芦川いづみ
芦川 いづみ(あしかわ いづみ、1935年10月6日 - )は、日活の黄金期を代表する日本の女優。愛称は『おムギ』。(有馬稲子に顔立ちが似ており、彼女よりも線が細いということから『稲』ではなく『麦』だというシャレからついた愛称。)
来歴
東京市滝野川区田端町(現・北区田端に生まれる。1952年法政大学潤光女子高校(現・法政大学女子高等学校を中退し、「松竹歌劇団付属音楽舞踊学校」に入学する。同期に野添ひとみ、山鳩くるみ(小林夕岐子の母とは別人)らがいた。このとき、芸名を芦川いづみとする。1953年、ファッション・ショーに出演中、偶然いあわせた松竹の川島雄三監督に認められ、川島監督の『東京マダムと大阪夫人』に、月丘夢路の妹役でデビューする。その後、1955年、日活に移った川島監督の推薦で松竹歌劇団を退団し日活に入社する。
その後、『幕末太陽傳』などの川島監督の作品をはじめ、様々な役に挑戦し、松竹から移ってきた北原三枝とともに日活の中心的な存在となった。
また、1956年には、田坂具隆監督の『乳母車』で石原裕次郎と初共演する。裕次郎はこの作品の演技で、新しい魅力を遺憾なく発揮し代表作の一つとしたが、芦川もさわやかな演技で人気を不動のものとした。以降、北原三枝とともに裕次郎の相手役として欠かせない存在となる。若い浅丘ルリ子にその座を譲ってからも日活を代表するトップ女優として活躍した。
一時、葉山良二とのロマンスが噂されたが、1968年に藤竜也と結婚して惜しまれつつ引退。家庭の人となった。
2007年11月17日、新宿の京王プラザホテルで開催された日活出身の俳優で構成する「俳優倶楽部」とスタッフらで構成する「旧友会」の合同パーティーに、渡哲也・浅丘ルリ子・宍戸錠・川地民夫・沢本忠雄・鈴木清順監督・井上梅次監督・齋藤武市監督・舛田利雄監督らと共に出席。久々に公の場に姿を見せ、話題になった。
エピソード
- 1959年(昭和34年)3月2日から6日まで開催された「ベルリン日本映画芸術の日」と3月6日から11日まで開催された「ミュンヘン日本映画見本市」に出席のため、3月1日、山梨稔(新東宝専務)、池広利夫(大映営業渉外部長)や大空眞弓(新東宝)、小山明子(松竹)、司葉子(東宝)、若尾文子(大映)ら他の映画会社各社代表女優たちと共に日活代表女優としてドイツへ出発。
- 同3月1日、ベルリン着。ベルリンでの宿泊先はヒルトン・ベルリン(Hilton Berlin)。3月3日、記者会見。3月4日、CCCスタジオ訪問。
- 3月5日、ベルリンを出発しミュンヘンに到着。ミュンヘンでの宿泊先はケンピンスキー・ホテル・フィア・ヤーレスツァイテン(Hotel Vier Jahreszeiten (München))。3月7日、記者会見。3月9日、女優たちのサイン会が開かれた。3月10日、バヴァリア・スタジオ(Bavaria Film)見学。
- 3月11日の見本市終了後は、ロンドン・パリ・ジュネーヴ・チューリッヒ・ローマ・香港(香港以外順不同)に立ち寄り、3月26日、山梨新東宝専務、大空、小山と4人で日本航空機で約1か月ぶりに日本に帰ってきた。帰国時の4人のタラップ(屋根なし)での写真が現存している(芦川は着物姿)。当時はまだ海外渡航自由化の前で、大変貴重なヨーロッパ訪問となった。
- 現地で上映された日本映画は『無法松の一生』(第19回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞作品)、『楢山節考』(木下惠介監督版)、『白蛇伝』(アニメーション映画)など。
出演
映画
- 東京マダムと大阪夫人(1953年)
- 青春怪談(1955年、日活、監督:市川崑)
- 風船(1956年)
- 東京の人(1956年)
- 洲崎パラダイス赤信号(1956年、日活、監督:川島雄三)玉子役
- 乳母車(1956年)
- 幕末太陽傳(1957年)
- 嵐を呼ぶ男(1957年)
- 佳人(1958年)
- 陽のあたる坂道(1958年)
- 紅の翼(1958年)
- 青年の樹(1960年)
- あいつと私(1961年)
- 堂堂たる人生(1961年)
- 硝子のジョニー野獣のように見えて(1962年)
- しろばんば(1962年)
- 青い山脈(1963年)
- 鉄火場破り(1964年)
- 四つの恋の物語(1965年)
- 結婚相談(1965年)
- 夜のバラを消せ(1966年)
- 嵐を呼ぶ男(1966年)
- 大幹部無頼(1968年)
- 孤島の太陽(1968年)
テレビドラマ
- 信子(1964年)
- 陽のあたる坂道(1965年)
- あした来る人(1965年)
- 東京物語(1967年)
- 若草物語(1968年)
外部リンク
- 芦川いづみさんの部屋 - 私設ファンサイト(公式ファンサイトが存在しないため)