コンテンツにスキップ

清原和博

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。202.70.217.14(会話) による 2009年9月7日 (月) 07:05個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (一軍未出場年を記載しない)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

清原 和博
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府岸和田市
生年月日 (1967-08-18) 1967年8月18日(56歳)
身長
体重
188 cm
104 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手指名打者
プロ入り 1985年 ドラフト1位
初出場 1986年4月5日
最終出場 2008年10月1日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

清原 和博(きよはら かずひろ、1967年8月18日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手内野手)、野球評論家

経歴

小学生~中学生時代

清原の実家は電器店(東芝)を経営。清原の祖父や母が巨人ファンであり、また清原もその影響で巨人ファンとして育った。1974年には巨人は中日ドラゴンズにV10を阻止され、翌年は広島東洋カープにリーグ優勝をさらわれた。祖父が応援する巨人が2年連続で優勝を逃したことが、野球に入っていくひとつのきっかけであった。

1974年、岸和田市立八木南小学校に入学。ここで野球を始めた清原は、岸和田リトルリーグの部員募集ポスターを見て入団テストを受け、岸和田リトルリーグに入団。毎日祖父から100円をもらい雨の日でも風の日でも毎日欠かさず練習をしていた(この頃に金銭をもらって野球をする感覚を覚えた)。

1977年、6年生ばかりのレギュラーに混じり唯一4年生でレギュラーを獲得。その後投手としても才能を発揮し、6年生の最後の試合ではエースで4番を務め、完全試合を達成した。

その後、岸和田市立久米田中学校に進学するとともに、岸和田シニアリーグに移り、中学2年生にしてキャプテンとして関西シニアで優勝を果たす。3年時には日生球場のネットを揺らす本塁打を放った。

高校時代

高校は30校近いスカウトの中からPL学園高校を選ぶ。天理高校かPL学園かどちらに行くかで悩んでいたが、両校の練習を見学した際に、天理高では3年生が練習をし1年生が球拾いをしているのに対し、PL学園では学年に関係なく同じメニューの練習ができることが決め手となった。入学当初は投手を希望していたが同期の桑田真澄の並外れた実力を知り、「(桑田には)絶対勝てない」と野手を選んだ(新入部員が最初に集まった際に、清原は名の通っていた桑田を探しその姿を発見すると「なんだ こんな小さい奴か」と思ったが、実際の投球を見て度肝を抜かれ観念したと後にコメントしている)。一方桑田はこの時、清原をはじめ自分よりも一回りも二回りも体格のいい選手たちがたくさんいたことで自信をなくし、高校野球では通用しないかもしれないと思っていた。

当時はバッティング練習の際には飛距離の出ない竹バットを使用していたが、ネットを軽々越えて場外に飛ばしていたために清原用の金網が継ぎ足されたという逸話が残っている。

全国から精鋭の集まるPL学園野球部にあって1年生から4番に座り、エース桑田とともに甲子園に5季連続出場を果たす。1年生のに優勝、2年生のは共に準優勝、3年生のはベスト4、3年生のは2度目の優勝を経験している。

特に清原と桑田はKKコンビと呼ばれ、後には桑田清原世代と呼ばれるようになるこの世代を代表する人物となった。後に共にプロに入団した松山秀明(元オリックス)、今久留主成幸(元:横浜大洋西武)、内匠政博(元:近鉄)も、共に活躍した。

個人としても甲子園通算13本塁打を放つなど、高校通算64本塁打を記録。3年夏の決勝戦でこの試合2本目、1大会の新記録となる5号を放った際、植草貞夫アナウンサーは「甲子園は清原のためにあるのか!」と実況した。3年生春の浜松商戦と同年夏の東海大学山形高等学校戦(ともに大量得点差のついた最終回)では監督に懇願し、投手として登板させてもらった。

豪快なホームランなど、試合での活躍が多くの伝説を生んだが、練習に対する姿勢も真摯であった。そのエピソードとして、3年春のセンバツ準決勝で伊野商渡辺智男に3三振と完璧に抑えられ、チームも3-1で敗れた際は試合後ベンチで涙を流したが(高校三年間で唯一甲子園大会の決勝に進むことができなかった)、その日学校に戻ってからの夜、監督の中村順司が誰もいないはずの室内練習場に明かりがついているの見つけて中をのぞいてみると、上半身裸の清原が、湯気のような汗を流しながら一人で黙々とバッティング練習をしていたという。

西武時代

子供の頃から熱烈な巨人ファンであった清原本人は巨人入りを熱望していたが、巨人は早稲田大学進学を表明していた桑田をドラフト1位で強行指名。当の清原は南海日本ハム中日近鉄西武阪神の6球団から1位指名を受けた(KKドラフト事件)。もし巨人に入団できなければ、同一リーグで実家から近い阪神を希望するも、抽せんの結果西武が交渉権を獲得。ドラフト会議直後の記者会見では、失意で涙を溜めた姿が放送された(後に関西の番組にて、記者会見を行った机は、巨人の桑田指名とほぼ同時に真っ二つに叩き割ったと語った。また清原を慕っていた後輩達が桑田をシメに行こうとなったところ、清原が制したという)。後に自宅で泣く清原を見て、母親が「あんたが勝手に惚れて、勝手に振られたんやないの。男らしく諦めなさい。男なら見返してやりなさい。泣いてる暇なんてないはずやで!」と言い聞かせ、プロに入り巨人を見返してやるとの思いを強くした(なお、この年の巨人はチーム事情から桑田を含めて1位から4位まですべて投手を指名。また当時の巨人は一塁に中畑清、三塁に原辰徳がおり、巨人に入団しても当初は出場機会は少なかったと思われる)。

清原はそのまま西武に入団。背番号3が与えられた。ルーキーイヤーの1986年、開幕2戦目に守備固めで登場すると、第1打席の四球の後第2打席にはプロ初安打となる初本塁打を打つ。その後も打ち続け、高卒新人では史上最多の31本の本塁打を放って新人本塁打記録の最多タイを記録。打率.304及び打点78も同じく高卒新人の歴代最高記録で、新人王に選出された。その年の日本シリーズには8試合すべてに4番・ファーストで先発出場し、日本一に貢献している。またこの年流行語大賞を獲った「新人類」の代表のように言われ、工藤公康渡辺久信と表彰式に出席した。

黄金時代の西武にあって4番に君臨し、3番秋山幸二とのコンビは「AK砲」と呼ばれた。後にオレステス・デストラーデが加わり「AKD砲」となる。全盛期には『三冠王に一番近い男』と呼ばれた。また、西武入団時には当時の球団代表であった坂井保之から「四冠王を目指してほしい(打率・本塁打・打点+盗塁)」と期待されるほどの俊足であった。清原自身は盗塁に意欲的ではなかったが、2桁盗塁を二度マークしている。

かつては王貞治を超えるのは清原しかいないとまで言われ、入団4年目の1989年6月4日には史上最年少となる21歳9ヶ月での100号本塁打を達成。3年後の1992年6月26日には同じく史上最年少となる24歳10カ月で200号本塁打を達成した。引退後、西武時代は毎年自らの年度ごとの通算本塁打数を王のそれと比較していたと語った。

守備も上手く、一塁手でゴールデングラブ賞を5度受賞している。なお年に数試合は三塁を守り、日本シリーズのセ・リーグの本拠地での試合でも、普段は指名打者のデストラーデが一塁、清原は三塁を守った。

1990年オフ、当時としては史上最年少となる23歳で1億円プレイヤーとなった。

1986年から1988年まで、1990年から1994年までの8度のリーグ優勝、6度の日本一(1986年~1988年、1990年~1992年)に貢献。日本シリーズでは一度もMVPは獲れなかったが1986年、1988年は優秀選手に、敗戦した1993年、1994年は敢闘賞に選ばれている。

なお、西武入団時は自分に合うサイズのヘルメットがなく困っていたところ、たまたま1980年に同球団で引退した野村克也のヘルメットを発見し、これがピッタリ合ったため着用。その後、引退まで23年間チームが変わる度に色を塗り直しながらこのヘルメットを使い続けた。

巨人時代

1996年暮れにFA宣言。阪神監督・吉田義男の「(ユニフォームの)縦縞を横縞に変えてでも…」、巨人監督・長嶋茂雄の「僕の胸に飛び込んできなさい」という口説き文句が話題となる(だが当初長嶋は清原を獲得する意思はなく、渡邉恒雄に「視聴率になるから」と促されての獲得だった)。5年契約で念願の巨人に移籍し、背番号は、長嶋が自らの永久欠番3を譲る考えも明らかにしたが、5に決定(後に契約金は阪神の方が倍近く高かったが長嶋監督の心の広さに感銘した、とTV番組で明かしている)。なお、このことで同じファーストを守る当時43歳の落合博満が出場機会を求め日本ハムに移籍。巨人退団会見で落合は「清原と勝負して負けるとは思わないが、(落合と清原の)どちらを使うかで悩む監督の顔は見たくない」というセリフを残している(自由契約で移籍するにもかかわらず長嶋監督が記者会見に出席した。)。3番松井秀喜とのコンビは「MK砲」と呼ばれた。後に高橋由伸が加わり「MKT砲」となる。1997年は開幕から4番を務めたが、阪神の4番の桧山進次郎と三振数を争って当時のリーグ新記録152三振を記録し(桧山は150三振)、一時は応援ボイコット(応援歌・コールなし)も受けた。最終的には.249、32本塁打、95打点の成績に終わった。本塁打、打点は前年より多く、主砲として申し分の無い数字だが、巨人でのプレッシャーからか前半はスイングに力強さがなく打率が伸び悩んだ。 何より清原にとって不運だったのは「平成の大エース」斎藤雅樹が急激な衰えが始まり、この年から投手に依存した戦いが不可能となっていたことであったが、西武時代に比べテレビ放送が多い巨人では、優勝戦線から離脱したチームで「清原の三振や凡打で負けた」印象が目立ち、大いに期待外れの印象を残してしまった。

1998年前年の反省から、長年の神主打法からの大幅な打撃フォーム改造を敢行した。セリーグの厳しいインコース攻めに対応するため、より最短距離で球を捉えようと、これまで垂直気味に立てていたバットを寝かせ、グリップも一握り余すなどプライドを捨ててまで清原は再起に懸けていた。そうして3番清原、4番松井で始まったシーズン当初、膝の故障もあって不振に苦しむ松井とは対照的に、清原は打撃改造の甲斐あって絶好調。4月は広島の前田智徳を抑え月間首位打者で終えるなど順調なスタートを切り、4番の座を松井から奪い取った。しかし左太腿肉離れなど故障もあって次第に調子を落としていった。結局、清原はこの年100試合近く4番を打ち.268、23本塁打、80打点の成績を残し、原辰徳の12年連続を上回り、プロ入りから13年連続20本塁打の日本記録を達成したが、この年以降常に下半身の故障に悩まされることになる。

1999年は開幕から怪我に悩まされ、阪神タイガース藪恵壹からの死球で左手を亀裂骨折。さらに6月には広島戦でクロスプレーの際に右足靭帯を負傷。出場試合数は86試合、成績は.236、13本塁打、46打点に留まり、前年までの「連続20本塁打記録」は13年で途切れてしまった(ただし右足の負傷は膝側副靭帯断裂という重症であり、手首亀裂骨折とあわせ強行出場を続けさせた球団の姿勢にも疑問が上がった)。いよいよ土俵際となった清原はオフに鹿児島・最福寺にて護摩行を敢行。すべての煩悩を焼き尽くし意を決した清原はアメリカに飛び筋力トレーニング(「肉体改造」)に励む(詳細は後述)。 2000年もキャンプ中に肉離れを起こし、プロ入り初の開幕二軍スタートとなった。その際、巨人のオーナーであった渡邉恒雄には「(清原が一軍にいないことで)勝利要因が増えたな」とまで言われた。。しかし、7月7日の復帰後初打席で代打3ランを放ち復活をアピール。7月12日の毎年恒例の札幌シリーズ(札幌円山球場)では先発メンバー入りし、場外本塁打でプロ入り通算400号本塁打を達成[1]。夏場にはレギュラーの座に返り咲き、75試合の出場で.296、16本塁打を記録。日本シリーズでは3番打者として活躍した。またこの年、モデルの木村亜希と結婚している。

2001年は5年契約の最終年であり、これまでの成績から契約更新は絶望的であるといわれていた。しかし清原は開幕から大きな怪我をすることなく打ち続け、特にチャンスに滅法強く終盤まで打点王争いをするなど、打率.298、29本塁打、121打点と好成績を残し(打点は自己ベスト)、年俸大幅アップと4年契約を勝ち得た。

2002年も開幕から好調であったが、故障のため戦線離脱。シーズン終盤には復帰し55試合出場に終わるが、.314、12本塁打と一定の成績は残した。この年の開幕第2戦(巨人 - 阪神:東京ドーム)で400号本塁打達成時に目標にしていた尊敬する長嶋監督の現役通算本塁打数「444」本に並ぶ。またそれは試合当日、解説を担当していた長嶋前監督(現巨人軍終身名誉監督)の目の前で放った。故障を押して出場した日本シリーズでは松坂大輔から本塁打を放つなど巨人の日本一に貢献した。また8月23日には長男が誕生した。

2003年は松井移籍数日後、燦々会の会合で原辰徳監督に早々と4番に指名され、故障に悩まされ続けながらも打率.290、26本塁打を記録している。しかしシーズン後半にはペタジーニが4番を打つことが多くなり、(ペタジーニも規定打席不足ではあるが)清原は主に5番を打ち114試合、341打数と評価の分かれるシーズンとなる。

2004年はペタジーニとの併用で出場試合数が減少。史上31人目、巨人の選手では落合以来6人目の2000本安打を達成するが、成績は.228、12本塁打と低迷。同年シーズン終了後、監督の堀内恒夫の戦力構想から外れたことが判明。退団の危機に陥ったが、滝鼻新オーナーに「編成権は監督にあるのか、フロントにあるのか」と直談判、巨人には契約があと1年残っていたこともあり、なんとか残留を果たす。残留決定の際、「泥水をもすする覚悟で精一杯プレーしたい」とコメントした。

2005年の清原は、400m日本記録保持者、東海大学陸上競技部コーチの高野進から走法の指導を受け、下半身の強化に努めた。また、ダイヤのピアスを両耳に付けて試合に臨んだ。これは一般にメジャーリーガーであるバリー・ボンズにあやかったと受け取られていたが、実際には後に自らの著書「男道」で「巨人軍に契約交渉の席で煮え湯を飲まされ、その悔しさを忘れないために刺青の代わりにつけた」と述ている。このピアスに関しては巨人OBをはじめ、他球団のOBからも評判は良くなく、野村克也など苦言を呈す人も多かった。なお、元来巨人は茶髪、ひげ、ピアスなどは禁止であったが、当時の監督堀内もキャンプでは無精ひげを生やし、タブロイドには「お山の大将同士の冷戦」と揶揄された。

この年、開幕4番を打ち、4月14日の阪神戦で、福原忍から本塁打を打ち、本塁打を打った投手の人数が200人に到達(史上初)した。4月29日広島戦(広島市民球場)で広池浩司から本塁打を打ち、史上8人目の通算500本塁打を達成。その後もしばらくは本塁打、打点の暫定2冠王で、打率も一時.269まで上昇した。 オールスターに出場しホームランを放った。清原自身は低打率だったものの清原を中心に打線が機能しチームも首位を維持。しかし5月以降は主に6番を打つことが多くなるとチームも低迷。

しかし、交流戦のオリックス戦で投手の山口和男から頭部への死球を受け、下半身の故障も重なって成績は徐々に低迷し、張本勲に並ぶ入団以来20年連続2桁本塁打を記録するも、打率は自己最低となる.212に終わった。

2005年4月21日の対阪神戦で、2対10と巨人が敗色濃厚のゲームで、二死満塁、カウント2-3での場面で、藤川球児にフォークを投げられて三振を喫した際に「8点差、ツーアウト満塁でフォーク、チンコついとんのか!!」との発言が物議をかもし、「八百長の強要ではないか」とまで批判するものもあった。 ケガで復帰した8月4日の対広島戦で、4回表に本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周した後、ベンチで堀内とのハイタッチを拒否した。7番打者で起用されたことに激怒したとされているが、この本塁打が巨人時代最後の本塁打となってしまった。結局これらの確執が響いてか、シーズン終了を待たずに球団から戦力外通告を受け、12月に正式に自由契約選手として公示された。

清原は巨人からの戦力外通告について引退の翌年に関西テレビで放送された『男の一升瓶』という清原を特集した特別番組で、「視聴率が取れなくなったからという理由で辞めさせられるのは悔しい」と後輩の片岡篤史たちに語り、同番組内にて「巨人は富士山と一緒で、遠くから見れば綺麗。けど登ってみるとゴミだらけ」と発言した。しかし、「巨人に入団して後悔しているか」との質問に対しては「No」と回答、「巨人時代の苦労が自分自身を成長させてくれた」と語っている。清原の巨人在籍期間は9年で、FA移籍における移籍先在籍の最長記録である。

なお、この年のオフ巨人は清原やタフィー・ローズが解雇、元木が引退、江藤智が人的補償で移籍するなど、ベテラン野手が数多く入れ替わったなかで桑田がその対象には入らなかったため、「素行の悪い清原とは違い、真面目で練習熱心な桑田は好成績が残せなくとも、野球に取り組む姿勢が若手に好影響を与えるとの理由で残された」などといった憶測が出た。桑田が残された理由は先発投手防御率6点台という先発投壊のためと推測され、元木の引退理由も腰痛ということが判明しているため、清原らの構想外は来季を見据えたうえでと思われるが、2006年の巨人は編成の憶測とは逆に野手不足でAクラスを逃したため、「もしそのような理由で解雇したのであれば、退団した野手を残しておけば」といったファンの不満が多かった。

  • 同年監督を辞任した堀内は週刊ポストで「清原は野球に向かない。団体競技である野球に進んだのが間違い」と批判している。
  • 一方、自らも長年巨人の4番をつとめ、V逸のスケープゴートになり続けた経験も持つ原辰徳現巨人監督は、自己のホームページや月刊ジャイアンツなどのロングインタビューで清原のプレーを引き合いに出すことが非常に多かった。「チームプレーを知っている最高の選手。サインを最大限に解釈してくれる。こういう選手がまだ巨人には少ない」「(当時の高橋由伸二岡智宏に対して)清原の背中を見て学んでほしい」など、清原に対しての賛辞を惜しんでいない。

オリックス時代

巨人から戦力外通告を受けた2005年シーズン終了後、オリックス・バファローズのシニアアドバイザーである仰木彬が「大阪に帰って来い。お前の最後の花道は俺が作ってやる」とオファーし、オリックス入団が決まった。仰木は以前から清原を買っており、近鉄の監督1年目だった1988年、10.19決戦で優勝を逃してしまったが、清原はこの近鉄の激闘に心打たれ、中日との日本シリーズを制したあとのインタビューで「これで近鉄の選手の皆さんに顔向けができます」と語った。これを観た仰木は「なんて男気のある選手なんだ」と感心し、以来ことあるごとに清原に声を掛けていた。直後に仰木は肺癌による呼吸不全で死去してしまったものの、それ以降清原は仰木を「野球界で最も尊敬する人物」として語るようになった。ただ、オリックス入団の決断は仰木の死去後に下されたため、「他球団からのオファーが無かったことを確認してからオリックス入りを決めた」との批判もなされた。が後に本人は「入団は決意していたが、膝の具合をみて自分が戦力になるかどうか判断したかった」と否定している。仰木は近鉄との球団合併前年のブルーウェーブ時代、2004年のオフも熱心に清原を勧誘していた。

背番号は巨人時代に引き続き5(当初は西武時代の3と巨人時代の5を足した8も用意されたが、8は同年入団の中村紀洋がつけた)。入団会見では「ヒットにせよデッドボールにせよ、塁に出てチームの勝利に貢献したい」と新たな決意を語った。 当時体重は120kgに達していたが、2ヶ月足らずで約20kgの減量をした。また球団が吉本興業と業務提携を結んでいることから、中村らと共によしもと新喜劇にも出演した。

2006年、開幕後しばらくは清原の持ち味であるセンターからライト方向へのヒットや四球が目立った。5月21日の阪神戦に代打で出場し、満塁で中前適時打を放って史上8人目の通算1500打点を達成。5月26日の横浜戦で通算517号となる3号ソロ本塁打を三浦大輔投手から右翼席に放ち、史上12人目の4000塁打を達成。翌5月27日の横浜戦では、9回裏に4号逆転サヨナラ満塁本塁打をマーク・クルーン投手から放ってチームを勝利に導いた。なお、このサヨナラ本塁打で野村克也の持つ通算サヨナラ本塁打記録11本に並んだ。7月23日のオールスター第2戦では、8回2死走者なし代打で登場し藤川球児と対戦、あと1本と迫っていたオールスター最多本塁打記録を狙ったが、空振り三振に倒れている。8月29日の西武戦で長田秀一郎から10号サヨナラ本塁打を放つ。この本塁打で21年連続2桁本塁打を達成し、通算サヨナラ本塁打(12本)及び通算サヨナラ安打(20本)でプロ野球歴代単独トップに立った。一方で、死球を受けた後日、死球についてインタビューされた際に「もしそういうことがあれば命をかけてマウンドに走っていき、そいつを倒したいと思う。」と報復を宣言したともとれる発言をしたため問題になった。9月2日のロッテ戦で初回に清水直行から11号3ラン本塁打を放つ。2007年2008年シーズンは本塁打が出なかったため、一軍ではこれが現役最後の本塁打となった。

2007年もキャンプ中に左ひざを痛めて離脱し、2月28日に左膝の軟骨除去手術を行う。交流戦での復帰が報道されたこともあったが回復具合は思わしくなく、7月6日に神戸市内の病院で左膝に移植手術をし、この年はプロ入り以来初めての一軍試合出場なしに終わった。

その後記者会見で、「桑田の、メジャーでの頑張りを見てたらね、桑田がこんなに頑張ってるんだからって思うし、僕も現役を続行したい」と宣言。「普通の選手ならこんな大手術を認めてもらえないのに、球団にはそれを認めてくれた事に感謝している」と語っている。2007年12月10日に契約更改を行い、野球協約による減額制限(40%)を上回る45%・9000万ダウンの1億1000万円の単年契約でサインした。

2008年7月31日、532日ぶりに一軍に合流。しかし、8月2日に記者会見を開き、「こんな状態なので、来年はグラウンドに立てないと思う」と話し、同年限りでの現役引退を事実上表明した。この1日に、清原関連の球団グッズは5000万円を売り上げた。これはオリックス全選手一年分の売り上げに相当するという。

8月3日ソフトバンク戦で7回に代打で695日ぶりに登場したが、大隣憲司の前に空振り三振。翌日の同戦でも再び代打で登場し三瀬幸司のストレートをセンター前に打ち復帰後初のヒットを打った。

8月18日西武ドームでの埼玉西武ライオンズ戦終了後、「現役選手として最後の誕生日を、ここ(西武ドーム)で迎えられて嬉しかった」と語り、同年限りでの現役引退を決めていることを明らかにした。

9月29日、プロ入りから11年間を過ごした西武ドームでの埼玉西武ライオンズとのカード最終戦終了後、グラウンドに出てライトスタンドのライオンズファンの清原コールに応えたあと、バファローズとライオンズの両軍選手が清原を胴上げするというセレモニーが行われた。西武時代のチームメイトで、合宿所で同部屋だったこともある渡辺久信監督からも花束贈呈があった。また、西武時代に背番号3番を着けていたので、現在の3番中島裕之とユニフォームを交換した。

引退試合

10月1日京セラドーム大阪でのオリックスのシーズン最終戦、対福岡ソフトバンクホークス戦が清原の引退試合となった。通常、前売り入場券は試合の1か月前、但しその日が月曜日の場合はその翌日に発売開始されるのが通例だが、オリックスは特例として月曜日の9月1日に発売開始の措置を取った。入場前売り券は発売開始から1時間足らずで完売した。

イチローや同年に引退した桑田真澄らが見守る中[2]、4番DHで先発出場。試合前には対戦相手の王貞治監督から花束贈呈もあった。

外野スタンドから西武・巨人・オリックスの在籍時代の応援歌が順に演奏される中、第1打席は2回先頭打者、2ストライクから3球目をライトフライ。第2打席は4回裏1死一塁で4球目を空振り三振。第3打席はオリックスが3-1とリードした6回裏1死一塁で5球目を右中間タイムリー二塁打(打点1)。これが現役最後の安打・打点となった。8回裏1死での最終打席は6球目を空振り三振に終わる。清原は杉内にヘルメットを脱いで一礼し、空振りしたボールは記念球として、この試合で球審を務めた東利夫から清原に手渡され、清原はこのボールに『杉内へ 最高の球をありがとう 清原和博』とサインし杉内に贈った[3]。試合は4-1でオリックスが勝利した。ウイニングボールは完投勝利を記録した近藤一樹から清原に手渡されたが、清原はこのボールにもサインを入れ近藤に贈っている。

試合終了後の引退セレモニーでは、オリックス選手会長の北川博敏阪神タイガース金本知憲から花束が贈呈され、歌手の長渕剛が『とんぼ』をアコースティック・ギターの生演奏で熱唱した。引退挨拶では自分が所属した西武・巨人・オリックスおよび各球団ファン、そしてオリックス入団への道を開いた仰木彬に感謝の気持ちを述べ、最後に「今日、引退させて戴きます。全国のプロ野球ファンの皆様、23年間、応援どうも有難うございました」と涙ながらに締めくくった。その後場内を1周し、ホームベース上でオリックス選手団によって胴上げが行われた。

10月2日、オリックス球団は本人の希望で清原を任意引退選手として申請し、同日パシフィック野球連盟から公示された[1]。オリックスはこの年2位に入りクライマックスシリーズ出場権を獲得したが、清原は出場の辞退を自ら申し入れた。そのクライマックスシリーズ・ファーストステージ(対北海道日本ハムファイターズ)では選手の要望で清原のユニフォームがベンチ内に掲げられ、清原本人もゲストルームから声援を送った。

評論家時代 

2009年1月29日日刊スポーツ(大阪本社)と専属評論家としての契約を交わす。2009年は評論家として活動していくこととなった。また、同時に「将来的にまず二軍監督となってキャリアを積み、そして最終的には一軍監督として日本一になりたい」とも語っている。併せて、現在は球団経営者を目指している桑田とは、監督同士としてKK対決をやりたい、という希望も語っている。

放送局との専属契約は結んでいないが、2009 ワールド・ベースボール・クラシックTBSテレビにおける実況中継の特別解説者として出演した。体調不良のため2次ラウンド2試合の出演を欠席したが、準決勝、決勝ラウンドには復帰。日本の大会2連覇に際して「日本の皆さん!日本万歳!!」の叫びで豪快に中継を締めくくった。解説者としては現役時代からの豪快なイメージとは異なり、冷静で緻密な野球解説や自らの経験をもとにした打者・投手の心理状況の変化を語るなど、ファンからは「わかりやすい」などの評価の声が上がっている。

上記の体調不良に関しては現役時代よりの左膝痛であり、同じ着座姿勢を取り続けられないためと報道されている。ラジオ局からの西武戦の解説依頼を断るなど、現在もその影響を引きずっている。また、2009年4月より、フジテレビジョンすぽると!」で不定期ゲスト解説者としてプロ野球や各種スポーツの解説をしている。

人物

無冠の帝王

清原は打者の三冠タイトルである首位打者、本塁打王、打点王の獲得経験が無いため、しばしば「無冠の帝王」と呼ばれる(タイトルを獲得していない訳ではない。詳細は野球における無冠の帝王を参照)。西武時代の監督森祇晶は清原が三冠タイトルを獲れなかった原因として「個人の欲を捨て、チームの勝ちにこだわった結果。彼のような主力がいたから、私は西武の9年間で8度も優勝できた。」と賛辞のコメントをしており、同僚であった田尾安志秋山幸二渡辺久信らも同様の趣旨の発言をしている。30本塁打以上を7回、35本塁打以上を2回マーク。キャリアハイは他の大打者と比べ平凡であるが、13年連続20本塁打は日本記録である。通算の出塁率は打率を1割以上も上回り、.389と飛びぬけて優秀である。強打はもちろん、四球を選ぶことで他の打者のアシストという面でも西武の黄金時代に大きく貢献したと言える。

また、現役中10度のリーグ優勝、8度の日本シリーズ優勝を経験しているが、シーズンMVPおよび日本シリーズMVPの獲得経験も無い。MVP選手を選出する際の得票数でも過去3度、2位(1986年、1位は石毛宏典、1990年、同・野茂英雄、1992年、同・石井丈裕)につけている。特に1990年については清原自身、一時は三冠王を視野にいれるほどの勢いで、走攻守において高いレベルの活躍を見せたが、ルーキーでありながらその剛球と切れ味鋭いフォークボールで奪三振と勝ち星を積み重ねていった野茂英雄の強烈なインパクトの前にMVPをさらわれた。

2000本安打、500本塁打、1500打点を達成した打者は日本プロ野球史上清原を含めても6人しかおらず(他は王貞治野村克也門田博光張本勲落合博満)、通算本塁打数は歴代5位、通算打点数は歴代6位(いずれも2008年シーズン終了時)を記録している。日本シリーズについては、過去に優秀選手賞を3度、敢闘賞を2度獲得している。また、オールスターMVP最多受賞記録(7度)も持っている。さらに、オールスター通算打率1位(100打数以上対象)、通算本塁打2位、通算打点1位という記録も持っており、『お祭り男』の異名を持つ。

通算三振数1955、通算死球数196の日本記録保持者でもある。死球については、西武時代の恩師である土井正博コーチが「清原に危険な内角球の避け方を教えなかったのは最大の誤算、700本は打てたはず」と語るほど避けることを苦手とする。向ってくる内角球に対し、背中を向けて避けることができず、この点は元阪神の田淵幸一などと比較されることが多い。

肉体改造と怪我との闘い

清原入団後、斎藤雅樹の急激な衰えなど、主として投手陣の崩壊により巨人はV逸したが、この間清原は敗戦の責任、メディアやファンの批判を一身に背負った。「巨人の4番」としての心労は西武時代とは比較にならず、入団当初は死ぬことすら頭に浮かんだという。「車を運転していてハンドルを離してしまいたくなった」と当時を振り返っている。

クロスプレーで足の靭帯を断裂し後半戦を離脱、初めて規定打席不足に終わった1999年オフ、藁にもすがる思いで前田日明に紹介してもらったケビン山崎のジムに通いウェイトトレーニングを開始。食事は鶏肉と卵の白身だけという生活を続けるなど、死に物狂いで鍛え続けたことで「筋肉の鎧」を手に入れる。

この『肉体改造』は30台中盤を迎えようとしていた清原の瞬発力を増加させ、圧倒的なパワーで東京ドームで看板直撃ホームラン弾を連発。もっとも効果があらわれた2001年には、5番打者として自己最高の121打点を記録した。しかしウェィトトレーニングでは1999年の故障を根本的に克服することはできず、以後肉離れや膝半月板など連鎖的な故障に悩まされる。巨人退団直前には、筋肉を減量し走方や重心を修正するなど、現在は一般にも知られるような科学的トレーニングも取り入れたが、下半身の故障は既に限界であった。清原の1999年以後の規定打席到達は2001年のみに終わっている。

なお「清原は肉体改造の結果故障しやすくなった」という誤解からか、10年前(イチロー初動負荷トレーニングを取り入れる直前の時期である)のトレーニングということを考慮せず、野球選手のウェイトトレーニングそのものを「プロレスラーのトレーニング」などと断じる傾向があるが、関節を「筋肉の鎧」で外側からガードするという方法は、現在も選択肢のひとつである(清原自身も西武時代に亜脱臼を患ったときには肩周りの筋肉を固めることで克服している)。オープン戦やシーズン終盤などでなく、シーズン中途に膝靭帯断裂という重度の負傷を抱え、不十分な回復状態で終盤戦に復帰するなど、リハビリテーションに励めなかったことも不運だったといえる。

清原和博の軌跡

  • 1985年夏、高校野球選手権決勝 対 宇部商業
    • この試合、「KKコンビ」を擁し、後に5名のプロ野球選手を送り込むことになる「高校野球史上最強」と言われたPL学園は苦戦していた。しかし、この大舞台で清原は2打席連続の本塁打を放ち、優勝に貢献する。この本塁打に際し、実況していたABC(朝日放送)の植草貞夫アナウンサーが「甲子園は清原のためにあるのか」とコメントした。自身、この試合で放った2本目の本塁打の感触を超える感触(本塁打)をプロでも未だに経験していないと話していた(ナンだ!?にて)。また、この2本はともに、リードされていた中での同点本塁打である。
  • 1985年ドラフト会議
    • 前述したとおり、高校選手としては当時としては最多の6球団からドラフト1位指名を受けるも、意中の球団の巨人からは指名を受けることなく、指名後の記者会見では悔し涙を流す。しかも巨人から指名を受けたのはエースと4番の関係で共に甲子園を制し、早稲田大学進学を表明していた盟友・桑田真澄であった。
  • 1987年オールスター
  • 1987年の日本シリーズ
    • 巨人との日本シリーズ第6戦、9回表2死。日本一までアウト1つのところで西武ベンチはタイムを要求する。一塁手の清原が涙を流していたからである。工藤は清原を見て「打者は左バッターの篠塚さん、清原は涙でボールが見えないからインコースを引っ張られ一塁に打球が飛ぶと危ない」と判断した。
    • 「巨人を破って日本一が達成できて嬉しかった」と後に清原は語っている。また、日本シリーズ初の桑田とのKK対決ではレフト前ヒットを打っている。
  • 1992年の日本シリーズ
    • ヤクルトとの日本シリーズ第2戦。荒木大輔との甲子園ヒーロー対決の第3打席、清原が本塁打を放つ。
  • 1993年シーズン中、対ロッテ戦
    • この日のロッテのマウンド上には伊良部秀輝。打席には清原。伊良部の投じた一球は当時の日本最速となる158km/hを記録し、清原はこれをファウルする。しかしその後、清原は156km/hの直球をはじき返し、右中間二塁打を放つ。
  • 1994年の日本シリーズ
    • 桑田とのKK対決では第1戦で桑田のスライダーをホームラン、第4戦では桑田のド真ん中への直球をセンターのバックスクリーンへホームラン。続く打席では第1戦に続いてスライダーをバックスクリーンへホームランし、KK対決では完勝。このシリーズで、清原自身は4本塁打の活躍を見せながらも、いい場面では打てず西武は巨人に2勝4敗で敗れた。
  • 2002年の日本シリーズ
    • 古巣・西武との日本シリーズ第1戦。マウンドには故障上がりの松坂大輔。第2打席、清原が松坂の直球を看板直撃の150m弾。4戦でもリリーフに登った松坂からタイムリーを放ち、巨人が4連勝で日本一に輝いた。
  • 2005年、シーズン中、対横浜
    • 横浜ベイスターズのストッパー・佐々木主浩の引退試合で、彼と最後に相対する打者として指名される。清原は明らかなボール球に対しても全球フルスイングで真っ向勝負し、最後はフォークで空振り三振に倒れた。そしてピッチャーマウンドに駆け寄り二人で握手を交わし、「最後に世界一のフォークが来ました」とコメントした。
  • 2005年、阪神戦、2006年オールスター戦
    • 2005年4月21日の対阪神戦で、藤川球児にカウント2-3からのフォークを投げられて三振を喫した際に「2対10の二死満塁、カウント2-3でフォーク?信じられんわ。ケツの穴、小さいな。チ○コついとんのか!!」と暴言とも言える発言をした。その藤川とは同年6月25日の試合で再度対戦するが、今度はストレートで三振を喫し、これには素直に『完敗』と認めた。それ以来、全力勝負したい選手の一人として藤川の名前を度々挙げるようになり、2006年のオールスターでも対戦したが、またも全球直球で三振した(藤川の項を参照)。
  • 2006年 シーズン中 対横浜ベイスターズ
    • 5月27日、3点差を追う9回裏一死満塁でマーク・クルーンの投じた3球目の152km/hをはじき返し、右翼席に劇的なサヨナラ満塁本塁打を放つ。「プロ21年間で一番うれしいホームラン。自分の力じゃない気がする。ファンの声援が、チームメートが…」と振り返った。この本塁打で、野村克也(現楽天監督)のサヨナラ本塁打11本に並んだ。
    • 当時オリックスの監督だった中村監督は「(清原の本塁打は)神業や。すばらしいの一言。感服した。野球人生の記憶に残った」とコメントを残している。

ニックネーム

全時代共通
  • キヨ
  • お祭り男(高校時代は甲子園、プロではオールスター・ゲームや日本シリーズなどの大舞台で活躍し、さらに通算サヨナラ本塁打と通算サヨナラ安打も歴代1位であることなどが付けられた)
西武時代
  • キヨマー(同時代に活躍した阪急の強打者ブーマー・ウェルズに対抗できる位の活躍を期待された為)
巨人時代
  • 番長(『巨人軍は紳士たれ』のスローガンにそぐわないとして、読売系列の中継や番組等ではこの呼称は避けられていた)
  • だんじりファイター(大阪府岸和田市出身のため、全国的に有名な岸和田だんじり祭より命名。上記の理由から「番長」に代わるものとして日本テレビがよく使用した)
オリックス時代
  • 番長(巨人時代に引き続き使用される)
  • お好み焼きソース(中村紀洋とのコンビの表現。中村はマヨネーズである。中村の中日移籍により、この愛称は2006年のみ)
その他
  • 清原といえば「ワイ」という一人称が代名詞であったが、実際には使用していない。写真週刊誌フライデー」の人気連載企画をまとめた「おう、ワイや!清原和博番長日記」という書籍(内容は巨人時代のもの)が出版されたことがあるほどだが、インタビュー等では基本的に「僕」を使っている。また「ジャンクSPORTS」(フジテレビ)のスペシャルにゲスト出演した際、番長日記の事を浜田雅功に突っ込まれると「僕は俺とか言いますが、ワイなんて言っていません」と説明(自分のことを『ワシ』と言うことはたまにあるとのこと)。番長日記については「俺は昔からフライデーに殴られっぱなしだから、今後もそれでいい。しかし、あれはマジで面白い」と容認した。その後フライデーとは、何かあった時には取材に応じるから、追いかけ回さないという言わば協定なようなものを結び、フライデーの番長日記の定期連載は現在では終了し、現役引退の際にはフライデー誌上にコメントを寄せている。
  • 番長等と呼ばれ豪胆な印象がある清原だが金を使う趣味は車位で他には他の選手のように投資や副業の事業に参画したことはなかった。これは若手時代に実父に投資の相談をしたところ「お前の投資は本業の打撃でホームランを打つことだろ。」と一喝された事が原因であるとインタビューで答えている。また唯一の趣味であった車は入団時から引退時までに10回近く買い換えた。
  • マナーの悪い印象を晩年は持たれたが「バットは打者の命。」という考え方のもとに他の選手のように、道具に八つ当たりする事は殆どなかった。また、同じヘルメットを20年以上使い続けていた。(ただし平沼との乱闘の際にはバット放り投げている。)
  • 落合を非常に尊敬しており、ズボンを緩めるスタイルを真似したり、土井のコーチ解任後は打撃指導を受けたりもしていた。清原が「真剣勝負=直球勝負(オールスターゲームでは特に)」という風潮を作り出したという批判が多いが、これも落合に影響を受けたものである。全盛期の落合も変化球を投げる投手を挑発したり、内角にシュートを投げる投手を恫喝するなど、見るものによってはダーティと感じる面を持っていた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1986 西武 126 471 404 66 123 18 1 31 236 78 6 3 4 3 49 2 11 109 8 .304 .392 .584 .976
1987 130 536 444 66 115 25 3 29 233 83 11 4 0 2 80 6 10 88 10 .259 .382 .525 .907
1988 130 551 451 97 129 21 0 31 243 77 5 4 0 3 82 7 15 102 10 .286 .410 .539 .949
1989 128 557 445 92 126 22 2 35 257 92 7 2 0 2 94 5 16 60 13 .283 .424 .578 1.002
1990 129 560 436 99 134 19 2 37 268 94 11 5 0 4 105 6 15 85 7 .307 .454 .615 1.069
1991 126 539 448 73 121 20 0 23 210 79 3 3 0 2 80 1 9 77 12 .270 .390 .469 .859
1992 129 556 464 82 134 17 0 36 259 96 5 3 0 3 85 0 4 98 13 .289 .401 .558 .959
1993 128 540 448 66 120 15 1 25 212 75 3 2 0 2 84 1 6 120 9 .268 .389 .473 .862
1994 129 565 455 78 127 29 0 26 234 93 5 1 0 5 100 9 5 117 12 .279 .411 .514 .925
1995 118 505 404 63 99 13 3 25 193 64 2 0 0 2 90 1 9 111 6 .245 .392 .478 .870
1996 130 563 487 67 125 30 0 31 248 84 0 2 0 0 70 0 6 122 14 .257 .357 .509 .866
1997 巨人 130 550 462 65 115 24 0 32 235 95 0 0 0 7 69 3 12 152 7 .249 .356 .509 .865
1998 116 470 384 67 103 14 0 23 186 80 1 0 0 11 67 1 8 76 13 .268 .379 .484 .863
1999 86 323 263 39 62 12 0 13 113 46 0 0 0 4 46 0 10 68 12 .236 .365 .430 .795
2000 75 252 216 41 64 10 0 16 122 54 0 0 0 3 25 0 8 51 6 .296 .385 .565 .950
2001 134 552 467 67 139 29 0 29 255 121 0 1 1 4 65 2 14 140 20 .298 .396 .546 .942
2002 55 174 148 24 47 1 0 12 84 33 0 0 0 1 18 2 7 36 1 .318 .414 .568 .982
2003 114 403 341 47 99 9 0 26 186 68 0 0 0 4 42 0 16 97 9 .290 .390 .545 .935
2004 40 120 101 18 23 2 0 12 61 27 0 0 0 0 15 0 4 41 4 .228 .350 .604 .954
2005 96 375 321 42 68 6 0 22 140 52 0 1 0 3 41 0 10 111 6 .212 .317 .436 .753
2006 オリックス 67 241 203 21 45 7 0 11 85 36 0 0 0 1 36 1 1 83 6 .222 .340 .419 .759
2008 22 25 22 0 4 2 0 0 6 3 0 0 0 0 3 0 0 11 0 .182 .280 .273 .553
通算:22年 2338 9428 7814 1280 2122 345 12 525 4066 1530 59 31 5 66 1346 47 196 1955 198 .272 .389 .520 .909
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 赤太字はNPBにおける歴代最高

背番号

  • 3(1986年 - 1996年)
  • 5(1997年 - 2008年)

タイトル

表彰

記録

初記録

節目の記録

オールスター

  • オールスターゲーム出場:18回(1986年 - 1998年、2000年 - 2002年、2005年、2006年)
  • オールスター通算打率:.365(100打数以上では、歴代1位タイ)
  • オールスター通算本塁打:13本(歴代2位タイ)
  • オールスター通算打点:34(歴代1位)
  • オールスター通算得点:26(歴代1位タイ)
  • オールスター通算塁打:96(歴代1位)

その他

  • 21年連続シーズン2桁本塁打(1986年 - 2006年 歴代1位タイ)※入団1年目からの記録としては、史上初。
  • 13年連続シーズン20本塁打以上(1986年 - 1998年 歴代3位タイ)※入団1年目からの記録としては、歴代1位。
  • シーズン20本塁打以上:16回(1986年 - 1998年、2001年、2003年、2005年 歴代3位タイ)
  • 通算サヨナラ本塁打:12本(歴代1位)
  • 通算サヨナラ安打:20本(歴代1位)
  • 通算満塁本塁打:11本(歴代9位タイ)
  • 通算サヨナラ満塁本塁打:2本(歴代1位タイ)
  • 3イニング連続本塁打(2001年6月9日 史上7人目)

入団以来、所属球団の西武が選手CM出演を禁止していた為、清原が初めて全国CMに出演する事が出来たのは、CM出演解禁された入団8年目の1993年オフの事である。

関連項目

脚註

  1. ^ この本塁打は「第二の野球人生のはじまり」と語っており、思い出深い本塁打となっている。
  2. ^ 清原引退試合の主な来場者スポーツ報知 2008年10月2日
  3. ^ 清原最後のボールを直球勝負の杉内に返す ニッカンスポーツ 2008年10月2日