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青木勝利

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青木 勝利(あおき かつとし、1942年11月28日 - )は、東京都杉並区出身の元プロボクサー三鷹ジム所属。左ボクサータイプ。東洋バンタム級王者。

メガトン・パンチ」と称された強打と抜群のセンスで、当時の日本記録である7連続KO勝ちを達成、ファイティング原田海老原博幸と並び「三羽烏」と呼ばれた。世界を狙える器と期待されながら、練習嫌いがたたり浮き沈みの激しいボクサー人生だった。

  • 1962年 東洋バンタム級王者
  • 1964年 東洋バンタム級王者(1度防衛)

戦績

1960年6月、プロデビュー。1962年10月29日、東洋バンタム級王座に挑戦。19歳で王者、米倉健志を破り王座獲得。この試合で1961年から20連勝を達成。

1963年4月4日、蔵前国技館で世界バンタム級王座に挑戦。王者、"黄金のバンタム"エデル・ジョフレブラジル)に、ほとんど鍛えていなかったボディを狙われ3回KO負け。1962年に現地で出版されたエデル・ジョフレの伝記の再版が1979年に発行された際、その表紙でこの試合の写真が使われた[1]。1963年9月5日、東洋王座初防衛戦。カーリー・アグイリー(フィリピン)に9回KOで敗れ王座陥落。

1964年3月25日、東洋王座に再挑戦。アグイリーとのリターンマッチを10回KOで制し王座奪還。以後1度防衛。1964年10月、ノンタイトル10回戦でファイティング原田と対戦。3回KO負け。人気者同士の対決に敗れたことで、世界戦線から脱落。1966年1月、ノンタイトル10回戦で小林弘と対戦し、10回判定負け。1966年4月28日、東洋王座2度目の防衛戦。李元錫(韓国)に11回KOで敗れ王座陥落。1966年10月、ノンタイトル10回戦で桜井孝雄と対戦し、10回判定負け。1967年7月、ノンタイトル10回戦で柴田国明と対戦し、1回KO負け。同年8月15日、ノンタイトル10回戦で、徐守康(韓国)に10回判定で敗れ、現役を引退した。

敗戦のほとんどが、本来であれば円熟期を迎えるはずの20代半ばに集中していたため、その才能を惜しむ声が多かった。最終戦績52勝29KO14敗4分。

2010年には青木が1964年に同じ三鷹ジムから日本フライ級王者となったばかりの飯田健一と公開スパーリングを行った際に使用したグローブが直筆入りで日本ボクシングコミッションに提供された[1]

脚注

関連項目