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織田達勝

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織田 達勝(おだ たつかつ/みちかつ、生没年不詳)は戦国時代武将幕府管領斯波氏の家臣。尾張下四郡の守護代官位大和守[1]。『信長公記』によると父は織田寛定[2]織田勝秀とも[3])。尾張清洲城主。子、又は養子に織田信友(彦五郎)。娘は織田信秀正室(後に離縁される)。

経歴

1513年永正10年)、兄とされる先代の織田達定が尾張守護斯波義達と争い、殺害された後(義達の遠江遠征が原因とされる)、まもなく清洲織田氏(織田大和守家)の後継者として歴史の表舞台に登場する。清洲三奉行の補佐を受けるも、やがて、三奉行家の一つで家臣筋の「織田弾正忠家」当主である勝幡城織田信定が台頭するようになる。

1530年享禄3年)、守護の斯波義統の代理として兵を率いて上洛したが、軍事目的ではなかったのでそのまま帰還した。この行動は織田氏一族の反発を招いてしまった。1532年天文元年)頃には信定の後継者である「織田弾正忠家」当主の織田信秀と争い、達勝は同じ三奉行家の「織田藤左衛門家」と共に信秀と戦ったが、その後、和睦している。

没年については不詳であるが、永正年間後半から天文年間の後半まで存在が確認され、非常に長期間にわたり守護代の地位にあったと推測される。その後は達勝に代わり、信友が新たな守護代となった。

なお織田氏の出自については諸説あるが、1518年永正15年)、達勝自身が勝獄山円福寺愛知県春日井市)に提示した禁制に「藤原達勝」とあり、このことから少なくとも達勝自身は藤原氏を称していたと伝わる。

参考文献

脚注

  1. ^ 『寛政重修諸家譜』
  2. ^ 『信長公記』
  3. ^ 『寛政重修諸家譜』