ウラカ (カスティーリャ女王)
ウラカ Urraca | |
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カスティーリャ女王 レオン女王 | |
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在位 | 1109年 - 1126年 |
別号 | ガリシア女王(1109年 - 1111年) |
出生 |
1082年 |
死去 |
1126年3月8日 |
埋葬 |
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配偶者 | ガリシア伯ライムンド |
アラゴン王およびナバラ王アルフォンソ1世 | |
ララ伯爵ペドロ・ゴンサレス | |
子女 |
サンチャ アルフォンソ7世 |
家名 | ヒメノ家 |
王朝 | ヒメノ朝 |
父親 | アルフォンソ6世 |
母親 | コンスタンサ・デ・ボルゴーニャ |
ウラカ(Urraca, 1082年 - 1126年3月8日)は、カスティーリャ王国の女王(在位:1109年 - 1126年[1])。レオン王国の女王も兼ねる[2]。アルフォンソ6世と2番目の王妃コンスタンサ・デ・ボルゴーニャの娘。
生涯
父アルフォンソ6世には嫡出男子がなく、嫡出女子もウラカ以外は夭折したため、1109年の父の死で王位についた。
最初、1095年にガリシア伯ライムンドと結婚し、サンチャ、アルフォンソ(後のアルフォンソ7世)を生んだ[3]が、ライムンドは1107年に亡くなった[4][5]。
1108年に父はムラービト朝の脅威からカスティーリャを守るため、ウラカを後継者に定めると共にアラゴン王アルフォンソ1世との2度目の結婚も発表した。このためウラカは王位継承と同じ1109年にアルフォンソ1世と再婚した[5]。しかし、カスティーリャとアラゴンの合同は貴族から不評が相次ぎ、先夫との息子アルフォンソを擁立しようと考える派閥も現れ、好色で気まぐれなウラカと対照的にアルフォンソ1世は粗野な軍人肌の性格だったため2人の相性も悪く、不協和音が出たカスティーリャは内乱に陥ってしまった[5][6]。
異母妹テレサと夫のポルトゥカーレ伯エンリケが独立を画策、サアグンも自治コミューンを樹立してアルフォンソ1世と提携する中[5]、1111年にウラカは近親婚を理由にアルフォンソ1世との結婚を解消、アルフォンソ1世はアラゴンへ戻った後、1116年にウラカは支援を失ったサアグンを制圧した[7]。しかし、東はアルフォンソ1世の侵攻に晒されカラオラ・タラソナ・トゥデラ・エピラ・ボルハなどを1119年に奪われ、西はポルトゥカーレが独立へ進み、カスティーリャの弱体化が明らかになった[8]。
この隙にムラービト朝がカスティーリャへの攻撃を開始、トレドを攻撃してタホ川流域の他の都市も襲撃して奪い取ったが、トレドを含む一部の自治都市の抵抗で持ちこたえ、結果的に小競り合いに終始してカスティーリャへの侵攻は阻止された[5][9]。苦難に満ちた治世を過ごした後、1126年に44歳で亡くなり、息子がカスティーリャ・レオン王アルフォンソ7世として即位した。
3度目の夫は、ララ伯爵ペドロ・ゴンサレスである。
サンティアゴ・デ・コンポステーラに存在する聖遺物の1つである「小ヤコブの頭部」をもたらした[10]。これは当初、同聖地においては失われたとされていた「大ヤコブの頭部」という触れ込みであった[11]。
脚注
- ^ 浅野 2003, p. 6
- ^ 池田健二『カラー版 スペイン・ロマネスクへの旅』2011年、216頁。ISBN 978-4-12-102102-1。この女王の時代に一旦カスティーリャとレオンは統合するが、後にまた分離する。
- ^ 関哲行「12世紀前半のサンチャゴ・デ・コンポステラにおけるコミューン運動(中)」『流通経済大学社会学部論叢』、流通経済大学、116頁、1991年。ISSN 0917222X 。
- ^ 芝、P113 - P114
- ^ a b c d e 関(2008年)、P151。
- ^ ローマックス、P104、芝、P114 - P115。
- ^ 関(2008年)、P156 - P157。
- ^ ローマックス、P115、P125。
- ^ ローマックス、P104 - P107、P110、芝、P115。
- ^ 浅野 2003, p. 7
- ^ 浅野 2003, p. 12