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不破正種

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不破 正種(ふわ まさたね 寛文10年(1670年)-元禄16年2月4日1703年3月20日))は、赤穂浪士47士の1人。通称は、数右衛門(かずえもん)。赤穂藩では100取りの馬廻役・浜辺奉行であったが、元禄赤穂事件の際には故あって浪人していたという47士の中では異色の人物。本姓平氏家紋は隅角切二横一。

生涯

赤穂藩浅野家家臣岡野治太夫正治(のち変名して佐倉新助)の長男として生まれた。母は同じく浅野家家臣の長沢六郎右衛門の娘。弟に佐倉慶也佐介亀八。妹に笹川只右衛門(本多中務大輔家臣)室、上島弥介(浅野長矩家臣)がいる。

元禄3年(1690年)頃に浅野家家臣の不破数右衛門の婿養子に入った。養父数右衛門が死去して不破家の家督を相続し、数右衛門の通称も継いだ。

しかしまもなく主君浅野長矩(内匠頭)の勘気を受けて藩を追われ、浅野家を浪人することとなる。長矩の勘気の原因は、正種が何かのいさかいで家僕を斬ったためのようで、このことが諸書に記されている。那波屋記録には「元禄10年8月18日不破数右衛門が家僕を斬って閉門を仰せ付けられ、11月晦日閉門御免」とある。まず閉門となり、それは許されたが、その後何かあって浪人させられたという流れのようだ。なお実父の岡野治太夫も何故か赤穂藩を追われている。おそらく正種と連座したものと思われる。よほど長矩の勘気は深かったのだろう。

浪人後の正種は江戸へ移り住んでいたが、元禄14年(1701年)3月14日、浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央(上野介)に刃傷に及び、長矩は即日切腹、赤穂浅野家は断絶となった。篭城になるとの噂を耳にした正種は数人の元赤穂藩士の浪人とともに赤穂城へ馳せ参じたとされるが、この浪人は父の佐倉新助で、家老大石良雄(内蔵助)に断られて帰されている。

赤穂城引渡し後、大石良雄が中心となって旧藩士の間で義盟が結ばれた。良雄が江戸へ下った際に、正種は浪人の身ながらこの義盟への参加を懇願。吉田忠左衛門のとりなしで泉岳寺の長矩の墓への墓参がかない、帰参した家臣として義盟への参加を許された。その後、松井仁太夫と変名して他の同志とともに江戸に潜伏した。

元禄15年(1702年)12月15日未明の吉良屋敷への討ち入りでは正種は裏門隊に属して屋外に配置されたが、こらえがたく持ち場を離れて屋内に突入している。2時間あまりの激闘の末に、赤穂浪士は吉良義央を討ち取り、その本懐を遂げた。正種は一党中もっともめざましい働きをし、数人の敵を倒し、その刀はささらのようになっていたと伝えられる。泉岳寺への引き上げに際して、正種が大石良雄に進言して大目付仙石久尚へ出頭して口上書を差し出すべきであると主張したとも言われるが、にわかには信じがたい。出頭は事前に申し合わせていたことであろう。

正種は大石良雄の嫡男大石主税らとともに伊予松山藩松平定直の中屋敷へ預けられた。元禄16年(1703年)2月4日、幕命により松平家家臣の荒川十大夫の介錯で切腹。享年34。主君浅野長矩とおなじ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃観祖剣信士。

幼い遺児不破大五郎がいたが、父の本懐後に出家し、古川永昌寺の僧侶となっている(後に還俗)。

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