ラーマ5世
ラーマ5世(Rama V、รัชกาลที่ ๕)(誕生・1853年(タイ仏暦2396年) - 即位・1868年(タイ仏暦2411年) - 1910年(タイ仏暦2453年))は本名をチュラチョームクラオ王(King chulachomklao、พระบาทสมเด็จพระจุลจอมเกล้าเจ้าอยู่หัว)という。タイ王国の現王朝チャックリー王朝の王で5代目。幼名をチュラローンコーン(Mongkut、จุฬาลงกรณ์)と言うため、外国ではチュラーロンコーン大王(King Chulalongkorn the Great)が名前としてよく使われる。タイ三大王のうちの一人で、今でも国民から人気が高く、肖像画が首飾りや、ポスター、として、像が仏壇に置かれたりされる。明治天皇と同時期の王で、明治天皇と同じく近代化に大きく貢献した。即位するとすぐに欧米に視察旅行をし、タイの立ち後れを実感。数々の改革を行った。これをチャックリー改革という。
チャックリー改革の内容
- 公然と行われていた奴隷売買を長年かけて廃止した。このためダムロン親王から、歓喜大王(พระเปิยมหาราชเจ้า)を献名された。アーナンタ・サマーコム宮殿にも奴隷解放の絵が残っている。
- 各地の王を廃止し、中央集権国家を作り上げた。
- 官僚制を導入し行政を効率化した。
- 議会制度の前進となる国政協議会と枢密院を設置した。
- 学校教育を開始した。
- ラーチャダムヌン道路とその周辺を整備し、バンコクからナコーンラーチャーシーマーまで列車を通した。
- 電話業務を開始した。
そのころ、ミャンマーマレーシアはイギリスに占領され、ベトナムがフランスに占領されていた。タイもねらわれていたが、チュラーロンコーンはイギリスにマレー半島の一部を割譲し、フランスにはラオスとカンボジアを割譲する事でこれを防いだ。イギリスとフランスにしてみれば緩衝地帯としてタイを残しておきたかったと言うことと、チュラーロンコーンによってもある程度近代化されていたのであからさまに占領できなかったからだという。チュラーロンコーンは正妻・副妻に異母の姉と妹を持ち、側室を入れた妻の数は160人以上、子供の数は77人と歴代最高だったため、ワット・プラ・ケーオに併設された宮殿だけでは事足りず、ドゥシットに宮殿を造った。これはドゥシット宮殿と呼ばれているが、今は、ドゥシット公園動物園、ドゥシット公園師範学校、ウィマーンメーク宮殿、タイ王国国会議事堂、アーナンタ・サマーコム宮殿、チットラーダー宮殿などに。その一部を見ることができる。
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