コンテンツにスキップ

早川崇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。210.224.213.205 (会話) による 2007年7月9日 (月) 08:19個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎翻訳書)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

早川 崇はやかわ たかし大正5年(1916年8月21日 - 昭和57年(1982年12月7日)は、昭和時代の日本政治家自由民主党衆議院議員自治大臣国家公安委員長労働大臣厚生大臣を歴任した。

来歴・人物

大正5年(1916年)8月21日和歌山県田辺市に生まれる。旧制第三高等学校を経て、昭和16年1941年東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。東大では矢部貞治の門下で、同期生には中曽根康弘小沢辰男がいる。高等文官試験に合格し東大卒業後、内務省に入省する。さらに戦争激化で海軍に志願し海軍主計科士官となる。

昭和21年(1946年第22回衆議院議員総選挙に無所属で立候補し、当選する。同年9月には国民党の結成に参加。翌1947年3月には、協同民主党との統合により、国民協同党所属となり、三木武夫委員長のもとで書記長に就任する。同年の総選挙から、選挙制度が大選挙区制から中選挙区に改められ、和歌山2区からの立候補となる。1948年には国民協同党を離れ、社会革新党の結党に参加する。1950年4月、社会革新党を離れ、国民民主党の結党に参加。その後、改進党所属となるが、1953年の総選挙では落選。1955年の総選挙に日本民主党から出馬し返り咲きを果たし、同年11月の自由民主党結党に参加する。

昭和38年(1963年第2次池田内閣の自治大臣兼国家公安委員長として入閣する。昭和39年(1964年3月24日ライシャワーアメリカ駐日大使が米国大使館前で、統合失調症の少年に右腿を刺され負傷する事件が起こったため、翌3月25日国家公安委員長を引責辞任する。

昭和41年(1966年)、第1次佐藤内閣で労働大臣として入閣し、この頃から福田赳夫に接近する。昭和47年(1972年)自民党総裁選挙では、福田支持を表明したため三木と対立し菅野和太郎中村寅太らとともに三木派を脱退。

三木が首相となり、三木おろしが激しくなる中、昭和51年(1976年三木改造内閣に福田の意向に反して厚生大臣として入閣する。

議員在任中の昭和57年(1982年)12月7日死去。66歳。衆議院議員を通算14期務めた。

学究肌の政治家であり、イギリスの政治などについて、著作、翻訳を多数残した。また、日本バングラデシュ協会会長として、バングラデシュとの友好に尽くした。

関連図書

著書

  • 新保守主義の政治哲学」
  • 「祖国への反省」
  • 「これからの雇用」
  • 「世界を観る」

翻訳書