の権力を振る回ったため、自身に敵対的な勢力を作ってしまう。これに国王元宗は、林衍(イム・ヨン、中国版)ら不満勢力を集め、1268年に金俊を暗殺した。

しかし、林衍もまたモンゴルとの関係で元宗と対立[2]、1269年に国王元宗を廃して政権を掌握した。そうすると、元宗の要請を請けたモンゴル軍が林衍討伐のため進撃し、林衍は三別抄を動員して抵抗するが、その最中に急死した。1270年5月に林衍の子の林惟茂(イム・ユム)(ko)らが国王側に雇われた三別抄によって暗殺され、ここに高麗王朝に実権を握り続けてきた武臣政権は崩壊した。

モンゴルの支援を受けた元宗は江華島から開城へ戻り、武臣政権の私兵集団として国内騒擾の元凶ともなってきた三別抄に対しては解散を命じた。これに対して、三別抄の裴仲孫(ペ・チュンソン)、夜別抄の盧永禧らは宗室の承化公・王温中国版)を推戴し、江華島を本拠に自立した。

6月、三別抄政権は西南の珍島に移り、城を作るなど、抗戦の準備を進めるとともに、全羅南道慶尚南道に勢力を拡大していった。1271年には日本の鎌倉幕府へ救援を求めたが、これに対して日本側がどのうように対応したかは史料に残っていない。一方、同年3月、モンゴル帝国の中央機関・中書省にいた官吏の話によると、三別抄は「駐屯する(蒙古)諸軍を撤収させて欲しい。そうすれば帰順する」と言ったが、忻都(モンゴル将軍)がその要請を聞かないと、今度は「全羅道に居住できるのであれば、直接朝廷に隷属する」と返事を送ったという。

だが結局、モンゴルとの交渉は失敗に終わり、三別抄は徹底抗戦の態勢を固めた[3]。1271年4月、皇帝クビライは三別抄の討伐を命じ、珍島の三別抄はモンゴル・高麗の連合軍に撃破され、残党が金通精(キム・トンジョン)に率いられて耽羅(済州島)に落ち延びて命脈を保つが、1273年には耽羅島も攻め落とされて三別抄の乱は完全に鎮圧、三別抄の歴史も閉じることになる。三別抄の壊滅と同時にモンゴルは耽羅総管府を設置した。

三別抄のその後について

20世紀後半に、沖縄県浦添市浦添ようどれで高麗瓦が発掘された。この瓦の文様は、三別抄が珍島に造営した龍蔵城跡から出土した瓦の文様と類似している。浦添ようどれの瓦には「癸酉年高麗瓦匠造」という刻印があるが、癸酉年は1153年、1273年、1333年、1393年などが該当する。これが1273年だとすれば、三別抄が済州島で滅ぼされた年と同一であるため、三別抄の生き残りの人々が沖縄に逃避してきたのではと推測する研究者もいる[4]

脚注

  1. ^ 金俊はモンゴルの使臣を殺し江華島からもっと遠くの島に入る計画まで立てていた。だがその計画は、高麗が既に長い戦争により疲弊であったため高麗王から頑強に拒絶される。
  2. ^ 元宗は講和派、林衍は強硬派であった。
  3. ^ 『元史』叛臣裴仲孫,稽留使命,負固不服
  4. ^ 珍島からイルボンへ - 国士舘大学 文学部 考古・日本史学専攻 戸田研究室ブログ

関連項目