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高橋良明

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高橋 良明(たかはし よしあき、1972年9月2日 - 1989年1月23日)は、東京都生まれ、神奈川県横浜市育ちの俳優アイドル歌手。弟・高橋知秀はシンガーソングライターとして活動していた。また、元広島東洋カープ高橋慶彦は従兄である。

来歴・人物

1984年(昭和59年)に児童劇団東京宝映宝映テレビプロダクションの前身)に入所した。1985年(昭和60年)に出演した『うちの子にかぎって2』(TBS系列)で人気を博し、1987年(昭和62年)には同じくTBS系列の『オヨビでない奴!』で初主演を果たす。また同年11月21日にはキングレコードから「天使の反乱」でアイドル歌手としてもデビューを果たした。

俳優として将来の活躍を期待されていた矢先の1989年(昭和64年→平成元年)1月5日夜、オートバイ運転時に交通事故が発生した。車道を横断してきた中学生の歩行者に接触し、バランスを崩し路駐の車に激突したというものである。現場は横浜市青葉区または川崎市麻生区付近だったが、何らかの理由で事故現場近隣の救命救急センターが置かれた病院ではなく、東京都稲城市脳外科病院に搬送され入院した。治療を受け、回復に向かっていたと思われたが、同月22日に容態が急変して意識不明となり、翌23日午前2時46分に死去した。当日、聖マリアンナ医科大学での司法解剖により、死因は頭部打撲による小脳くも膜下出血及び中脳出血と判明した。わずか16歳4か月の生涯だった。

この事故を起こした際、高橋は大型自動二輪車を運転しており、自動二輪中型限定運転免許(現在の普通自動二輪車運転免許)しか所持していなかったため、当時の法規では条件違反であった(現在の免許制度では無免許運転の扱いになる)。被害者は大腿部の骨折で全治2ヶ月の重症と報道されたが、被疑者死亡により不起訴処分となった。

ただし、順調に回復をしていた矢先の急死には、病院側の不手際があったとされ、遺体処理の際に家族が病院の浴衣を着させるのを拒否したことが報道された。道路交通法に違反した事故であったため、生前収録していた1989年(平成元年)のNHK大河ドラマ春日局』では、年末放送の総集編から全出演シーンがカットされる措置がとられた。

横浜市港北区の観音寺に、慰霊碑が置かれている。

高橋の死後、1989年12月頃に搬送先の病院は廃業した。建物は取り壊されずに外見上手つかずのまま放置されて廃墟となり、心霊スポットと化した。その様態はカルチャー系の雑誌を初め、2000年代からは廃墟探訪するインターネットサイトでも取り上げられたが、2003年に稲城市の協力により建物修繕の上で前開設者の親族によりクリニックとして再度開業(開設)した。その後再び休業し2008年5月時点では再開業したが、同年夏頃に廃業・建物は取り壊されて、跡地にはドラッグストアドラッグセイムス稲城平尾店[1]」が竣工され、同年11月25日に開店した。

『オヨビでない奴!』『五稜郭』などで共演した同年の俳優石川博之は同じ中学の友人である。だが、石川も高橋の死後1年経った1990年10月末に、同じく川崎市内でバイク運転中にトラックと衝突する交通事故で死去。さらに、高橋の家族が飼っていた犬の銀次も、2003年に交通事故で他界した。

2005年12月4日に東京永田町星陵会館にて高橋良明17回忌メモリアルライブが、当時フリーのシンガーソングライターで活動していた実弟の高橋知秀によって行われた。しかし弟の知秀も兄と同様に、2008年10月末に交通事故に遭い、一時意識不明に陥るほどの重症を負ってしまう。知秀の方は一命を取り留めたものの、事故後の後遺症が残っており、現在活動は休止中のままである。

主な出演作品

テレビドラマ

ラジオ

シングル

  • 1987年 - 『天使の反乱』
  • 1988年 - 『恋の3.2.1』、『ヴィーナスの失敗』、『悲しきバッド・ボーイ』
  • 1989年 - 『抱きしめて…サンライズ』、『夢で逢えるさ』(追悼シングル)

アルバム

  • 1988年 - 『もうちょっとでヒーロー』(ミニアルバム)、『夏物語へようこそ』『Stay With Me』(限定版)
  • 1989年 - 『夢で逢えるさ』(追悼アルバム)

関連項目

参考文献