コンテンツにスキップ

雍歯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。てぃーえす (会話 | 投稿記録) による 2008年12月14日 (日) 03:40個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (新しいページ: ''''雍歯'''(よう し、?-紀元前192年)は、末から前漢にかけての人。沛の人。君主が恨みにより偏らずに恩賞を...')であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

雍歯(よう し、?-紀元前192年)は、末から前漢にかけての人。沛の人。君主が恨みにより偏らずに恩賞を与えることの代名詞となった。

略歴

元は沛の豪族で有力者であり、王陵とは仲が良く、劉邦とは仲が悪かった。

秦の二世皇帝元年(紀元前209年)、劉邦が秦に対し蜂起し沛公となると、雍歯も彼に従った。翌年、劉邦は豊を雍歯に任せたが、魏の周市が豊に来ると、雍歯に対して「豊はもとは魏が移住した場所であり、魏は既に数十の城を平定している。今ここで魏に降伏すればお前を侯にして豊を守らせるが、降伏しなければ豊を攻め滅ぼしてやろう」と言った。もとより劉邦に属するのを望んでいなかった雍歯は魏に降伏した。それを知った劉邦は豊を攻めたが、取ることが出来なかった。劉邦は自分に背いた雍歯と豊の人間を恨んだ。

その後、趙に属し、雍歯も劉邦に再び属するようになり、功績を挙げた。高祖6年(紀元前201年)、漢の高祖劉邦は功臣に恩賞として功績に応じて列侯の位を与えようとしていた。しかし特に大きな功績のあった20人あまりを列侯にした後は、日夜お互いに功績の大きさを争うばかりで決着を見ず、なかなか封侯できないでいた。そんな折、劉邦は列侯が与えられない不満や、自分が恨みを買っているために殺されるのではないかという恐れから諸将の間に反乱を企む者もいると張良から知らされた。劉邦が相談すると張良は劉邦が特に恨んでいることで有名な者をまず列侯に封じれば他の者も安心するだろうと述べた。そこで劉邦はすぐに雍歯を什方侯(2,500戸)に封じた。諸将はそれを見て「雍歯でさえ封侯されるなら、我々は心配ない」と喜んだ。

また、高祖12年(紀元前195年)、劉邦はゆかりの地沛に逗留した際に沛の徭役を恒久的に免除した。沛の人間は「沛は幸いにして免除を受けましたが、豊がまだでございます」と言った。劉邦は「豊は私が成長した地だから忘れるはずがない。しかし、雍歯に与して私に背き魏についたために免除していないのだ」と言った。沛の人間が強く願ったため、劉邦は豊も免除してやった。

雍歯は恵帝3年(紀元前192年)に死亡し、粛侯と諡された。

参考文献

  • 司馬遷著『史記』巻8高祖本紀、巻18高祖功臣侯者年表、巻55留侯世家、巻56陳丞相世家
  • 班固著『漢書』巻1高帝紀、巻17高恵高后文功臣表、巻40張良伝、王陵伝