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石井浩郎

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石井 浩郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 秋田県南秋田郡八郎潟町
生年月日 (1964-06-21) 1964年6月21日(60歳)
身長
体重
183 cm
94 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手三塁手
プロ入り 1989年 ドラフト3位
初出場 1990年5月8日
最終出場 2002年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

石井 浩郎(いしい ひろお、1964年6月21日 - )は、秋田県南秋田郡八郎潟町出身の元プロ野球選手内野手、1990 - 2002年)、実業家政治家(2010年 - )

経歴

プロ入り前

八郎潟町立一日市小(6年生の時に統合して八郎潟町立八郎潟小学校となる)、八郎潟町立八郎潟中学校を卒業後、1980年に県内一の進学校であり、県内では野球強豪校でもある秋田高校に進学。野球部では、高校通算32本塁打の活躍をするも、県内では秋田経済法科大学附属高校(現:明桜高等学校)が強く、甲子園への出場は逃した(秋田高校は石井が卒業した直後の年に、夏の甲子園に出場している)。高校卒業後に、一般入試で早稲田大学第二文学部に進学。早稲田大学野球部入部後、頭角を現し、日米大学野球選手権大会にも出場した。東京六大学リーグ通算66試合出場、241打数58安打、打率.241、15本塁打、42打点。ベストナイン1回。1987年に早稲田大学を中退し、プリンスホテルに入社[1]。サンシャインシティプリンスホテルに勤務しながらプリンスホテル硬式野球部に3年間在籍し、通算32本塁打を記録。中長距離打者として知られ、全日本でも4番を務めた。

プロ入り後

1989年ドラフト3位で近鉄バファローズに入団。アマチュア時代は全日本の4番打者を務めるほどの長距離バッターであったが、近鉄入団後初のキャンプで、当時チームの主砲であったラルフ・ブライアント鈴木貴久らが打撃練習で外野スタンドにポンポンと打球を放り込むのを見てショックを受け、プロでやっていけるか大変不安に感じたという[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

1年目は肝炎と風疹のため出遅れたが22本塁打を記録。剣道の上段の構えを思わせる豪快なバッティングフォーム[2]で、入団から5年連続して20本塁打以上を記録し、4番打者として362試合連続試合出場のプロ野球記録を樹立[3]1994年には33本塁打、111打点で打点王のタイトルを獲得した。

しかし、この年以降は故障に泣かされ成績が急降下。1996年には左手首を骨折し、2試合の出場にとどまる。同年オフ、球団が野球協約違反の50%ダウンの年俸提示をしたため、年俸調停を申請。日本野球機構からの要請を受け、一旦契約した後に読売ジャイアンツへトレード移籍(巨人は石井を受け入れた代償に抑え投手の石毛博史、若手成長株の吉岡雄二を手放すことになった)。当時、巨人の編成部長はプリンスホテル時代の監督だった石山建一が務めており、その縁故もあった。

巨人移籍後は右の代打の切り札として随所で勝負強さを見せた。日本テレビTHE・サンデー』のスポーツコーナーで『拝啓、石井浩郎です。』というコーナーが設けられ、視聴者から好評を得ていた。そのため石井が巨人を退団した後もコーナーはしばらく続けられた。

その後、2000年河本育之とのトレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍。ロッテでは移籍1年目に3番打者に定着して活躍するも、シーズン後半に左手首を骨折して途中離脱。2年目は代打要員に甘んじた。ロッテ時代の応援歌はイ・ジョンヒョンの『ワ』が原曲[4]

2001年オフに自由契約となり、横浜ベイスターズへ移籍。2002年は横浜の主軸として期待されたが、成績が振るわず同年限りで現役引退。10月4日に行われた対巨人戦で最後の打席に立ち(この打席の時、レフトスタンドの巨人ファンから巨人時代の応援歌が流れていた)、ベンチに引き揚げるときには、横浜のメンバーだけでなく、かつての同僚である巨人のメンバーからも拍手で送られた。なお、もしも巨人相手に本塁打を打っていれば、全12球団から本塁打を達成するところだったが、引退試合の打席はショートフライに倒れた。

プロ引退後

引退後は実業家として飲食店などの経営を手がける。現役時代の福岡遠征時に食べたもつ鍋の味に惚れ込み[5]、博多もつ鍋のチェーン店のオーナーとなる。2007年秋には地元にも秋田店を出店[5]

野球界では2003年に日本テレビの野球解説者を務める。

2004年には西武ライオンズ二軍監督を務めたが1年で退任。西武二軍監督としては中島裕之を育てた実績がある。バットを大上段に構える中島のバッティングフォームは石井直伝のものである[6]2005年よりプロ野球マスターズリーグに参加。

2010年2月14日、同年夏の参議院選挙1人区秋田県選挙区より自由民主党の公認を得て立候補する意向を示した。自由民主党秋田県支部は、翌15日に開催した常任幹事会で正式に擁立することを決め、党本部に公認を申請することとし、同日付で石井は自由民主党に入党した。2010年7月11日、参議院選挙1人区秋田県選挙区にて当選。

エピソード

私生活では巨人移籍後の1997年シンガーソングライター岡村孝子と結婚し一女をもうけるが、引退後の2003年に離婚(子供の親権者・扶養は岡村)。

2006年8月に早大の後輩にあたる元モデルの女性と再婚した。趣味の一つである将棋では、プロ棋士島朗の指導を受け、テレビ番組で島と対局し、雑誌『将棋世界』誌上にて女流棋士とそれぞれ対局したことがある[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。NHK BS2で毎年正月に放送される「大逆転将棋」には複数回出演している。2009年に秋田市で初めて開催された名人戦 (将棋)七番勝負(第67期、羽生善治郷田真隆、第5局)では、島とともにトークショーに出演し[7]、羽生が名人位防衛を果たした後の就位式(7月24日)では乾杯の音頭を務めた[8]

近鉄時代はチーム内で将棋が流行しており、大石大二郎らとよく指していた。ロッテ時代は、黒木知宏の「将棋の師匠」となった[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

プロ野球における成績詳細

年度別打撃成績

















































O
P
S
1990 近鉄 86 319 263 48 79 12 1 22 159 46 1 0 2 3 46 0 5 57 3 .300 .410 .605 1.015
1991 96 371 331 52 96 17 2 21 180 55 0 3 1 2 36 3 1 56 9 .290 .359 .544 .903
1992 128 540 473 68 137 27 1 29 253 89 4 3 0 4 58 4 5 59 16 .290 .370 .535 .905
1993 130 552 475 74 147 26 5 22 249 80 0 2 0 7 65 2 5 46 5 .309 .393 .524 .917
1994 130 574 487 88 154 31 2 33 288 111 1 0 0 6 74 6 7 87 12 .316 .409 .591 1.001
1995 47 178 152 20 42 7 0 6 67 17 1 0 0 2 23 2 1 22 5 .276 .371 .441 .812
1996 2 7 7 1 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .286 .286 .286 .571
1997 巨人 25 100 87 8 29 5 0 1 37 14 0 0 0 2 10 0 1 14 2 .333 .400 .425 .825
1998 74 184 154 16 39 5 1 4 58 27 0 0 0 4 23 0 3 21 3 .253 .353 .377 .730
1999 91 222 186 29 48 6 0 11 87 32 0 0 0 3 31 4 2 34 3 .258 .365 .468 .833
2000 ロッテ 95 368 312 37 83 15 0 10 128 51 0 0 0 3 48 2 5 49 12 .266 .370 .410 .780
2001 36 100 87 7 22 7 0 3 38 12 0 0 0 0 13 0 0 18 3 .253 .350 .437 .787
2002 横浜 34 87 77 3 16 3 0 0 19 2 0 0 0 1 6 0 3 18 2 .208 .287 .247 .534
通算:13年 974 3602 3091 451 894 161 12 162 1565 536 7 8 3 37 433 23 38 483 75 .289 .379 .506 .886

各年度の太字はリーグ最高。

年度別守備成績

年度 一塁 三塁 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1990 42 235 16 4 23 .984 28 15 58 2 8 .973 1 0 0 0 0 .000
1991 14 122 9 2 7 .985 5 2 12 1 1 .933 -
1992 94 768 71 5 71 .994 35 23 48 4 3 .947 2 0 0 0 0 .000
1993 130 1117 89 6 101 .995 - -
1994 124 1108 80 6 102 .995 13 4 11 2 1 .882 -
1995 41 377 29 1 39 .998 - -
1996 2 17 0 0 2 1.000 - -
1997 3 20 0 0 2 1.000 22 10 24 4 0 .895 -
1998 15 114 4 2 11 .983 24 12 23 1 1 .972 -
1999 45 396 27 5 30 .988 - -
2000 48 372 21 4 38 .990 - -
2001 17 117 7 1 14 .992 2 1 1 0 0 1.000 -
2002 23 173 13 1 15 .995 - -
通算 598 4936 366 37 455 .993 129 67 177 14 14 .946 3 0 0 0 0 .000

背番号

  • 3 (1990年 - 1996年、2000年 - 2002年)
  • 6 (1997年 - 1999年)
  • 82 (2004年)

タイトル・表彰・記録

個人記録
  • 初出場 1990年5月8日、対ダイエー戦(北九州) 7番・指名打者で先発、4打数無安打
  • 初安打・初打点 1990年6月13日、対ダイエー戦(大阪) 濱中から適時打
  • 初本塁打 1990年7月4日、対ダイエー戦(大阪) 杉本から中越ソロ

脚注

  1. ^ 後掲外部リンク「石井ひろお オフィシャルサイト」より(2010年4月20日閲覧)。
  2. ^ バッティングフォームが「まるでが刀で叩っ斬っているようだ」と例えられ、その他にも勝負強いこと、あまりしゃべらないことなどから「現代の侍」「野球界の侍」「侍石井浩郎」などと呼ばれていた。『THE・サンデー』のコーナーでも、やたら「ディヤー」「おりゃー」などと小野田英一が担当した渋い声で叫ぶナレーションが付けられており、ロッテ時代に発売された弁当も「武士(もののふ)石井浩郎弁当」であった。
  3. ^ 1995年に4番打者の連続試合出場記録を樹立したが、このシーズン石井はかかとを亀裂骨折しており、第1打席だけ登場してその後代打が出されるなどの記録達成のためだけの出場が続き、近鉄首脳陣に対してファンから非難の声が上がった。このことが石井の選手生命を縮めたと指摘するファンもいる。
  4. ^ 移籍後は伊与田一範に転用され、2004年からは今江敏晃の応援歌として使われている。
  5. ^ a b 秋田出店の頃、秋田朝日放送サタナビっ!」で紹介。
  6. ^ ちなみに中島自身は「相手投手に呼吸を読ませないために、口を隠すようになった結果こうなった」と週刊文春のインタビューに答えており、現在のフォームは自分で確立したものとしている。この打法は「ぶった切り打法」と呼ばれる。
  7. ^ 将棋名人戦七番勝負第5局1日目ダイジェスト(2010年2月16日閲覧)
  8. ^ 第67期名人就位式(日本将棋連盟・2010年16日閲覧)

関連項目

外部リンク