背番号
背番号(せばんごう)とは、スポーツ選手のユニフォームの背中に識別のためにつける番号のことである。数字さえ覚えておけば、選手名を見なくても誰なのかが分かる。また背番号は単なる数字でなく選手の象徴となり、よく思い入れの対象になる。
背番号の文字には現代では、アラビア数字が使われるが、日本においては漢数字が使われた時代がある。競技によっては、特定の数字の使用を禁じるルールが採用される場合もある。
団体競技の場合には、たいていのスポーツで背番号が与えられる。個人競技の場合には、ゴルフなど背番号とは無縁のものと、陸上競技などのように背番号(選手登録時に申告した番号または競技会主催者が用意したもの)が与えられるものがある。
団体競技では、背番号により大まかなポジションが推定可能である場合がある。
プロスポーツにおいては、名選手を称えるため、その選手の背番号を永久欠番として使用を控える場合がある。また、永久欠番までには至らなくても、そのチームにおいて名誉ある背番号であるとされる場合もある。
陸上競技
陸上競技では、1人の選手が複数の種目に参加することもあり、他の選手と重複しない1つの番号を種目に関係なく使う。所属団体や参加する大会の単位で採番されるため、チームごとに採番される「背番号」とは位置づけが異なる。球技の場合における、協会や連盟から発行される登録者番号に等しいものと考えることができる。
地区レベルの大会では、選手が所属する地区の陸上競技協会へ選手登録(登記)する際に申告した番号を使用する。競技会では、番号を書いた布地(ゼッケン。日本陸上競技連盟による正式名称は「ナンバーカード」。最近は後者で呼ぶことが普通)を服装の前面と背面に縫いつける。ただし、地域のシティマラソンや大規模な大会の場合は不織布でつくられたものを、その大会のみ使用することが多い。
競技会によっては、トラック競技の順位判定における番号確認を容易にするため、同一組の選手に1から順に番号を割り当てた通称「腰ゼッケン」をパンツの右側に付ける。ただし、リレー競技の場合はアンカーのみが使用。腰ゼッケンは大抵の場合、主催者によって用意される。
夏季オリンピックや世界陸上選手権、全国規模の大会や冠スポンサーが付いた大会などでは、主催者によって用意された、冠スポンサー名・大会名入りナンバーカードを用いる。
番号は、登録者の数もあり3桁や4桁に及ぶ。また、球技のような永久欠番という概念はなく、特定の選手に暗黙で特定の番号が割り当てられるということもない。
但し、通常の参加選手と、主催者による招待選手で、それぞれ異なる色のナンバーカードを用意する場合がある。この場合、招待選手は1から採番されることが多く、トップ選手や有名選手が1番を割り当てられることが多い。またナンバーカードは、例えば一般選手は白、招待選手は黄など、明確に識別できるようなカラーリングがされている。また、市民マラソンなどでは、招待選手に番号ではなく「氏名」が書かれたナンバーカードを着用させる場合もある。
野球
背番号は多くの選手やファンにとって単に識別の記号でなく、しばしば「もうひとつの顔」として思い入れの対象ともなっている。背番号をおぼえておけば、簡単に選手をイメージできる。例えば“読売ジャイアンツの1番”といえば王貞治、同じく“3番”といえば長嶋茂雄、また“51番”といえばイチローである。
野球の背番号には、以下のような規定、または習慣がある。
少年野球
統括団体によっても異なるが、少年野球は、10番が主将、30番が監督、29、28がコーチ(場合によっては27がコーチになることも)など、一部選手(および指導者)の役割により規定で背番号が定められている場合が多い。
高校野球
初めて日本の野球で背番号がつけられたのは、1931年(昭和6年)の第8回選抜高等学校野球大会である。同じ年の第一回日米野球でも背番号がつけられた。
高校野球の場合には、出場枠に応じて1番から始まる背番号(例えば18番まで)を使用する。概ね、正選手には、投手の1番から右翼手の9番まで守備番号に対応した番号が与えられる。
- 投手(ピッチャー):1番
- 捕手(キャッチャー):2番
- 一塁手(ファースト):3番
- 二塁手(セカンド):4番
- 三塁手(サード):5番
- 遊撃手(ショート):6番
- 左翼手(レフト):7番
- 中堅手(センター):8番
- 右翼手(ライト):9番
しかし、必ずしも背番号と守備番号が一致していなくてもよい。
また、2番手投手には10番、3番手以降の投手には11番や18番、控え捕手には12番、控え一塁手には13番、また控え選手が主将の場合には10番が付けられることが多い。
大学野球
東京六大学野球連盟など14連盟では30が、関西学生野球連盟など10連盟では50が監督の背番号と定められている。東京新大学野球連盟では53、関西六大学野球連盟では60である。コーチの背番号も連盟によって異なり、40・50をつける連盟、51・52をつける連盟などがある。
東京六大学野球連盟など19連盟では10が、東都大学野球連盟など7連盟では1が、主将の番号と決められている。
その他の番号の付け方は大学によっても特徴があり、たとえば早稲田大学では6が正捕手で9は欠番(試合中の事故で亡くなった東門明選手を偲んだ)、明治大学は高校野球風に番号付与し、シーズン中でも頻繁に背番号が変更される、法政大学はおおむね1ケタ番号は内野手・10番台は投手・20番台が外野手、など様々である。
日本のプロ野球
歴史
- 1931年 第1回日米野球大会の第6・7戦において、日本チームが初めて背番号つきユニフォームを着用。
- 1935年 アメリカに遠征した大日本東京野球倶楽部(東京ジャイアンツ)が、漢数字の背番号入りユニフォームを着用。
- 1936年 日本職業野球連盟設立。日本プロ野球リーグ誕生。大リーグに倣い、打順がほぼそのまま背番号になっていた。後に誕生した大阪タイガースは名前のいろは順、阪急軍は契約順に背番号を決定した。
- 1944年 太平洋戦争の激化により、選手の背番号使用が禁じられる。
- 1947年 腸チフスで死去した黒沢俊夫の4、1944年に戦死した沢村栄治の背番号14が、日本球界初の永久欠番となる。
- 1964年 大洋ホエールズが、背番号の上にローマ字で選手の名前を入れるユニフォームを採用。十数年のうちに全球団へ広まった。
- 1975年 太平洋クラブライオンズが、ビジター用のみにユニフォームの前にも背中と同じ大きさの番号がついた「胸番号」つきユニフォームを採用。ただし不評であったため同年前期のみで廃止されている。
- 1983年 広島東洋カープの長嶋清幸が背番号0を初めて使用。戦後初期にブルペンキャッチャーなどでそれを使用したことがあるが、一軍登録選手としては史上初。
- 1988年 阪神タイガースのルパート・ジョーンズが背番号00の第1号となる。
- 1992年 ドミニカアカデミー出身の投手、ロビンソン・チェコ(広島東洋)が史上初めて3桁の背番号(106番)を使用。その後同じドミニカアカデミー出身の投手カルロス・リベラが1994年に109で2試合登板。これが現在まで一軍登録選手として最大の背番号となっている。一軍登録がない選手としては中山裕章(中日ドラゴンズ)の125が最大。支配下選手で最後に3桁の背番号をつけた選手はナタナエル・マテオで107番。
- 1993年 日本ハムファイターズが、秘密兵器の意味を込めて二村忠美の背番号を007にしたいと申請したが、パシフィック・リーグによって却下される。この時よりパ・リーグにおいて「背番号は00・0と99番以下の整数」と見解が出された。一方で、セントラル・リーグの阪神タイガースでは、松永浩美がシーズン途中に2番から02番へ変更している。
- 1997年 この年の日本シリーズにおいて、ヤクルトの各選手が欠場中の飯田哲也の背番号2を帽子やヘルメットに付けて戦い、日本一となった。「飯田はこの場にいなくとも共に戦っている」とチームの結束を示すものであり、この後ケガなどで欠場中の選手の背番号を、ナインが何らかの形で身につけることが各球団で流行した。
- 2005年 東北楽天ゴールデンイーグルスが10を永久欠番に、千葉ロッテマリーンズが26を準永久欠番に指定。いずれも「ファンのための欠番」で、それぞれファンをナインやベンチ入り選手(25人)に続く存在としたもの。また、オリックス・バファローズが、近鉄では永久欠番とされていた1(鈴木啓示)は永久欠番にせず、51(イチロー)を準永久欠番とする。
- 2006年 育成選手制度がスタートし、育成選手の背番号は100番以上を用いることが決められる(支配下選手登録時に99番以下に変更する)。
- 2007年 中日の育成選手エンリケ・ラミレスが背番号222を使用、史上最大の背番号となる。
背番号に託されたイメージ
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
例が増えすぎる傾向があるので、列挙するのは3人程度にして下さい |
名選手が特定の背番号を背負って活躍すると、それを受け継ぐ選手には自然に背番号だけでなくそのイメージまでも継承することが求められる。こうして各チームで、特定の番号が名選手によって受け継がれるなどの伝統が生じてきた。投手のエースナンバーとして17 - 21付近の番号が用いられることはその典型で、捕手や野手がこれらの番号を背負うことは近年では少ない。
1 - 10番
1 - 10は、野手がつけることが多く、特に主力級で目立つ。一桁の場合は守備番号のイメージが託される場合も多い。
1:人気と実力を兼ね備えた主力野手に与えられるのが慣例となっているが、投手の守備番号で、高校野球ではエースナンバーであるため、投手が着用することもある。巨人(王貞治)と近鉄(鈴木啓示)では永久欠番となっている。
2:捕手の守備番号であるため、捕手の使用が比較的多い。現役では城島健司、相川亮二(東京ヤクルト)、銀仁朗など。
3:1同様、チームの顔となる選手が付ける番号とされており、古くから千葉茂ら名選手の背中を飾ってきた。この番号の価値をさらに高め、不動のものとしたのは長嶋茂雄(巨人の永久欠番)であり、当時の子供達が3の下駄箱やロッカーを取り合うほどの人気を博した。広島(衣笠祥雄)でも永久欠番である。
4:日本語で「死」を連想して縁起が悪いとされることから、日本人が避けて外国人選手がつける場合が比較的多い。二塁手の守備番号であるため大石大二郎、正田耕三ら二塁手(野手)がつけるケースがある。巨人では黒沢俊夫の永久欠番。
8:山本浩二が着用した広島では永久欠番となっている。
10:野手の番号で、藤村富美男(阪神の永久欠番)らが着用した。比較的捕手の使用が多い番号で、過去には服部受弘(中日の永久欠番)がいる。東北楽天では永久欠番で、これは「ファンのための背番号」(スターティングメンバー9人に続く10人目の意味)として指定されたものである。
11 - 21番
11 - 21は、投手が付けることが多い番号となっている。
11:18と並ぶエースナンバー。村山実がつけた阪神では永久欠番である。また、野茂、斎藤隆、川上憲伸など日本人メジャーリーガーが多くつけている。
12:11 - 21の中では野手が付けることも比較的多い番号である。広瀬叔功、柴田勲、岡嶋博治など盗塁王を獲得した選手が多い。
13:キリスト教では不吉とされる番号のため、外国人選手がつけることは少ない。
14:戦前の沢村栄治(巨人の永久欠番)以来投手での使用が多い。沢村を初め前田喜代士、松本利一など戦死した14番の選手は5人もいる。
16:川上哲治(巨人の永久欠番)、三宅秀史、ラルフ・ブライアントら野手が使用していた影響から野手の着用率が高い。
17:投手の使用が多い。ヤクルトではエースナンバーであり松岡弘らが着用している。大洋でもエースナンバーであり盛田幸希らが着用した。
18:各球団の主力投手がつけるエースナンバーとして定着しており、この番号を野手が使用することは極めて少ない。日本の野球において18がエースナンバーになったのは、若林忠志、野口二郎、村松幸雄らプロ野球草創期のエースたちが使用していたことが最も大きな要因とされる。他に歌舞伎の「十八番」からの連想から来ているという説もある。
20:中日においては、杉下茂以来、権藤博、星野仙一らに受け継がれるエースナンバーとなっている。
21:21も各球団で重きを置かれている背番号で、特に北海道日本ハム・埼玉西武・福岡ソフトバンクなどで伝統的にエース格の投手が着用している。
22 - 69番
22 - 69番は全体的に投手・野手両方に使用され、各球団の特長などが目立つ。22、27、39は伝統的に捕手の背番号とされている。
22:伝統的に捕手の背番号で水沼四郎らが着用しているが、佐々木主浩や高津臣吾らの影響で中継ぎ・抑え投手が付ける例が増えている。
25:別当薫以来パワーヒッターの番号である。その後も村田修一、新井貴浩などが着けたことによりチームの主砲というイメージを定着させた。
26:千葉ロッテでは「ベンチ入り25人に続く26番目の選手」という意味からファン向けの背番号とし、欠番とされている。
27:22と並び捕手の番号でもある。元祖は吉原正喜で以降、古田敦也、伊東勤らが着用した。
28:江夏豊(阪神時代)以来、左のエースというイメージが定着し、以降新浦壽夫、星野伸之などが背負った。江夏豊については小川洋子の小説『博士の愛した数式』で取り上げられた。
30:チームが20人そこそこの時代では監督の背番号とされ、巨人監督では藤本定義から水原茂まで三原政権を除いて30番だった。その後選手数が増えたこともあり近年では上田利治(阪急・オリックス、1974年 - 1978年、1981年 - 1990年)以来いない。
34:金田正一(巨人の永久欠番)が活躍して以来、サウスポー投手が多く、川口和久、山本昌らが使用した。
41:「良い」という語呂合わせで選手に好まれる番号。谷沢健一、稲葉篤紀、小林宏之らはこの背番号を背負ってタイトルを獲得した。
42:「死に」につながるため日本人選手は避ける傾向があるが、MLBにおいては全30球団で永久欠番となったジャッキー・ロビンソンの背番号であるため、外国人選手に好まれている。現役ではアレックス・カブレラ、マーク・クルーンなど。
44:レジー・ジャクソンやハンク・アーロンの番号ということもあり、70年代頃から門田博光らが付け始め44=スラッガーというイメージが定着し始めた。その後三冠王を獲得したブーマー・ウェルズ、ランディ・バースなど、外国人選手の使用例が多い。
47:工藤公康の活躍以降は左腕エースの象徴とされる背番号となった。1999年にはセ・パを代表する背番号47を付けた左のエースとして工藤と野口茂樹が共にMVPを受賞するということもあった。現在では杉内俊哉らがいる。
51:イチローの背番号として有名だが、デビュー時の江藤智、鈴木尚典、前田智徳も51をつけていた。イチロー以降は俊足巧打の左打ちが多い。
55:日本記録のシーズン55本塁打にちなみ、それを目指したパワーヒッター級の選手がつけることが多い。松井秀喜はその代表例である。他に現役では嶋重宣、T-岡田らが付けている。
70 - 99番
70 - 89:監督(二軍監督も含める)、コーチ、スタッフ(打撃投手やブルペン捕手など)が付けるケースがほとんどである。現役選手が70 - 89をつける場合は新人選手が多い。門田博光(78)や広澤克実(80)のように主力選手がつけることもあったがこれらは稀で、現在主力級の選手で着用しているのは福岡ソフトバンクの田上秀則(70)がいる程度。
86:ハムの語呂合わせから大沢啓二が着用し日本ハムでは事実上の永久欠番となっている。
90 - 98:コーチやスタッフが主につけるが、支配下選手の背番号となることも多い。この場合は移籍選手や新人選手が多い。
育成選手から支配下登録選手への昇格の際、アマ(100番台)からプロに昇格という意味合いで90番台を与えられることが多い。広島はドミニカ共和国に設立しているアカデミー出身選手(支配下登録をしていない練習生を含む)に90番台を充てている。
99:99を現役選手として最初に使用したのは1976年の鳥坂九十九(近鉄)で、もちろん自身の名前(九十九=99)にちなんだものである。2桁の整数最後の数であることから「後がない」という意味で、巨人の山口鉄也や隠善智也など、育成枠上がりの選手、中村紀洋(オリックス→中日)など、戦力外通告から復帰した選手に用いられることもある。
2008年に埼玉西武ライオンズ監督に就任した渡辺久信も99で、自身の愛称である「ナベQ」と「野球において100点満点は不可能だが、せめてその一つ下を目指す」という思いから背負うことにしたと語っている。これはプロ野球の監督史上最も大きい背番号。
00 - 09、0番
0:広島に所属していた長嶋清幸が1983年に初めて使用したのを皮切りに、1980年代以降になって使われるようになった番号だが、現在では完全に定着し、ほとんどの球団でこの番号が使用されるようになっている。ただし正式登録選手以外では、1936年に養成選手(練習生)として名古屋(現・中日)に入団した西沢道夫、1946 - 1947年にブルペン捕手として巨人に在籍した長岡久夫、1948年にブルペン捕手として急映に在籍した太田義次が付けたことがある。0番を付けた選手の登場が、2004年に新規参入した楽天を除き近鉄を含む12球団で最も遅かったのは西武で、1996年の羽生田忠克が初めて。
0は他の一桁番号とは異なり、野手に用いられることはそれほど多くなく、前述の長嶋清幸、川相昌弘(巨人時代の1989 - 1999)、諸積兼司(ロッテ)、木村拓也(広島時代の1999 - 2006・巨人時代の2007 - 2009)が目立つ程度である。なお、背番号0の読み方は「れい(零)」ではなく「ゼロ」と英語読みとなる場合がほとんどである。
また、かつて日本ハムの松浦宏明が投手でありながら0を使用していたが、後に他の番号に改めている。このように、投手の使用例でも、長期間にわたって0が使用された例は数えるほどしかなく、現在は中日の金剛弘樹、千葉ロッテの荻野忠寛が0を付けている。
日本のプロ野球で現在まで、0を捕手や外国人選手で使用した例はないが、野手登録の木村拓也と井生崇光が捕手として出場したことがある。
00:阪神に所属していたルパート・ジョーンズが1988年に初めて使用したのを皮切りに、他の球団でも使われるようになった。ただし0ほど使用頻度は高くなく、00をつけて活躍した選手は亀山努、小坂誠などが目立つ程度である。西武では2003年まで使用する選手がおらず、2004年にスコット・マクレーンが使用して以降空き番号となっている。なお、00の読み方は「れいれい(零々)」ではなく「ゼロゼロ」と英語読みとなる場合がほとんどである。
00を付けて活躍した投手としてはカルロス・ミラバル、D.J.ホールトンが目立つ程度である。
01 - 09:00が一般に使用されているのに対し、01 - 09のような「00以外で10の位が0番台の2桁の背番号」は現在、読売ジャイアンツ及び埼玉西武ライオンズの打撃投手のみが使用している。現在、支配下登録選手が背番号を付ける場合、01 - 09の使用は禁じられている。
1993年に阪神に在籍していた松永浩美は、「開幕当初から故障が多発したのは、自分が付けていた背番号2のせいだ」として、シーズン途中に自ら背番号を02に変更することを申し出て、了承された。その後の育成選手制度導入の際、支配下選手は00、0、1 - 99を付けるよう規則が改正されたため、規則が改正されない限り、支配下登録選手で01 - 09番をつけたのは松永が唯一となる(松永以前に、オレステス・デストラーデがユニフォームを忘れたため、05の番号のついたユニフォームをスタッフから借りて試合に出たことがある)。
北海道日本ハムファイターズは、「0は整数ではあるが、通常は1番から始まる社会通念上の“番号”(=自然数)という定義では違和感がある」・「小学校、中学校、高校、大学のアマチュアのカテゴリーでは社会人を除いて0での公式大会の出場は不可」などの理由から、日本プロ野球12球団中唯一00、0を2006年以降使用していない[1][2]。日本ハムで00を最後に使用したのはカルロス・ミラバル、0を最後に使用したのは巨人へ移籍した古城茂幸である。
合併による消滅前のオリックス・ブルーウェーブも、2002年から最後の年となる2004年まで0、00を使用していなかったが、合併によりオリックス・バファローズとなった現在、0、00は使用されている。
100番以降
3桁の背番号は、もともと巨人が支配下登録選手の増加に伴い、コーチに用いたのが最初であった。現在は育成選手及びスタッフ(打撃投手、ブルペン捕手、用具係)に充てられているが、100番台がほとんどである。200番台は中日の育成選手の背番号にしか使われておらず、300番台以降はまだ使われていない。
支配下登録選手で3桁の背番号をつけ、目立った実績を挙げた例は、かつて広島に在籍していたロビンソン・チェコの106が唯一である。
1993年にパ・リーグにおいて、「現役選手の背番号は00・0と99番以下」という見解が出された(この時の経緯の詳細については前述)。2006年からは育成選手制度がスタートし、育成選手の背番号は100番以上を用い、支配下登録時には99番以下に変更されることが決められた。これにより支配下登録選手が3桁の背番号で登録される可能性は現行ルールの下では完全に消滅した。
4桁の背番号のオーナー権をファンに対して発行している球団がある。
- 福岡ソフトバンクホークス:2007年から、1001から9998まで
- 東北楽天ゴールデンイーグルス:2009年から、1001から9999まで
監督の背番号
1950年代頃まで、各チームとも選手・スタッフの数は30人以下であり、監督が最大の背番号30を背負うチームが多かった。選手の数が増えるにつれ監督・コーチの背番号は大きくなり、現在は70 - 80番台が多く用いられている。これらの背番号には、監督自身や周囲の意見による縁担ぎによるものが多いことが読み取れる。なお、監督が背番号30をつけた例は、近年では上田利治くらいである。
長嶋茂雄(3)、山本浩二(8)、村山実(11)など、監督に就任後、自らの永久欠番を復活させたり、王貞治(1)、古田敦也(27)など、監督就任後も現役時代の背番号を引き続き背負った例がある。また、長嶋茂雄の33、落合博満の66、野村謙二郎の77、山本浩二や高田繁、原辰徳や梨田昌孝の88のように、現役時代の背番号を2つ重ねるケースも見られる。
野村克也は、1桁目と2桁目を足すと10になる番号にこだわり、ヤクルト監督時代は73、阪神監督時代は82(阪神最終年は73)、東北楽天監督時代と現役時代は19を使用した。
長嶋茂雄は第一次長嶋政権時代(1975 - 1980年)の背番号を長男の長嶋一茂の提案で90番に(背番号3番+長嶋の守備位置である三塁手+3番バッター=9に「0からのスタート」の0を加えたもの)した。
川上哲治は巨人軍監督に就任した当初(1961 - 1964年)は選手時代の16を使用していたが1年毎の優勝と言う成績に終わり、1965年より息子が大ファンだった当時の人気ドラマ「サンセット77」にちなんで77に背番号を変更したところ、前人未到の9連覇を達成した。また、川上を師と仰ぐ星野仙一も川上にあやかって77を使用した。
背番号の変更
一般に日本球界では若い番号がレギュラーの証として認識される傾向があり、一軍定着に従って背番号を若い番号に変更するケースが多い。西武における秋山幸二の71→24→1などが典型例である。また、1983年に巨人で50の駒田徳広、54の槙原寛己、55の吉村禎章が揃って台頭し「50番トリオ」と呼ばれたが、数年後にはそれぞれ10、17、7へと出世している。だが、中には若い背番号を大きい番号へ変更するケースもあるが、これらは懲罰、後継者指名、心機一転などの様々なケースがある。
- 成績不振、不祥事やトレード拒否に伴うから若手・移籍選手などに背番号を「奪われる」ケース
- 中日の藤波行雄は、1977年シーズン前にクラウンライターライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズ)とのトレードが発表されたが、藤波は拒否。これに対し球団からは背番号3から40への変更と、一定期間の一軍出場停止の処分を下した。逆に言えば、背番号を取り上げられることが罰となりうるほど、選手にとって背番号は重い意味を持つともいえる典型的な例と言える。
- ある背番号に定着した選手の復帰に伴う変更のケース
- 東京ヤクルトに在籍している高井雄平は、入団当初の背番号が16であったが、メジャーから石井一久が復帰するとともに背番号を22に変更した。ところが今度は高津臣吾が復帰し、翌年から高津が背番号22を着用することに伴い再度変更、現在の41となっている。横浜の吉見祐治も入団当初は22だったが、マリナーズから佐々木主浩が復帰するのに伴い21に、ロッテのサブローはボビー・バレンタイン監督の復帰に伴い2→3へ変更した。
- その背番号を着用していた選手が現役引退して、その後継者を指名して背番号変更をしたケース
- 北海道日本ハムファイターズに在籍した新庄剛志は、自身が着用していた1の後継者に同じ外野手の森本稀哲を指名し、森本は翌年から背番号1に変更している。
- あえて心機一転の意味を込め、大きな番号へ変えるケース
- 元中日の谷沢健一が、1976年に14を「良い」に引っかけて41に数字を入れ替え、首位打者を獲得した。最近ではオリックスの木佐貫洋が巨人時代に、トム・シーバーになるようにとの原監督の意向で21→41と大きな背番号に変更させられたが、木佐貫は2007年に自己最多の年間12勝を達成した。
- 好きな選手、憧れの選手の番号へ変更するケース
- 吉井理人は近鉄時代、箕島高校の先輩である東尾修の21へ、山北茂利が中日時代とロッテ時代、ランディ・ジョンソンに憧れて51へ、帆足和幸(西武)が工藤公康にちなんで34を47に変更したケースなどがある。
- 原点に返るという意味で、若手時代に使用していた背番号に再変更するケース
- 後述の新庄剛志の他、彦野利勝の57→8→57、池山隆寛の36→1→36、鈴木尚典の51→7→51、佐伯貴弘の26→10→26などがある。(例外として、選手からコーチに転進したケースでは、井上一樹の99→9→99がある。)
- 自身が直接大きな背番号を選ぶケース
- 門田博光が代表的な例。27→44→60(南海)→78(オリックス)→53(ダイエー)の順であるが、大きな背番号が控え選手の象徴とみなされる傾向にある日本球界において、このような主力級選手の背番号変更は異例中の異例である。
- 移籍1年目は移籍前と違う番号を使用したが、2年目以降に元に戻したケース例
- 工藤公康の47(西武)→21→47(ダイエー→巨人→横浜)、稲葉篤紀の41(ヤクルト)→58→41(日本ハム)、木村拓也の0(広島)→58→0(巨人)、小関竜也の31(西武)→49→31(巨人)、小池正晃の44(横浜)→30→44(中日)などがある。
谷繁元信は、大洋 - 横浜時代に1を、中日移籍後は7を一時期使用していたが、いずれも後になって違う番号に変更されている(横浜は8、中日は27)。理由はいずれも「捕手のイメージに合わない」という当時の監督(横浜では近藤昭仁、中日では落合博満)の意見による。
中日の森野将彦は、過去に7→8→16→8→31→3→30と6回背番号を変更しているが、現在の「30」以外は全て他人の都合で振り回されたもの。詳しくは森野将彦を参照。
垣内哲也は、西武時代に39→63→33→12→55と5種類の背番号をつけてきた。ロッテ時代の背番号38も含めると野球人生で都合6度の背番号変更となっている。 なお、西武時代の39と33は、シーズン途中で外国人選手が加入したために変更されたものである。
現在まで最大の背番号変更幅は、育成選手から支配下選手になる場合を除けば、中村真人(楽天)の99→00である。チーム移籍または育成選手の場合では、中村紀洋の8(オリックス)→205(中日)、育成選手から支配下選手の場合はチェン・ウェイン(中日)の203→21が最大の背番号変更幅である。
同一チームに所属したまま最も数多く背番号を変更したのは前述の森野将彦(中日)および落合英二(中日)で、落合の場合は19→12→70→71→25→26と6つの番号を背負っている。逆に同一チームで最も長く同じ背番号を使用したのは巨人の王貞治で、現役・助監督・監督として背番号1を30年間背負い続けた(1959年 - 1988年)。
シーズン中に背番号を変更した例としては、2006年9月27日の北海道日本ハム・シーズン最終戦で、引退宣言をしていた新庄剛志が本来の1から阪神時代に付けた最初の背番号63に、同時に本来63をつけていた渡部龍一も68に変更した。両者とも翌日、元の番号に戻された。
選手によっては特定の背番号に思い入れを持ったり、縁起を担いで他の選手と番号を交換してもらうなどのケースも多い。例えば日本ハム在籍時の武田一浩は、麻雀の1-4-7(イー・スー・チー)の筋が好きだという理由で五十嵐信一と背番号を交換し、15から4に変更している。
最近では出世しても背番号を変更せず、大きな背番号を自分の番号として「育てる」選手が増えている。メジャーリーグでも同じ番号を使い続けるイチローの51、松井秀喜の55などが有名だが、こうしたケースの嚆矢は金田正一の34であろう。工藤公康の47、川崎宗則の52、五十嵐亮太・赤星憲弘の53、石井弘寿の61、斉藤和巳の66、田上秀則の70など、こうした傾向には近年さらに拍車がかかっている。
メジャーリーグ
初めて正式に背番号を採用したのは、1929年のニューヨーク・ヤンキースである。当時の背番号は1番打者が1、2番打者が2という風に、8まで打順通りに割りふられていた。そして、その頃は捕手が8番を打つことが多かったので、8が捕手の番号となり、9は控え捕手に与えられた。そして投手は、11 - 21までの番号をつけることになった。当初は「人間に番号をつけるなど、囚人のようでイメージが悪い」ともいわれたが、ファンにとって遠くからでも選手を認識できるメリットは大きく、数年のうちに各球団に広まっていった。
背番号が一般的になった1932年当時は、「1 - 9はレギュラーの打順、10 - 19はベンチ入り、20 - は投手」あるいは「1 - 9はレギュラー、10 - 19は投手、20 - はベンチ」というシステムがあった。
しかし、その後多くのチームが背番号を採用するようになると、打順通りに背番号をつけるという習慣はなくなっていき、今では投手は2桁の背番号をつけるという慣習だけが残っている。投手が1桁の背番号をつけることは、あまり好ましく思われない。ただし、トロント・ブルージェイズ時代に7を付けたジョシュ・タワーズのような例もまれにある。日本のような18がエースナンバーといった習慣もなく、それどころか10番台は今日では野手の背番号となっている。10番台の投手が全くいないわけではないが、野手と比べると少ない。
「若い番号=主力選手」という傾向は日本ほどには強くなく、ジョナサン・パペルボンの58、バリー・ジトの75のように大きな番号を背負って活躍する主力級選手も少なくない。また監督やコーチが70・80番台を用いるといった慣習もなく、トミー・ラソーダの2、ジョー・トーリの6のように監督が1ケタの番号を用いているケースも見られる。特にヤンキースでは、永久欠番(準永久欠番を含む)になっていない1ケタの背番号が2008年時点で2(現在はデレク・ジーターが着用)しかなく、小さな番号を付けたくても付けられないという事情もある。
13はキリスト教圏で不吉な数字とされているが、好んで着ける選手は多い。13は縁起が悪いというよりも、強大な力を持つ数字という考え方をするようである。また、シンシナティ・レッズ黄金時代のいわゆるビッグ・レッド・マシーンの一角を担った、史上屈指の遊撃手ともいわれる、ベネズエラ人メジャーリーガーデーブ・コンセプシオンが背番号13を背負っていたこともあって特に中南米の選手には13を好んで着用する例が多い。
春のオープン戦にAAA級などのマイナーリーグの選手がメジャーリーガーと一緒に試合に参加する際には、50番台、60番台などの使用されない背番号が与えられ、マイナーに戻るとそのチームで着用していたメジャーと違う背番号に戻す。それより上の番号は打撃投手、ブルペン捕手、用具スタッフ、スプリングトレーニング・コンディショニングコーチ、通訳などのスタッフが着用する。
メジャーリーグでは、普段は0 - 99までが使用される。3桁は日本と違ってまだ使用されたことがなく、田口壮などの「99」が史上最大の背番号である。整数以外の番号としては、1951年に身長109cm・体重30キロの選手エディー・ゲーデル (Eddie Gaedel) が背番号1/8(8分の1)を着用したが、1試合で出場禁止になった。0や00は日本ほどの人気(または必要性)はないが、オマール・オリバレス(Omar Olivares)が自分の頭文字O.O.にちなんで00を選んだことがある。
偉大な選手の背番号を永久欠番とする慣習がある。その数が最も多いのもやはり初めて背番号を採用したニューヨーク・ヤンキースで、現在16の背番号(17人)が永久欠番となっている。1997年には、黒人選手第1号ジャッキー・ロビンソンの背番号「42」が全球団共通の永久欠番となった。ただし、永久欠番決定以前に背番号42をつけていた選手は特例でつけ続けることが認められており、ヤンキースのマリアノ・リベラがメジャーで最後の背番号42の選手である。球団によっては監督やコーチ、オーナーの他、ファンまでも永久欠番に指定している場合もある。クリーブランド・インディアンスは455を永久欠番にしているが、これは1995年6月12日から2001年4月4日まで455試合連続で入場券売り切れの記録を作ったことにちなむ。
日本である程度の実績をあげた選手がメジャーリーグに移籍する場合、日本時代の番号を引き継ぐことが多い。松坂大輔の18、佐々木主浩の22、松井秀喜の55、イチローの51、岩村明憲・福留孝介の1など。
背番号に託されたイメージ
例が増えすぎる傾向があるので、列挙するのは3人程度にして下さい |
1 - 10番
1:冒頭に述べたようにアメリカには「エースナンバーは1」という概念はない。アメリカのスポーツ誌「スポーツ・イラストレイテッド」が実施した背番号別に最強選手を選ぶ企画では王貞治が選出された。
ニューヨーク・ヤンキースで最初に背番号1を付けたのは俊足巧打アール・コームスである。この影響か俊足の内野手というイメージの選手が多い。オジー・スミスやボビー・ドーアなどが代表的。
監督の背番号としても用いられ、ビリー・マーチンらが着用している。
2:2=セカンドということから古くは二塁手が多い。チャーリー・ゲーリンジャー、ビリー・ハーマン、レッド・ショーエンディーンスト、ネリー・フォックスの四人がアメリカ野球殿堂入りを果たしている(ただし全員2番以外の背番号も付けたことがある)。
しかし1990年代にデレク・ジーターが登場して以降はむしろ遊撃手が多く着用している。
監督ではボビー・バレンタインやトミー・ラソーダらが着用している。
3:すでに述べたようにベーブ・ルースの背番号が3なのは3番打者であるからに過ぎないが、ルース以降パワーヒッターが着用することが多く、ジミー・フォックスやアレックス・ロドリゲスらが着用している。
他にもナ・リーグ最後の4割打者ビル・テリーやアール・アベリル、ハロルド・ベインズらが永久欠番になっている。
4:日本では「死」を意味するため忌避されるが、勿論アメリカでは関係ない。しかし背番号4を背負っていたルー・ゲーリッグの死が最初の永久欠番の切っ掛けになっている。
監督では若くして選手兼任監督になったジョー・クローニンや通算退場100回以上のアール・ウィーバーの例がある。
5:名三塁手が多い背番号でもある。ブルックス・ロビンソン、ジョージ・ブレット、現役ではデビッド・ライトが挙げられる。
6:「男の中の男」と呼ばれたスタン・ミュージアルを筆頭に人格者、ジェントルマンというイメージが強い番号である。アル・ケーライン、ロイ・ホワイトなど。
7:ラッキーセブンと幸運の数字であるが、現在のところ永久欠番になっているのはミッキー・マントルのみである。
8:連続試合出場世界記録保持者のカル・リプケンを筆頭に現役生活を長く続けた選手が多い。カール・ヤストレムスキーは43歳まで、ウィリー・スタージェル、アンドレ・ドーソンは42歳までプレーしている。ヨギ・ベラも一度引退して監督になったが40歳になって現役復帰し4試合に出場している。ベラ以降捕手の着用者が多い。
9:背番号9にはワールドシリーズで活躍した選手が多い。1946年のワールドシリーズでヒーローになったイーノス・スローター、ワールドシリーズ3勝3敗の第7戦でサヨナラ本塁打を放ったビル・マゼロスキー、「ミスター・オクトーバー」ことレジー・ジャクソンらが挙げられる。
10:投手では古くはレフティ・グローブ近年ではマイク・ハンプトンらが挙げられる。日本人選手に縁がある番号であり、日本人初のメジャーリーガーの村上雅則や高津臣吾、野茂英雄らが付けている。
監督も多く、スパーキー・アンダーソン、ジム・リーランドらが着用。
11 - 20番
11:野手の番号であり特に三遊間の選手が多く占める。遊撃手ではルイス・アパリシオ、バリー・ラーキンらが、三塁手ではケン・カミニティ、ダグ・デシンセイらが挙げられる。
12:二塁手が多い。現在の所永久欠番になっているのはウェイド・ボッグスのみである。
13:不吉な背番号として忌避される。メジャー史上最も劇的な本塁打を打たれたラルフ・ブランカが背負っていた番号であることからより不吉さに拍車を掛けている。そのブランカの娘と結婚したボビー・バレンタインも13番を付けた時期がある。
ベネズエラ出身の遊撃手が非常に多く、デーブ・コンセプシオン、オジー・ギーエン、アレックス・ロドリゲスらが挙げられる。
15:飛行機事故でシーズン中に死去したサーマン・マンソンの永久欠番。投手ではレッド・ラフィングが唯一の殿堂入り。
16:10番台では最も永久欠番の多い番号である。テッド・ライオンズ、ホワイティー・フォード、ハル・ニューハウザー、ドワイト・グッデンらが永久欠番。ドジャーズではヴァン・リングル・マンゴ以来名選手が多い。
17:マーク・グレース、キース・ヘルナンデス、ダリン・アースタッドら左打ちの一塁手が多い。
カルロス・メイは誕生日が5月17日であることから17番を着けることでユニフォームに「May 17」と記されていた。
18:日本と違い投手は少ない。日本人投手では松坂大輔、黒田博樹、五十嵐亮太らが背負っている。永久欠番になっているのはテッド・クルズースキー。
野手ではダリル・ストロベリー、ジョニー・デイモンなど巧打者が占める。特にパイレーツにはデブス・ガームス以来好選手が多い。
19:ボブ・フェラー、ロビン・ヨーント、トニー・グウィンとメジャー史に残る大物だが、共通点として三人とも地方の球団に所属していたことである。
20:フランク・ロビンソン、マイク・シュミット、パイ・トレイナー以来好打者がつけることが多い。
21番以降
21:ロベルト・クレメンテが使用し、所属したピッツバーグ・パイレーツでは永久欠番。中南米系の選手ではクレメンテに憧れてこの番号を使用する選手も多い。投手ではロジャー・クレメンス、ボブ・レモンが有名。
22:20番台の中では投手の使用率が高い。ヴァージル・トラックス以来特にア・リーグの名投手が多い。デービッド・コーンが22番を付けたのはロイヤルズに所属した1994年の1年間のみであるがこの年にサイ・ヤング賞を受賞している。野手ではビル・バックナーが著名。
23:殿堂入りはライン・サンドバーグのみ。
24:バリー・ボンズ、ケン・グリフィー・ジュニアと90年~2000年代を代表する大打者が共に24番。これは二人ともメジャーリーグ史上最高の「コンプリート・プレイヤー」と称されるウィリー・メイズに憧れていたからである。特にボンズにとってメイズは名付け親でもある。
リッキー・ヘンダーソンは何度も背番号を変更しているが24番に一番愛着がありブルージェイズに移籍したときも24番の選手を説得して交換したほどである。
ドジャーズではウォルター・オルストンの永久欠番。
25:フランク・ハワード以来日本と同じくスラッガーの多い番号である。ボビー・ボンズと息子のバリー・ボンズも一時25番を付けたが、親子どころかバディ・ベルとその父ガス・ベル、長男のデービッド・ベルと3世代で25番を付けた例もある。
投手ではトミー・ジョン、ジム・アボット、モンティ・ストラットンなど病気に悩まされた選手が多い。
26:ウェイド・ボッグス以来打率を残せる中距離ヒッターの多い番号。アレハンドロ・ペーニャは監督在任中に死去したため永久欠番になっている。またジーン・オートリーはエンジェルスの初代オーナーとして永久欠番になっているがベンチ入りの25人に次ぐメンバーとの意味も込められている(日本のロッテと同じ)。
ソフトボール
ソフトボールでは、背番号(ユニフォームナンバー;UN)は1 - 99番までを使用しなければならない。ただし、監督は30番、コーチは31・32番、主将は10番と定められている。
また、中学・高校での公式戦の場合、コーチ番号のうち、31番は教員、32番は外部指導者がつけるように定められているケースもある。
サッカー
始まり
サッカーの母国イングランドでユニフォームに背番号がつけられるようになったのは、1920年代になってからである。1928年のアーセナル対チェルシーのリーグ戦で、初めて使用された。選手は1 - 11までの背番号を与えられた。そしてそれが義務化されたのは、1939年のことであった。初めはどの数がどのポジションを表すかという規則はなかったが、時間が経って様々なフォーメーションが現れるにつれ、ほとんどのチームにその傾向が認められるようになった。1965年にゲーム中の交代が認められるようになると、交代要員は、通常、12番を着けた。2人目の交代が許されるようになると、そのプレーヤーは14番を着けた。ジンクスを信じるサッカープレーヤーが、縁起の悪い数字とされる13番を強制的に着けさせられることはなかった。
19世紀末から1920年代半ばまで世界のサッカー界を席巻していたのは、(1-)2-3-5のピラミッド・システムだった。後ろから、ゴールキーパー (GK) 1人、フルバック (FB) 2人、ハーフバック (HB) 3人、フォワード (FW) 5人が並ぶフォーメーションである。そのフォーメーションに対し、後ろから順番に番号が与えられた。
まず最後尾のGKは1番。続いてFB。右から順に番号を割り振り、ライトバック2番、レフトバック3番。HBも同様に、右からライトハーフ4番、センターハーフ5番、レフトハーフ6番。FWはライトウィング7番、インサイドライト8番、センターフォワード9番、インサイドレフト10番、レフトウィング11番となった。 この背番号がスタンダードとなり、世界に広まっていった。
しかし、その後のそれぞれの国でのフォーメーションの変化にともない、各背番号が指すポジションは国ごとに変化していった。
ただし過去には、ワールドカップでのアルゼンチン代表やイタリア代表のように、背番号を名前のアルファベット順に割り振った国もあった。
イングランドでは、1930年代から3-2-2-3のWMシステムが一般的になる。それにともない、HBから5番のセンターハーフがFBの真ん中に下がる。そしてFWから8番と10番が下がってHBに加わった。 このフォーメーションと背番号がヨーロッパ全体に広まった。
1960年代には、6番がディフェンスラインに下がって4バックを形成する4-3-3へと変化する。
その後、ヨーロッパの中ではいち早く4-4-2システムに移行。現在のイングランドで4-4-2と言えば、GK 1、DFは左から3 6 5 2、MFは左ハーフ11、中央に4と8、右ハーフ7が並ぶ。そして、FWはセンターフォワードの9番と10番がコンビを組むこととなる。
4番と8番では、8番の方が攻撃的。シャドーストライカーをこなすタイプや、他国なら10番を付けるタイプが務める。他国とは異なり、イングランドでは10番と言えば、主にチームのエースストライカーを指す。
南米
南米では、フォーメーションはヨーロッパとは異なる進化を遂げる。3バックを経ずに、いきなり4-2-4システムという4バックのフォーメーションを採用。
ブラジルでは、HBの両サイド、4番と6番がFBの2人を挟むように下がり、FWラインから8番がHBに加わった。その後、4番が内側の2番と入れ替わり、現在の4バックの布陣となった。左から並べると、6 3 4 2となる。
一方、アルゼンチンではHBの4、6番は、FBと交互に並ぶように後ろに下がった。左から並べると3 6 2 4となる。
1958年にはブラジルがこのフォーメーションでワールドカップを制覇。この時、ペレが10番をつけていたことが、チームの中心=10番というイメージを世界中に広めることに一役買った。その後、ブラジルは4-3-3を採用して1962年のワールドカップも制し、世界中の国がそれを採用することになった。
現在のブラジルでは、4-4-2の場合、以下のようになることが多い。GK 1、DFは左から 6 3 4 2、ボランチ 5 8、攻撃的MF 7 10、FW 9 11。もともと左右のウイングだった7と11は、FWとMFの位置を入れ替わることもある。
その他の国
オランダ
オランダの場合、伝統的なアヤックス風の3-4-3フォーメーションでは、GK 1、DFは左から5 3 2、MFはダイヤモンド型の下の頂点が4、左が8、右が6、上の頂点が10、FWは左から11 9 7となる。
スペイン
スペインの場合、一般的には4-2-3-1だが、オランダ人のクライフが監督を務めたバルセロナがオランダ風の背番号のつけ方をしていた。
フランス
ドイツ
現在
現在では背番号は固定制となり(以前は、試合ごとにスターティング・メンバーに1 - 11番までが与えられていた)、選手は好きな番号を年間通してつけられるようになった。特に目立つことが好きな選手には、昔は誰もつけていなかった大きな番号も選ばれるようになった。選手の特定は容易になったが、その反面、ポジションと背番号との同一性はあまり感じられなくなってしまった。
日本での一般的イメージ
Jリーグ以前の日本リーグやジャパンサッカーリーグの時代は、選手ごとに番号がつけられていた。Jリーグ発足後は試合ごとに背番号が与えられていたが、1997年からは固定背番号制がとられるようになった(詳しくは、日本プロサッカーリーグ#背番号の項参照)。
特に決まりはないが、日本では以下のように印象付けられることが多い。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。
背番号 | 印象 |
---|---|
1 | 正ゴールキーパー(GK) |
2 | 右サイドバック(RSB) |
3 | センターバック(CB)、左サイドバック(LSB) |
4 | センターバック(CB) |
5 | 守備的ミッドフィールダー(DH)、センターバック(CB) |
6 | 左サイドバック(LSB)、守備的ミッドフィールダー(DH) |
7 | 右ウイング、右サイドのミッドフィールダー、チャンスメーカー、ドリブラー |
8 | 攻撃的ミッドフィールダー(OH)、守備的ミッドフィルダー(DH) |
9 | センターフォワード、エースストライカー(CF) |
10 | 司令塔、トップ下、ファンタジスタ(OH)、センターフォワード、エースストライカー(CF) |
11 | 左利きのエースストライカー(CF)、セカンドストライカー、左ウイング、ドリブラー |
12 | サポーターナンバーとされ、実質欠番扱いのクラブもある |
16 | スーパーサブの背番号とされることがある(日本代表では、1993年当時の中山雅史、2000年代に入ってからは本山雅志、大黒将志など) |
有名選手と背番号
背番号は、ある特定の選手と結びついて記憶されていることが多い。
日本では、横浜F・マリノス並びに日本代表の10→木村和司・中村俊輔(ただし、ルーキーイヤーと現在は25をつけている)、横浜FM並びに日本代表の4→井原正巳(ただし、オフトジャパンでは7をつけていた)、浦和レッドダイヤモンズの9→福田正博、ヴェルディ川崎並びに日本代表の11→三浦知良、セレッソ大阪の8→森島寛晃、鹿島アントラーズの13→柳沢敦などが知られている。
自分の生まれた年の下二桁を背番号に選択するケースがあり、ロナウジーニョは1980年生まれということでミランでは80を付けており、また、2008-2009シーズンにはフラミニが84を、シェフチェンコが76をつけていた。リーガ・エスパニョーラでは登録選手数25人は1-25番を使用する為、今のところ事実上不可能。リーグの規定で認められていても、チームで大きすぎる番号を付けることを認めないチームもある。
- 太字の選手は永久欠番を持つ選手、バロンドールやFIFA最優秀選手賞の獲得、W杯優勝など世界的に影響を及ぼした選手。
- 2 : 一般的に右SBの番号。主な有名選手は、カフー(引退。ブラジル代表、ASローマ、ACミランなど)、パヌッチ(元ASローマ、現パルマFC)、ガリー・ネビル(イングランド代表、マンチェスターU)、アジャラ(元アルゼンチン代表、バレンシアCF時代)、コルドバ(元コロンビア代表、インテル)など。
- 3 : 元イタリア代表でのマルディーニが、現役時代所属していたACミランで着用(永久欠番)。ただし、彼の息子であるクリスティアン(ACミラン下部組織所属)が継承権を持っている。そしてライバルチームであるインテルではファッケッティの永久欠番。彼の引退後、生前は使用されていて、亡くなった時永久欠番となった。この時使用していたブルディッソは16番に変更。シーズン途中で背番号を変更することは非常に稀。他には、アレン・アイバーソンの影響で、モハメド・カロン(元インテルなど)が付けていた。
- 4 : 元オランダ代表のフリットが、サンプドリア・チェルシー所属時に使用していた影響で、ナイジェリア代表のカヌが代表時に着用し、さらにその影響でトーゴ代表のアデバヨールが代表時に着用している。サネッティがインテルで長年使用している。スペインではピボーテの背番号で、その代表が元バルセロナのグアルディオラ。主な選手ではセスク(アーセナル)、マケレレ(元チェルシー、現パリSG)など。レコバがトリノFC時代1シーズンだけ着けていた(空いていた番号を付けただけとのこと)。
- 5 : 一般的にはCBだが、ブラジルやアルゼンチンではボランチの番号。主な選手としてレドンド(レアル・マドリードなど)、ガゴ(レアル・マドリード)。他には、CBでもボランチでもないがジダン(元レアル・マドリード)、フォルラン(ビジャレアル時代、現アトレティコ・マドリード)、エムレ・ベロゾール(トルコ代表、元インテル、現フェネルバフチェ)など。
- 6 : 元イタリア代表のバレージが現役時代に所属したACミランで着用(永久欠番)。主にCBやボランチの番号だが、セレソンでは左ラテラルの番号。主な選手ではシャビ(バルセロナ)、ロベルト・カルロス(元ブラジル代表)など。
- 7 : 「快速アタッカー」というイメージがあり、近年の主な選手としてキーガン(引退。イングランド代表、リヴァプールFC・ハンブルガーSVなど)、フィーゴ(バルセロナ、インテル、ポルトガル代表など)、シェフチェンコ(ウクライナ代表、元ACミラン・チェルシー、現ディナモ・キエフ)、ラウール(レアル・マドリード)、ビジャ(スペイン代表、バルセロナ)、ピレス(元フランス代表、元アーセナルFC、現ビジャレアル)、クラウディオ・ロペス(代表・ラツィオなど)。マンチェスターUでは特別な番号とされ、ベスト、ロブソン、カントナ、ベッカム、クリスティアーノ・ロナウド らが着用し、それぞれクラブの歴史に名を残している。ロナウドはマンU移籍時、前所属チームのスポルティング・リスボンで使用していた28番を付けたかったが、監督のサー・アレックス・ファーガソンが期待を込めて彼に7番を付けさせた。デル・ピエロはイタリア代表で、トッティに10番を譲ってくれと言われ快く譲り、その後付けた番号が7番である。これはこれで気に入っているらしく、トッティが代表引退した今でも着用している。近年のチェルシーではこの番号を付けた選手が振るわないため、「呪いの番号」のようになってしまっていて(ムトゥ、シェフチェンコの影響、その後7を好むクアレスマが加入したが18を選択、後にインテルへレンタルバックし7を選択)、現在空き番となっている。
- 8 : MFの選手がつけることが多いが、旧ユーゴ地方ではミヤトヴィッチがクラブ・代表で使用していたこともあり、FWに人気の番号。ケジュマン(元セルビア代表)、ヨヴェティッチ(モンテネグロ代表・フィオレンティーナ)、イブラヒモヴィッチ(インテル時代、現FCバルセロナ)など。一般的には、ジェラード(リバプール)、ランパード(チェルシー)、ガットゥーゾ(ACミラン)などスタミナ豊富で攻守両面で活躍する、いわゆる "ダイナモ" と呼ばれるようなMFというイメージがある。
- 9 : 典型的なストライカー、特にセンターフォワードの番号。近年この番号の印象が強い選手では、ロナウド、フィリッポ・インザーギ、シアラーなどが挙げられる。ディ・ステファノ(現レアル・マドリード名誉会長)が現役時代着用していた番号。かつてヨハン・クライフは、自身が14番という番号を着用していることについての質問への回答として「だって9番といえばディ・ステファノ。10番はペレ。私がそんな番号付けたら紛らわしいじゃないか」と答えた。
- 10 : サッカーでは特別な番号とされ、テクニックに優れた選手 "ファンタジスタ" やチームの中心選手(主にオフェンス)が付けることが多い。イングランドでは少し文化が違ってあまり特別視されず、センターフォワードの番号とされていて(近年ではオーウェン)、10番より7番の方が格のある番号という印象がある。世界的名選手であるペレ、ディエゴ・マラドーナ、ミシェル・プラティニ、ジーコなどの影響により、こういった番号となった。1982 FIFAワールドカップアルゼンチン代表はアルファベット順に背番号を決めていた(1はMFのアルディレス)。しかし、マラドーナは10番を強く希望、そして順番を無視してこの番号を付けた。近年この番号の印象が強い名選手では、ロベルト・バッジョ、ルイ・コスタ、ジダン、トッティ、デル・ピエロ、リバウド、ロナウジーニョ、メッシなどが挙げられる。高いテクニックと創造性を備えた選手が多く東欧のブラジルと呼ばれた90年代旧ユーゴスラビアはオリンピック・マルセイユのストイコビッチ、レアル・マドリードのプロシネチキ、ACミランのサビチェビッチが同時期に西欧のビッグクラブで10番を背負っていたほか、同じくACミランで10番をつけるボバンなどを排出している。守備的なポジションでこの番号をつける選手は珍しく、その一人がアーセナル所属DFのギャラスである(これはヴェンゲルが、以前10番をつけていたベルカンプの引退時、次に付ける選手が偉大な彼と比較され、プレッシャーを感じるといけないと考えたため)。他に、リベロのマテウスや守備的MFのラッサナ・ディアッラ(レアル・マドリード)や、セリエA・キエーヴォ・ヴェローナなどで活躍したGKルパテッリ。かつてエンポリFCでは、10番を付ける権利を選手のオークションで決めたことがある。
- 11 : ロマーリオ(元ブラジル代表、現アメリカFC)、ギグス(マンチェスターU・元ウェールズ代表)、ドログバ(チェルシー・コートジボワール代表)、ベロン(エストゥディアンテス・ラプラタ・アルゼンチン代表)、クローゼ(ドイツ代表)、ジラルディーノ(イタリア代表、元パルマFC・ACミラン、現フィオレンティーナ)などが好んで付けている。引退選手は ネドベド(ユヴェントス・チェコ代表)、ミハイロヴィッチ(ラツィオなど・旧ユーゴスラビア代表)など。三浦知良はこの番号に非常にこだわりを持っている。移籍先で使用済みだったこの番号をお金で譲ってもらおうとした程(実際は冗談で他の番号を着用)。ロナウドのレアル・マドリード移籍が決まった際、彼の名が入った9番のレプリカユニフォームが公式ユニフォームができる前に出回りすぎてしまい、公式のものが売れなくなってしまった為、急遽この番号に変更した(2年目からは9番)。
- 13 : 一般的には不吉な番号とされているが、「強大な力を持っている」と捉え付ける選手もいる。ドイツにおいては、かつてゲルト・ミュラーがつけていたことから、栄光の背番号でもある。現在はバラック(チェルシー)が付けている。セレソンでは控えの右ラテラルの番号。他にはネスタ(ACミラン)、マイコン(インテル)、パク・チソン(マンチェスターU)など。
- 14 : オランダの世界的名選手ヨハン・クライフの番号として有名で、彼の影響でオランダでは10番より特別な番号。12番以降の番号では最も人気のある番号の一つ。彼がかつて所属したアヤックスの永久欠番。彼曰く「誰も付けていないこの番号を、これから自分の番号にするためだ。」 主な現役選手では、グティ(レアル・マドリード)、シャビ・アロンソ(元リバプール、現レアル・マドリード)、アンリ(元アーセナル、現バルセロナ)など。
- 15 : スペイン代表でセルヒオ・ラモスが付けている。これは親友であるプエルタの代表(キャップ数1)時の番号。また、カターニア所属の森本貴幸は、尊敬するイチローの背番号51をひっくり返した番号だからという理由で着用している。他には、テュラム(フランス代表)、トマソン(元ACミラン、現フェイエノールト)、1968メキシコオリンピック得点王釜本邦茂など。
- 16 : アルゼンチン代表時のアイマールが付けていた。日本代表での大久保嘉人は彼の影響。セビージャFCではプエルタを偲んで永久欠番となった(2009-10シーズンからディエゴ・カペルが継承)。他にロイ・キーン(引退。マンチェスターUなど)、デ・ロッシ(ASローマ)、カモラネージ(ユヴェントス)、フラミニ(元アーセナル、ACミラン)、バルテズ(元フランス代表)など。
- 17 : 7番を付けたいが使用済の場合付ける場合がある。クリスティアーノ・ロナウドは、ポルトガル代表では7番はフィーゴが使用、そして引退後は非公式永久欠番となっていた為この番号を使用。欧州選手権など登録選手は登録人数の1-23番までしか使用できない為、EURO2008は7番を彼が継承。この大会以降は7番を使用するようになった。またファビオ・カンナバーロがパルマ時代に着用しており、当時は彼に倣って着用するDFも多かった。
- 18 : サモラーノはインテル時代、移籍してきたロナウドに9番を取られた為、1と8の間に「+」を付けて使用していた。ロベルト・バッジョがミラン時代や、イタリア代表でデル・ピエロの台頭で彼に10番を取られた際に着けていた番号。メッシがアルゼンチン代表デビューから現在の10番を付ける前までしばらく着用していた番号。オリンピックサッカーでは第2GKの番号(登録人数18人)。
- 19 : クラブでは背番号9が多かったクレスポがアルゼンチン代表で長らく使用していた。これはバティストゥータが居たためである。他にはバルセロナで10番を付ける前(ロナウジーニョ在籍時)のメッシ、イタリアワールドカップ得点王時のスキラッチなど、スーパーサブ的なアタッカーが付けることが多い。フランクフルト時代の高原直泰の番号。2008年、浦和レッズに移籍し7番を選択するも振るわず、再びフランクフルト時代のような活躍を期して、翌年から19に変更。他にはザンブロッタ(イタリア代表)、サムエル(ASローマ・レアル・マドリード時代)、カンビアッソ(インテル)など。
- 20 : 10番を付けたいが使用済の場合付けることがある。パオロ・ロッシが82年スペインW杯で得点王獲得時に着けていた番号。セードルフ(ACミラン・現在は10)、レコバ(元インテル、現ダヌービオFC)、デコ(元バルセロナ、現チェルシー)、イグアイン(レアル・マドリード)、EURO2000でのトッティ、98年フランスW杯でのオーウェン、バティストゥータ(ASローマ時代)など。
- 21 : アイマール(バレンシア時代、現ベンフィカ)。これは移籍当時のバルセロナのルイス・エンリケの番号から。そしてアイマールの退団時、彼の名指しでシルバが継承。他にピルロ(ACミラン)、バレロン(元スペイン代表、デポルティーボ・ラ・コルーニャ)、ジダン(ユヴェントス時代)、テュラム(元パルマFC・ユヴェントス)など。
- 23 : サッカー界でもベッカム(LAギャラクシー)のようにマイケル・ジョーダンの影響で付ける選手もいる。他には(以降はジョーダンの影響かは不明)キャラガー(リバプール)、ファン・デル・ファールト(元ハンブルガーSV、現レアル・マドリード)、マテラッツィ(インテル)、アンブロジーニ(ACミラン)など。カカはミラン移籍時23を付けたかったらしい。
- 25 : ゾラ(元チェルシー、非公式永久欠番)。アデバヨール(元アーセナル、現マンチェスター・シティ)はヌワンコ・カヌのアーセナル時代の背番号から。他にはサムエル(インテル)、ペペ・レイナ(リヴァプールFC)、ボネーラ(元パルマFC、現ACミラン)など。
- 27 : バルセロナのカンテラ出身の若手FWであるボージャン(現在11)やペドロ(現在17)がかつて付けていた番号。マンチェスターUの若手FWマケダも付けている。他に、セルジーニョ(引退。ACミラン)。
- 28 : ジエゴ(ユヴェントス)、モウチーニョ(スポルティング・リスボン)など。
- 31 : シュバインシュタイガー(バイエルン・ミュンヘン)、スタム(引退。SSラツィオ、ACミラン)。
- 33 : ゴメス(バイエルン・ミュンヘン)、チアゴ・シウバ(ミラン)など。
- 44 : オッド(ACミラン)、ティモシュチュク(バイエルン・ミュンヘン)など。
ラグビー
ラグビーでは、一般的には、正選手には1 - 15番までが与えられ、その背番号がポジションを示す場合が多い。
現在ではフォワードからフルバックへと、1 - 15の順にナンバリングされているが、背番号がつけられるようになった当初は、1がフルバック、2 - 5がスリークォーターバック、6と7がハーフバック、8 - 15がフォワードというように、今とは逆に番号がつけられていた。
背番号 | ポジション | 略号 |
---|---|---|
1 | 左プロップ | PR |
2 | フッカー | HO |
3 | 右プロップ | PR |
4 | ロック | LO |
5 | ロック | LO |
6 | フランカー | FL |
7 | フランカー | FL |
8 | NO.8 | NO.8 |
9 | スクラムハーフ | SH |
10 | スタンドオフ | SO |
11 | ウイング | WTB |
12 | センター | CTB |
13 | センター | CTB |
14 | ウイング | WTB |
15 | フルバック | FB |
一方、ラグビーリーグでは、今でもフルバックの方から番号がつけられている。フルバックが1、バックスが2 - 7、そしてフォワードが8 - 13までである。
背番号 | ポジション | 略号 |
---|---|---|
1 | フルバック | FB |
2 | 右ウイング | W |
3 | センター | C |
4 | センター | C |
5 | 左ウイング | W |
6 | スタンドオフ | SO |
7 | スクラムハーフ | SH |
8 | 左プロップ | PR |
9 | フッカー | HO |
10 | 右プロップ | PR |
11 | フランカー | FL |
12 | フランカー | FL |
13 | ロック | LO |
バスケットボール
バスケットボールでは、各競技団体によって規定が異なる。
FIBAの国際ルールでは、1961年から、審判の3秒ルールに対するシグナルとの混同をさけるため、使用できる背番号は4 - 15番までとされた。これは登録人数が12人であるからだが、主要な大会では登録人数が15人または18人のことが多いため、日本協会のルール(JBAルール)では前記の原則に加えて大会主催者の決定によって2桁までの番号の使用が認められている。ただし、高校以下の年代においては各連盟により全国大会では4からの連番と規定されている。
NBAでは、0(00) - 99番まで使用可能である。ただし、56以上の番号を使用するにはリーグの許可が必要であり、また同じチーム内に00と0番を着ける選手がいてはならないという条件がある。また、チームを移らずに背番号を変更する際は、同じチームで最低4年間は同じ背番号を着け、期限までにリーグに申請を行う必要がある。そして、新しい背番号は最低3年間着けなくてはならない。
アメリカの大学バスケットのNCAAでは、00, 0, 1, 2, 3, 4, 5, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 20, 21, 22, 23, 24, 25, 30, 31, 32, 33, 34, 35, 40, 41, 42, 43, 44, 45, 50, 51, 52, 53, 54, 55 が使用可能な番号である。6以上の数字が使えないため、0 - 5を組み合わせて使用する。
bjリーグでは、2桁の番号であればどの番号でも使用可能である。また、1桁の番号は0を前に付けることも可能だが、0を前に付けない番号との併用(例:00番と0番)はできない。
バスケットボールでも偉大な選手の背番号を永久欠番とする慣習がある。NBAで最も数が多いのはリーグ最多の優勝を誇るボストン・セルティックスで、現在21の背番号が永久欠番となっている。セルティックスの「18」はジム・ロストカフが着用していたが、永久欠番を辞退し、後にデイブ・コーウェンスが着用し永久欠番となった。2003年には、マイアミ・ヒートでプレーしていないにも関わらず、マイケル・ジョーダンの背番号「23」がヒートの永久欠番となった。球団によってはコーチ、オーナー、ファンの他、コーチに纏わる記録までも永久欠番に指定している場合がある。また、現役中に事故や病気で亡くなった選手の番号が永久欠番となる場合もある。
背番号がある特定の選手と結びついて記憶されていることも多く、カリーム・アブドゥル=ジャバーの活躍以後33と34番を着用する選手が増え、マイケル・ジョーダンの活躍以後は23番を着用する選手が増えた。また、尊敬する選手や親族と同じ番号を着用する選手もいる。
背番号 | 尊敬対象選手 | 着用選手 |
---|---|---|
0 | ギルバート・アリーナス | ジェリド・ベイレス |
1 | アンファニー・ハーダウェイ | トレーシー・マグレディ |
2 | ジェリー・ターカニアン | グレッグ・アンソニー、ラリー・ジョンソン、ステイシー・オーグモン |
7 | ジャーメイン・オニール | アル・ジェファーソン |
8 | マイク・ダントーニ | コービー・ブライアント |
10 | ウォルター・ザービアック | ウォーリー・ザービアック |
11 | アルビダス・サボニス | ジードルナス・イルガスカス |
21 | マリック・シーリー | ケビン・ガーネット |
23 | マイケル・ジョーダン | レブロン・ジェームズなど |
30 | デル・カリー | スティーブン・カリー |
31 | レジー・ミラー | ショーン・マリオン |
32 | マジック・ジョンソン | ジェイソン・キッド、シャキール・オニールなど |
33 | パトリック・ユーイング | アロンゾ・モーニングなど |
91 | デニス・ロッドマン | ロン・アーテスト |
一般的には、ガードの選手は1番、3番など小さい数字を、パワーフォワードやセンターなど背の高い選手は大きい数字を選択すると言われている。
アメリカンフットボール
アメリカンフットボールでは1915年からユニフォームに背番号が義務付けられた。ポジションごとに選手の背番号がある程度規定されており、審判が各選手の不正な動きを判断する作業を助けている。背番号はユニフォームの前と後ろに大きくかかれており、「TVナンバー」と呼ばれることもある。
NFL
NFLでは1952年に背番号の割り当てがルールに規定され[3]、1973年[4]および2004年[5]に改正された。
背番号 | 攻撃側 | 守備側 |
---|---|---|
0, 00 | なし | なし |
1 - 9 | クオーターバック、キッカー、パンター | なし |
10 - 19 | クオーターバック、キッカー、パンター、ワイドレシーバー | なし |
20 - 49 | ランニングバック、タイトエンド(80-89が埋まっている場合) | ディフェンシブバック(コーナーバック、セイフティ) |
50 - 59 | オフェンシブライン(センター) | ラインバッカー |
60 - 79 | オフェンシブライン(タックル、ガード、および50-59が埋まっている場合のセンター) | ディフェンシブライン |
80 - 89 | ワイドレシーバー、タイトエンド | なし |
90 - 99 | なし | ディフェンシブライン(60-79が埋まっている場合)、ラインバッカー(50-59が埋まっている場合) |
背番号割り当てがルール化された時点では、すでに各選手が使用していた背番号はそのまま継続することが認められていた。
NFLにおけるこの番号割り当ては、選手の最初の登録時のポジションを基準にしている。もし選手のポジションが同一チーム内で変更された場合は背番号の変更を行う必要はない。またフィールド上においては、選手は背番号によってポジションを制限されることはない(ただし、攻撃側が背番号50から79の選手をオフェンシブライン以外でプレイさせる場合には、「無資格番号が有資格ポジションに入る」ことをあらかじめ審判に報告しなければならない)。例えば、あるプレイにおいてランニングバックがスクリメージラインに上がりワイドレシーバーの位置につく、ショートヤーデージシチュエーションにおいて攻撃側がラインメン登録の選手をフルバックやタイトエンドとしてプレイさせる、あるいはパスシチュエーションにおいて守備側がワイドレシーバー登録の選手をディフェンシブバックとしてプレイさせる、などがある。なお、プレシーズン中はチームはレギュラーシーズン中より多くの選手を抱えることがあるため、上記ルールから外れた背番号を持つ選手が現れることがある。最終的に53名のロースターが確定すると、背番号は上記ルールに従って再割り当てが行われる。
ワイドレシーバーの背番号
ワイドレシーバーの背番号は1973年に80 - 89と規定されたが、1996年、80番台に空きがなくなったニューヨーク・ジェッツに入団したキーショーン・ジョンソンは、19番の使用を求め、彼の主張は認められた。そして2004年、NFLはワイドレシーバーが10 - 19番を使用することを正式に認めた。
背番号使用をめぐるトラブル
選手は、しばしばNFLに対し番号割り当ての例外措置を求めている。2006年、ニューオーリンズ・セインツのランニングバック、レジー・ブッシュはUSC時代に使用していた背番号5の使用を認めるか、背番号規定を変更するよう求めたが、NFL側は「1人の選手にだけ例外を認めることはできない」としてこれを却下し、チームは背番号25を与えた[6]。元シアトル・シーホークスのラインバッカー、ブライアン・ボスワースはオクラホマ大学時代に背番号44を使用しており、1987年のプレシーズンでも44で通した。彼は背番号44の使用を求めてNFLに対して訴訟を起こしたが敗訴し、背番号55に変更した。
NCAA
カレッジフットボールでは、より緩やかな番号割り当て制度が採用されている。ルールでは「無資格」ポジションでプレイするオフェンシブラインの背番号は50から79でなければならないとだけ規定されている。非公式に特定の慣例は存在し、選手は一般的にNFLのルールに応じた背番号を使用している。最小の番号はしばしばもっとも名誉あるものとして考えられ、クォーターバックやキッカー、パンターではなく、ランニングバック、ディフェンシブバック、あるいはラインバッカーが使用することもある。キッカーおよびパンターはたびたび40番台や90番台を使用する。このようにNCAAがNFLより柔軟なルールを採用しているのは、NCAAがNFLより多くの選手をロースターに登録することを認めているためである。そのためNFLのルールに沿うと背番号が枯渇するポジションが発生することがたびたびあり、オフェンスチームの選手とディフェンスチームの選手で同じ背番号を使用することも珍しくない。
アイスホッケー
アイスホッケーでは、1 - 99までの背番号の使用が認められる。
背番号 | 選手の特徴 |
---|---|
1, 30, 31, 33, 35 | ほとんどの場合、1番がGKの背番号となる。また30、31、33、35番もGKの背番号とされることが多い。 |
2 - 8 | DFである場合が多い。 |
9, 10, 11 - | FWはほとんどの場合、9番や10番台の背番号をつけ、それよりも大きい数字の背番号をつけることも多い。また、9番はチームの主力FWの背番号となる場合が多い。 |
99 | “アイスホッケーの神様”ウェイン・グレツキーが現役時代につけていた背番号で、NHLでは全チームから永久欠番として扱われている。グレツキーのデビュー以前は30番より若い数字の背番号が主流となっていたがグレツキーの影響で大きい数字の背番号をつける選手が見られるようになった。 |
ハンドボール
ハンドボールの背番号とその一般的な割り当てられ方。
背番号 | 選手のポジション、タイプ |
---|---|
1, 12, 16 | GK。 |
2 | キャプテンである場合が多い。 |
3, 4 | チーム内のエースである場合が多い。 |