しんかい
しんかい | |
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船首方向から見た"しんかい" | |
基本情報 | |
船種 | 深海探査艇 |
船籍 |
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所有者 | 海上保安庁 |
建造所 | 川崎重工業神戸造船所 |
経歴 | |
起工 | 1967年9月12日[1][2] |
進水 | 1968年5月17日 (着水)[3] |
竣工 | 1969年3月20日[3] |
就航 | 1970年 |
処女航海 | 1970年 |
引退 | 1977年1月28日 解役[4] |
現況 | 呉市海事歴史科学館で保存 |
要目 | |
排水量 | 90.88トン |
全長 | 16.5 m (54 ft) |
幅 | 5.5 m (18 ft) |
高さ | 5.0 m (16.4 ft) |
喫水 | 4.0 m (13.1 ft) |
推進器 | 電動機 |
速力 | 2.2ノット |
潜航深度 | 600 m |
搭載人員 | 乗員4名 |
その他 | 潜航時間: 10時間 |
しんかいは海上保安庁が保有していた有人潜水調査艇。日本で初めて建造された本格的な有人深海調査艇である。
建造に至る経緯
海洋開発や環境保全、災害対策の防止など、海を多目的に利用しようという機運を受けて、1961年、内閣総理大臣は海洋科学技術審議会に対して「海洋科学技術推進の基本方策について」の諮問を行った[5]。1963年に同審議会が行った答申では「当面、緊急に必要なものは、生物資源、地下資源の豊富な大陸棚の調査ができ、しかも自由潜航ができる潜水調査船の建造である」とされ、その必要性が主張された[5][6]。
これを受けて、1964年、科学技術庁において、東京大学工学部教授の吉識雅夫を委員長とする潜水調査船特別委員会が構成され、その下部機構として基本要目調査部会、実験研究部会、動力用電池小委員会が設置された[7]。昭和39年度で科学技術庁から日本造船研究会への委託研究として潜水調査船の要目についての検討(研究委託費 約2,000万円)、また昭和40年度では運輸省船舶技術研究所への委託研究としてその開発・建造に必要な試験研究が行われた(特別研究促進調整費 約520万円)[5]。
これらの試験研究の成果に基づき、昭和41年度潜水調査船建造費が成立し、海上保安庁に建造業務が依頼されて、3か年計画で遂行されることになった[5]。科学技術庁に潜水調査船建造会議が設けられ、その下部組織として第1部会(部会長:海上保安庁水路部長・松崎)と第2部会(部会長:東京大学工学部長・吉識)が構成されて、詳細設計の審査および設計と並行して進める諸種の試作研究成果の検討を行う体制となった[1]。
設計
潜水船の耐圧船殻の形状としては、一般に円筒、球あるいは円筒・円錐・球の組み合わせが採用される[7]。ペイロードと安全潜航深度の比率を検討すると、安全潜航深度300メートル以下では円筒、以深では球殻が有利となるが、球殻は真球度保持に工作上の困難があること、また所定の浮量を得るためひとつの球の径を大きくすると球内の容積効率が悪くなるといった欠点もあり、本船では、耐圧殻外の艤装の配置や船体抵抗も考慮して、直径4メートルの球殻2個を円筒殻で連結する方式とした[7]。
上記のような使用目的にあわせて、最大潜航深度は600メートルとされた[6]。潜水船の耐圧船殻はこの深度の水圧に耐えるというだけでなく、撓みによる有効浮量の喪失や深海における水温下降・海水圧縮に伴う海水比重増大などといった要素を勘案した上で安全潜航深度において正浮量となるように計画する必要があり、いたずらに強度の大きい材料を使用して船殻板厚を小さくすることが得策とは限らない[7]。これらの検討を踏まえて、前後耐圧球や脱出球、連絡筒などの耐圧部には、潜水艦などに使用実績の多い防衛庁規格NS46の高張力鋼が使用された[2]。
潜水船では、大潮流域でない限りは一般に高速は要求されない[7]。1ないし2ノットの低速で海底において観察・作業することが主目的であるから、速力よりは、船のx軸・y軸・z軸方向の運動およびこれら座標軸まわりの回転運動(ローリング・ピッチング・ヨーイング)の機敏性が重要である[7]。本船の常用速力は1.5ノットであり、通常の舵では効果を期待し難いため、船の両舷に1対と船尾に1個のノズル付きプロペラを装備した[7]。いずれも水中モーター(船尾は11 kW、両舷は2.2 kW)によって駆動され、船尾のプロペラは可逆かつ可変速、両舷のプロペラは可変速である[7]。また両舷のプロペラは水平軸の周りに360度回転できるため、全力前進の際には3基のプロペラを全て前進方向に働かせて、約3.5ノットの速力を出すことができた[7]。
動力源は50個の鉛蓄電池で、周囲温度25度のとき6時間率で100ボルト・2,000アンペア時である[7]。船内容積の有効利用と鉛蓄電池から発生する有害ガスから乗員を守るという観点から、これらの蓄電池は油漬けとされて耐圧船殻外に取り付けられている[7]。
船歴
1967年9月12日、川崎重工業神戸造船所の第7船台において起工された[1][2]。1968年3月22日には命名式が挙行され、「しんかい」と命名されたが、この際、この船名を公募した約800名のうちの1人である芦別市立常磐小学校6年生の少年が除幕を行った[1]。
初の最大使用深度潜航試験は同年11月26日に行われ、同日12時9分に600メートルに到達した[3]。船体・乗員とも全く異常を認めなかった[3]。
1970年に海上保安庁に引き渡され、本格的な稼働を開始した。本船は所属は海上保安庁であったが、実際の運用に当たっては科学技術庁(当時)が調整する形で各研究機関が共同利用するという方式を取っていた。この点は海洋研究開発機構で保有・運用を行う形の後継機「しんかい2000」・「しんかい6500」とは異なる。このため「しんかい」は海上保安庁が保有した唯一の潜水艇となっている。運用は母船の「乙女丸」に搭載され(乙女丸は民間からの傭船)、調査地点で着水・潜航する方式であった。
本船は日本近海で海底地形地質調査、漁場調査、荒天状態での海面下海象(海流、水温、塩分濃度、地場)などの海洋調査に従事し、多くの成果を上げた。しかし、本船と母船の「乙女丸」がともに老朽化したほか、海洋開発の進展に伴って、調査の対象が大陸棚から大陸棚斜面へと移行していったことで、本船では性能不足が指摘されるようになった[4]。
1977年1月に廃船となった。これに加え、日本の領海が3海里から12海里に広がってより調査範囲を広げる必要が出てきたため、後継機として「しんかい2000」が開発されることになり、「しんかい」が退役して4年後の1981年に就役している。
退役後は長らく広島県呉市の海上保安大学校に保存展示されてきたが、2005年に同じ呉市にオープンした呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)に隣接する敷地(屋外)に移され、保存展示されている。
フィクションへの登場
小松左京原作の『日本沈没』(1973年公開の映画版)に登場する潜水艇「わだつみ」は、当時日本で唯一の深海調査艇だった本船をモデルとしている。ただし、「わだつみ」の潜航深度は1万メートル(設計上は10万メートル)と設定されている。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 海上保安庁水路部測量船管理室「水路業務用船の整備と運用について」『水路要報』第102号、海上保安庁水路部、41-45頁、1981年9月。doi:10.11501/3276934。
- 川崎重工業造船事業部潜水艦設計部「海上保安庁向け潜水調査船について」『船の科学』第20巻、第3号、船舶技術協会、83-91頁、1967年3月。doi:10.11501/3231657。
- 川崎重工業造船事業部潜水艦設計部「海上保安庁向け潜水調査船"しんかい"について(第2報)」『船の科学』第21巻、第5号、船舶技術協会、66-71頁、1968年5月。doi:10.11501/3231671。
- 川崎重工業造船事業部潜水艦設計部「海上保安庁向け潜水調査船"しんかい"について(第3報)」『船の科学』第22巻、第4号、船舶技術協会、57-62頁、1969年4月。doi:10.11501/3231682。
- 束原和雄「潜水調査船「しんかい」」『写真測量』第12巻、第1号、日本写真測量学会、40-45頁、1973年。doi:10.4287/jsprs1962.12.40。ISSN 0549-4451。OCLC 2241814 。
- 寺井清「潜水調査船」『溶接学会誌』第38巻、第7号、718-729頁、1969年。doi:10.2207/qjjws1943.38.7_718。CRID 1390282681479146880 。
- 菱田昌孝「潜水調査船「しんかい」について」『橋梁』第8巻、第1号、橋梁編纂委員会、52-61頁、1972年1月。doi:10.11501/2339147。