長嶋清幸
三星ライオンズ コーチ #73 | |
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基本情報 | |
国籍 |
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出身地 | 静岡県小笠郡浜岡町(現:御前崎市) |
生年月日 | 1961年11月12日(62歳) |
身長 体重 |
170 cm 81 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1979年 ドラフト外 |
初出場 | 1980年5月17日 |
最終出場 | 1997年10月12日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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長嶋 清幸(ながしま きよゆき、1961年11月12日 - )は、元プロ野球選手(外野手)。1980年代の新聞報道では「長島」という表記があった。現在は韓国プロ野球の三星ライオンズで打撃コーチを務める。
経歴
静岡県小笠郡浜岡町(現・御前崎市)出身。自動車工高(現・静岡北高)を卒業後、1979年、ドラフト外で広島東洋カープに入団。
1983年には日本プロ野球の公式戦出場選手で初の背番号「0」を着用(後述も参照)し、ダイヤモンドグラブ賞に輝いた。「マメ」の愛称で当時の古葉竹識監督に重用され、チャンスに強いバッティングと安定した守備で、山本浩二の後を受け継ぐ形でレギュラーの一角(主に中堅手)を占める。さらに1984年は、オープン戦でスター大賞を受賞。9月15日の読売ジャイアンツ戦で西本聖から、翌9月16日には江川卓から2試合連続サヨナラホームランを放った事は今でも語り草になっている。9月15日の西本からのホームランは0-2で敗色濃厚の9回裏ノーアウトランナー1塁2塁でまわってきた長嶋は、送りバントと読んでバントをさせにきた西本の内角の棒球を右翼席へ逆転サヨナラホームランを放った。16日の江川からのホームランは延長12回まで0-0の均衡を保っていた。12回裏ワンアウトランナーなしで回ってきた。2-2からの内角のカーブを右へ大ファウル、1球ボールの後2-3のフルカウントから江川の内角の速球を右翼席へとサヨナラホームランを放った。このシーズンはそれまで広島・巨人で優勝争いをしていたがこの連勝で巨人を振り切り、広島の優勝につながった(江川はプロアマ通じて初のサヨナラ負けを喫した)。阪急ブレーブスとの日本シリーズでは3試合で本塁打を打ち勝利に貢献、日本シリーズMVPに輝いた。
1991年に音重鎮・山田和利とのトレードで中日ドラゴンズへ移籍(この時の監督が星野仙一[以下、星野])。1993年には宇野勝とともに千葉ロッテマリーンズへ移籍したが、翌年の1994年には阪神タイガースへ移籍。阪神では代打の切り札として活躍。1997年限りで引退した。引退後は阪神のコーチを務め、2004年より打撃・外野守備走塁コーチとして中日に復帰。2006年オフに契約満了で退団。2008年10月、韓国プロ野球・三星ライオンズの打撃コーチに就任。
不満会見騒動
2004年から、中日において、落合博満監督の右腕としてチームを支えていたが、2006年10月28日に来シーズンの契約を結ばない事を通告され、緊急で記者会見を開き落合監督と高代延博コーチを痛烈に批判した(同時に高代コーチとの確執も認めている)。長嶋本人が語ったところによると、この「不満会見」は球団側が許可しており、また落合監督は長嶋に解雇の理由を「口が裂けても言えない。墓まで持っていく」と告げたとのことである。会見当日はスポーツマスコミが一斉にこの模様を報道したが、翌日以降、騒動は沈静化した。同年12月8日より、日刊ゲンダイにて「さらば落合中日」と題した長嶋本人による落合批判コラムの連載が開始していた。
背番号0
日本のプロ野球史上初めて「背番号0」をつけた選手である(過去、練習生時代の西沢道夫、ブルペン捕手が付けていた例はあったが、正規の選手としては初めて)。入団時の背番号は66だったが小さな背番号を望んでいたところ、1982年ナショナル・リーグ首位打者のアル・オリバーが背番号0をつけていることを知り、0番着用を古葉竹識に相談したのがきっかけであった。広島の1983年のキャッチフレーズは「ゼロからの出発」であり、長嶋の背番号0がより一層注目を受けることになった。広島・中日・ロッテ・阪神の4球団に在籍して、背番号0をつけなかったのはわずか1年のみ在籍したロッテだけである。(広島・中日・阪神では背番号0をつけてプレーした期間が1年以上ある)
その他
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- 日本プロ野球史上唯一の日本シリーズMVP受賞者ながらオールスターゲーム出場経験皆無のまま引退した日本人選手(トロイ・ニールも同受賞者ながら同出場経験皆無)である。
- 闘志あふれるプレーが持ち味であり、1980年代後半に中日が乱闘も辞さない集団に変質した(当時の星野仙一監督が闘志を表に出す選手を好んでいた事にもよる)ころ、広島に入団以来兄貴と慕う高橋慶彦が1987年に中日の岩本好広に乱闘でやられたため、翌1988年に広島 - 中日戦で乱闘が起こって岩本が飛び出してきた際、センターの守備位置から猛然と突っ込んでその借りを返した。この乱闘行為により、この試合で両者は退場処分を受けた。長島が蹴りを入れるシーンが珍プレーで何度も使われ、これを見た人から脚が短いと言われることが多くなったという。このときの事を長嶋は「岩本は乱闘になるといつも調子に乗っていて腹が立っていた」と語っている。1991年に長嶋が中日に移籍した際2人はチームメートとなった。
- 長嶋は学生時代かなりの「ワル」だったらしく、ドラフト外で入団したのも素行の悪さから各球団が指名を回避したためだという。広島も獲得には消極的だったが、スカウトの木庭教が球団と家族を説得して契約。阪神も岡田彰布との契約後にドラフト外で狙ったが、一足遅く広島に先を越される形となった。
- 1990年のシーズン終了後、福岡ダイエーホークスの田淵幸一監督が、「広島の長嶋・長内(孝)がトレードに出されるみたいだ」と機密事項であるはずのセレクション会議の内容を漏洩してしまった(田淵監督は減給処分)。星野監督は名前を出された選手のことを気にかけたことと、山本浩二監督・田淵監督と親友の間柄であることもあり、長嶋のトレードは成立した。当時やくみつるは週刊ベースボールの連載漫画の欄外コメントで長内について「大洋にくれないかな」(長内は、大洋ファンであるやくの高校時代の先輩)とコメントを残していたが、長内も翌年大洋にトレードされることになる。
- シーズンオフのテレビ番組で、自身によく似ている片岡鶴太郎のものまねをした事が有る。逆に1984年のブレイク時には鶴太郎本人が長嶋とそっくりさんというだけでスポーツ紙に取材されコメントしていたこともある。
- 長嶋茂雄引退後に最も活躍した「ナガシマ」姓の選手であること、そして長嶋茂雄の息子長嶋一茂が、一流選手とは呼べない存在であることを指して、やくみつるは「長嶋の前に長嶋あれど、長嶋の後に長嶋は無し」と評した。
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1980 | 広島 | 10 | 11 | 11 | 1 | 4 | 1 | 0 | 1 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | .364 | .364 | .727 | 1.091 |
1981 | 36 | 35 | 32 | 1 | 9 | 0 | 0 | 0 | 9 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 6 | 1 | .281 | .314 | .281 | .595 | |
1982 | 79 | 178 | 167 | 17 | 44 | 8 | 1 | 2 | 60 | 15 | 1 | 0 | 1 | 1 | 7 | 0 | 2 | 24 | 9 | .263 | .299 | .359 | .658 | |
1983 | 130 | 514 | 464 | 46 | 137 | 24 | 3 | 13 | 206 | 57 | 12 | 4 | 16 | 5 | 22 | 4 | 6 | 58 | 1 | .295 | .332 | .444 | .776 | |
1984 | 125 | 388 | 341 | 48 | 94 | 26 | 2 | 13 | 163 | 43 | 11 | 10 | 13 | 0 | 33 | 3 | 1 | 76 | 3 | .276 | .341 | .478 | .819 | |
1985 | 130 | 529 | 453 | 66 | 132 | 19 | 4 | 15 | 204 | 55 | 14 | 7 | 13 | 4 | 58 | 3 | 1 | 69 | 3 | .291 | .370 | .450 | .820 | |
1986 | 130 | 527 | 482 | 62 | 129 | 29 | 3 | 12 | 200 | 54 | 24 | 7 | 8 | 2 | 35 | 2 | 0 | 92 | 6 | .268 | .316 | .415 | .731 | |
1987 | 128 | 507 | 462 | 54 | 133 | 20 | 5 | 15 | 208 | 53 | 5 | 6 | 12 | 0 | 30 | 0 | 1 | 80 | 5 | .288 | .333 | .450 | .783 | |
1988 | 117 | 437 | 378 | 46 | 87 | 19 | 0 | 9 | 133 | 29 | 5 | 7 | 14 | 1 | 42 | 1 | 1 | 71 | 6 | .230 | .308 | .352 | .660 | |
1989 | 125 | 377 | 332 | 35 | 86 | 18 | 1 | 5 | 121 | 43 | 12 | 5 | 5 | 3 | 35 | 5 | 2 | 85 | 5 | .259 | .331 | .364 | .695 | |
1990 | 115 | 322 | 285 | 37 | 79 | 18 | 1 | 7 | 120 | 39 | 5 | 4 | 7 | 1 | 29 | 0 | 0 | 62 | 2 | .277 | .343 | .421 | .764 | |
1991 | 中日 | 52 | 180 | 154 | 16 | 44 | 9 | 2 | 4 | 69 | 12 | 3 | 2 | 5 | 1 | 17 | 2 | 0 | 32 | 1 | .286 | .355 | .448 | .803 |
1992 | 78 | 194 | 175 | 19 | 42 | 5 | 1 | 5 | 64 | 14 | 1 | 0 | 1 | 1 | 17 | 0 | 0 | 32 | 5 | .240 | .306 | .366 | .672 | |
1993 | ロッテ | 40 | 80 | 68 | 7 | 11 | 2 | 0 | 1 | 16 | 5 | 0 | 0 | 5 | 0 | 7 | 1 | 0 | 18 | 0 | .162 | .240 | .235 | .475 |
1994 | 阪神 | 70 | 132 | 113 | 13 | 35 | 5 | 1 | 4 | 54 | 16 | 0 | 2 | 2 | 1 | 15 | 0 | 1 | 25 | 5 | .310 | .392 | .478 | .870 |
1995 | 67 | 88 | 74 | 8 | 18 | 1 | 0 | 0 | 19 | 4 | 1 | 0 | 0 | 1 | 13 | 0 | 0 | 18 | 2 | .243 | .352 | .257 | .609 | |
1996 | 39 | 38 | 34 | 1 | 7 | 3 | 0 | 1 | 13 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 10 | 0 | .206 | .289 | .382 | .671 | |
1997 | 6 | 6 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:18年 | 1477 | 4543 | 4031 | 477 | 1091 | 207 | 24 | 107 | 1667 | 448 | 94 | 54 | 102 | 22 | 366 | 22 | 15 | 762 | 55 | .271 | .332 | .414 | .746 |
- 各年度の太字はリーグ最高
背番号
- 66 (1980年 - 1982年)
- 0 (1983年 - 1990年、1992年、1994年 - 1997年)
- 4 (1991年)
- 31 (1993年)
- 73 (1998年 - 2000年、2009年 - )
- 85 (2001年 - 2003年)
- 72 (2004年 - 2006年)
タイトル・表彰
個人記録
- 初出場:1980年5月17日、対中日ドラゴンズ6回戦(ナゴヤ球場)
- 初安打:1980年5月29日、対ヤクルトスワローズ12回戦、安田猛から
- 初本塁打:1980年7月17日、対ヤクルトスワローズ20回戦(草薙球場) 尾花高夫から
関連項目
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