アルベルト・コンタドール
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基本情報 | ||||
本名 |
アルベルト・コンタドール・べラスコ Alberto Contador Velasco | |||
生年月日 | 1982年12月6日(41歳) | |||
国籍 | スペイン | |||
身長 | 176cm | |||
体重 | 62kg | |||
選手情報 | ||||
所属 | アスタナ | |||
分野 | ロードレース | |||
役割 | 選手 | |||
特徴 | オールラウンダー | |||
プロ経歴 | ||||
2003 2004–2006 2006 2007 2008- |
オンセ・エロスキ リバティセグロス・ウルト アスタナ・ウルト ディスカバリーチャンネル チームアスタナ | |||
主要レース勝利 | ||||
ツール・ド・フランス 総合優勝(2007,2009) パリ〜ニース 総合優勝(2007) バスク一周 総合優勝(2008-2009) セトマナ・カタラナ 総合優勝(2005) スペイン選手権・ITT(2009) | ||||
最終更新日 2009年10月29日 |
アルベルト・コンタドール(Alberto Contador Velasco。1982年12月6日- )は、スペイン・マドリード生まれの自転車競技ロードレース選手。2007年のツール・ド・フランスと2008年のジロ・デ・イタリアおよびブエルタ・ア・エスパーニャで総合優勝し、史上5人目となるグランツール完全制覇達成者となった。[1]
経歴
デビューまで
幼少期はサッカーや陸上に親しんでいたが、自転車競技をやっていた兄の影響を受け、自身も競技を始めるようになる。そして2002年にスペインのU-23個人タイムトライアルで優勝するなどの実績をあげて、 2003年にオンセ・エロスキでプロデビュー。
同年のツール・ド・ポローニュでステージ優勝を飾ったほか、ブエルタ・ア・カスティーリャ・レオンでも総合4位に入り、期待の若手選手としての評価を高めていった。
生命の危機と復活
しかし2004年5月12日、出場していたアストゥリアス一周の第1ステージで突然意識を失って落車。緊急輸送された病院で脳の多孔性血管腫が原因と判明。緊急の開頭手術が行われた。一時は生死の境をさまよう重体に陥ったが、半年間の入院期間を経て退院。その復帰初戦となった2005年の1月に開催されたツアー・ダウンアンダーの第5ステージで見事優勝を果たして復調ぶりをアピールした他、同年3月が最後の開催となったセトマナ・カタラナ(カタロニア週間レース)では総合優勝を果たした。
その後、バスク一周では、優勝のダニーロ・ディルーカ、2位のダヴィデ・レベッリンのイタリア勢に続く総合3位。ツール・ド・ロマンディでもステージ勝利をあげて総合4位に入った。さらに初出場となったツール・ド・フランスでは総合31位、マイヨ・ブラン(新人賞)争いでは3位に入り、活躍の場を一気に広げていった。
2006年シーズン
この年はツール・ド・ロマンディステージ1勝をあげて総合でも2位。ツール・ド・スイスでもステージ勝利を上げる活躍を見せたが、ツール・ド・フランス開催の迫る5月末に行われたドーピング摘発作戦オペラシオン・プエルトで所属チーム監督が逮捕され、スポンサーが撤退。一時はチーム解散の危機に会う。その後新たなスポンサーがつき出場のめどこそついたが、直後にUCIからドーピングの疑いがあるとしてコンタドールに出場停止処分が下される憂き目にあった(その後無罪となり停止処分は解除されている。また今回の騒動と発端となったスペイン人医師もコンタドールは知らないと語ったとされる)。
さらに追い討ちをかけるように、ブエルタ・ア・エスパーニャに向けた調整のために出場していたブルゴス一周の第4ステージ終了後、突然の失神。幸いすぐに意識を取り戻したものの、2年前の多孔性血管腫の後遺症と診断され、大事をとるためブエルタの出場はキャンセル。その後もレースに出ることのないままシーズンを終え、結局オペラシオン・プエルトのあおりでこの年いっぱいでチームも解散。新しい所属先を探すことになった。
2007年シーズン
シーズン序盤-新チームでの活躍-
2007年1月にディスカバリーチャンネル・プロサイクリングチームへ移籍。チームを率いるヨハン・ブリュイネール監督から有望選手として活躍を期待されることになった。
その期待に応えるようにパリ〜ニースでは頂上ゴールが設定された第4ステージでステージ優勝を遂げたほか、最終ステージで総合首位だったダヴィデ・レベッリンを逆転して総合優勝を果たし、初のメジャータイトルを獲得。続くブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオンでも総合優勝を果たした。
シーズン中盤-ツール・ド・フランス総合優勝-
この勝利が評価され、ツール・ド・フランスではリーダーゼッケンをつけるリーヴァイ・ライプハイマーに次ぐ2番手のポジションを与えられ、同年のジロ・デ・イタリアでエースを務めたヤロスラフ・ポポヴィッチをアシストに従えるという贅沢な布陣で挑むことになった。
第14ステージにおいて、初のステージ優勝を果たして総合でも2位に浮上。総合首位だったミカエル・ラスムッセンに第16ステージで競り負けて差を広げられたものの、次ステージ前にラスムッセンが棄権した[2]ことによりついに総合トップへ浮上。第17ステージ終了後に待望のマイヨ・ジョーヌを手中にした。
この時点で総合2位のカデル・エヴァンスとの差は1分53秒、4位のライプハイマーとも2分49秒差にとどまり、両者が得意とする個人タイムトライアルが行われる第19ステージの結果次第では逆転の可能性があったが、懸命の走りで区間5位に食い込み、ステージ優勝したライプハイマーから2分18秒、エヴァンスからも1分27秒遅れにとどめて23秒差でエヴァンスを振り切り総合1位を死守。史上まれに見る接戦を制して、24歳の若さ、そしてグランツール2回目の出場にして総合優勝を達成。新人賞のマイヨ・ブランも同時に獲得し、ローラン・フィニョン(1983年)、ヤン・ウルリッヒ(1997年)に続く3人目のツール・ド・フランス総合優勝&新人賞同時獲得者となった。
シーズン終盤-移籍先探しに奔走-
しかし、ツール・ド・フランスが終了した翌7月30日に オペラシオン・プエルトに関連して、コンタドールの名前が書かれたリストをドイツ警察当局が入手したという話を契機として、ドーピング疑惑が浮上[3]。これに対して本人は一貫して潔白を主張し、疑惑を証明するような事実も出てこなかったが、当年限りで所属チームのディスカバリーチャンネルが解散することを決定したことも重なり、シーズン終盤は、レース出場よりも、移籍先探しに奔走せざるを得なくなった。
そのためツール・ド・フランス以降は、カテゴリーの低いレースに出場することはあっても、世界自転車選手権やUCIプロツアー対象レースに出場することはなかったものの、ツール・ド・フランスなどでの活躍が高く評価され、2007年度のヴェロ・ドールを受賞。大飛躍のシーズンを締めくくった。
2008年シーズン
アスタナ移籍後に待っていた仕打ち
2008年は、エースだったアレクサンドル・ヴィノクロフをドーピング疑惑で失い、チームの建て直しが急務だったアスタナに監督として迎えられたヨハン・ブリュイネールから誘いを受けたこともあり、ライプハイマーら5名のチームメイトとともにアスタナへ移籍。
しかし、この年はUCIとアモリ・スポル・オルガニザシオン(ASO)の対立のあおりで、ASOが主催するレースにはアスタナを招待しないという表明(詳しくは、パリ〜ニース2008#ASOがUCIを排斥を参照)がなされ、前年度の総合優勝者でありながらツール・ド・フランスの出場が不可能となってしまったほか、ジロ・デ・イタリアを主催するRCSがジロ・デ・イタリアについてもアスタナを招待しないことに決したことから、一時は当年のジロ出場も不可能となった。
急遽参加のジロ・デ・イタリアで総合優勝
上述の仕打ちに対し、途中移籍騒動まで持ち上がった[4]が、当人はこの噂を否定。その渦中に開催されたブエルタ・ア・カスティーリャ・イ・レオンでは見事連覇を達成した。さらにバスク一周でも第1ステージから総合首位に立ち、そのまま最後まで首位を守って総合優勝して実力を猛アピール。さらにツール・ド・ロマンディでもアンドレアス・クレーデンが総合優勝するなどアスタナの活躍が続いたためか、ジロ・デ・イタリアを主催するRCSが開催一週間前になって急遽招待を決定した。しかしこの時、コンタドールはバカンス中で「ビーチでトレーニングしていた」とコメント。まったくコンディション調整をしていないままで参加する事態になり、そのうえ前年のツール・ド・フランス総合優勝者ということで周囲からも厳しいマークにあうことになった。
それでも徐々に調子をあげていき、第8ステージでの落車で左腕の橈骨にヒビが入ってしまう事態に見舞われたものの幸いにして怪我の程度は軽く、厳しい上りが設定された第10ステージの個人タイムトライアルではステージ2位の快走を見せて総合で4位まで浮上。その後の山岳ステージでも堅実な走りを見せ、第15ステージ終了後、ついに総合首位に立ってマリア・ローザを獲得。その後も、区間未勝利ながらも、リカルド・リッコやダニーロ・ディ・ルーカらとの激戦を制して、イタリア国籍選手以外では1996年のパヴェル・トンコフ(ロシア)以来12年ぶり、スペイン国籍選手としては1993年のミゲル・インドゥライン以来15年ぶりとなる総合優勝を果たした。
グランツール完全制覇
8月の北京オリンピックでは、男子ロードレースと男子個人タイムトライアルに出場。ロードレースではアシストに徹し、終盤の牽引役を務めた後でリタイア。個人タイムトライアルでは、中間のタイム計測地点ではトップに立ったが、後半ペースが落ち、優勝したファビアン・カンチェラーラに遅れること1分18秒で惜しくも4位となった。
そして迎えたブエルタ・ア・エスパーニャでは前半は堅実な走りに徹し、最難関と見られた第13ステージの「魔の山」と称されるアングリルの上りでリーヴァイ・ライプハイマーとの絶妙な連携を見せて総合優勝争いのライバルであるカルロス・サストレを引き離し、しぶとく食い下がるアレハンドロ・バルベルデらも振り切ってステージ優勝。ついにマイヨ・オロ(ゴールデンジャージ)を手中にすると次の第14ステージでも勝利し、その後も安定した走りを見せて総合優勝(複合賞も獲得)。1981年にジョヴァンニ・バッタリンが達成して以来史上3人目、1995年にブエルタが開催時期を現在の開催時期に移行(1994年までは例年概ね、4月から5月にかけての開催)してからは初となる、同一年度におけるジロとブエルタの両レースでの総合優勝達成者となったほか、史上5人目となるグランツール完全制覇の偉業を達成した。[5]
2009年シーズン
バスク一周連覇
3月に行われたパリ〜ニースでは、第1、第6ステージを制し、第6ステージ終了時点で総合首位に立ったが、第7ステージ終盤にハンガーノックを起して先頭集団から後退、ルイス・レオン・サンチェスに首位の座を明け渡し、総合4位となる。一方、4月に行われたバスク一周では逆に第4ステージにおいて、サンチェスから総合首位の座を奪い、そのまま最後まで守りきって総合連覇を達成した。
前年制覇したジロ・デ・イタリアには参加せず、6月上旬に開催されたドーフィネ・リベレに出場。ツール・ド・フランスのための調整を主眼とした走りで総合3位に入った。また、同月下旬に行われた国内選手権・個人タイムトライアルを制覇。
2度目のツール総合優勝
ツール・ド・フランスは2年ぶりの出場となった。
モナコで行われた第1ステージの個人タイムトライアル(ITT)において、ファビアン・カンチェラーラに18秒差の2位に入り、山岳賞部門では首位。第4ステージのチームタイムトライアル(TTT)では区間優勝に貢献する走りを見せた。ピレネー山脈超え山岳ステージ第1ラウンドとなる第7ステージでは、強力なアタックを見せて総合争いのライバル達を引き離し、総合首位のリナルド・ノチェンティーニに対し、6秒差の総合2位に浮上。そして、アルプス山脈超え山岳ステージ第1ラウンドとなった第15ステージ、スイス、ヴェルビエの山頂ゴールを制し、総合首位に立った。同山岳ステージが終了した直後に行われたアヌシー湖を周回する第18ステージのITTでは、モナコで敗れたカンチェラーラに対して3秒差をつけて破り、2度目の区間優勝。また総合2位のアンディ・シュレクに4分11秒の差をつけ、この時点で2度目の総合優勝に大きく前進。そして最後の勝負どころとなった、モン・ヴァントゥがゴールの第20ステージでは、アンディに1秒たりとも差を縮めさせず決着をつけ、2回目の総合優勝を果たした。
UCIワールドランキング初代王者
UCIワールドランキングではツールでステージ3勝、総合優勝を達成したことでツール・ド・スイスまでトップであったアレハンドロ・バルベルデからトップを奪取。その後のレースにはほとんど出場しなかったが(特にワールドカレンダー指定レースはツールがラスト)、ブエルタ終了時点での2位バルベルデに44ポイント差で逃げ切り、バルベルデがイタリア国内でレースができないために最終戦のジロ・ディ・ロンバルディアに出場できないことから、この時点でワールドカレンダー移行後初の年間王者が決定した。
使用機材
2007年に所属したディスカバリーチャンネルではトレック社のマドンにシマノのデュラエースを装着してツール・ド・フランス総合優勝を果たしたコンタドールであるが、2008年はSRAM社の最高級コンポであるREDをマドンに装着してジロ・デ・イタリアを勝ち取っている。[6]
タイプ
以前はクライマーという認識が強かったが、アマチュア時代にスペイン選手権のU-23個人タイムトライアルで優勝するなどもともとタイムトライアルの才能も併せ持った選手である。そのため近年のレースではタイムトライアルスペシャリストに迫る能力を発揮しており[7]、現在はオールラウンダー型の選手へと進化している。特に強みが見えるのは急斜面でのアタック能力で、勝負所の峠で切れ味鋭いアタック開始、一撃で他を置き去りにしゴールまで持っていくという戦法を得意としていて、08ブエルタや09ツールでこの戦法でリーダージャージを奪い取っている。細身でありながらTTスペシャリストを撃破するほどの激走ができるのには栗村修でも理解出来ない程であるが、TTで高ケイデンスを維持できる事と、山岳ステージでのダンシング時間が長いという走り方の特徴から考えると、全盛期のランス同様に心肺能力が高く、それを走りに生かしているという推測はできる。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。
一方で、ワンデーレースにおける顕著な実績は前述の国内選手権個人TT制覇くらいで、典型的なステージレーサーと言える。
エピソード
- ステージ優勝の際のゴール時に、ガッツポーズの代わりに拳銃を撃つポーズをすることでも知られている[1][2](2009年ツール第15ステージ優勝の際の例)。このポーズを本人は気に入ってるのか、2009年ツールでの表彰式の際にこのポーズが描かれた帽子を被っている。[3]
主な戦績
- 2003年
- ツール・ド・ポローニュ 区間1勝(第8)
- 2005年
- セトマナ・カタラナ 総合優勝。区間1勝(第3)
- ツアー・ダウンアンダー 区間1勝(第5)
- バスク一周 区間1勝(第5b)
- ツール・ド・ロマンディ 区間1勝(第4)
- ツール・ド・フランス 新人賞部門3位
- 2006年
- ツール・ド・ロマンディ 区間1勝(第3)
- ツール・ド・スイス 区間1勝(第8)
- 2007年
- ツール・ド・フランス
- 総合優勝、新人賞、区間1勝(第14)
- パリ〜ニース 総合優勝、区間2勝(第4、第7)
- ブエルタ・カスティーリャ・イ・レオン 総合優勝
- 2008年
- ジロ・デ・イタリア 総合優勝
- ブエルタ・ア・エスパーニャ
- 総合優勝、複合賞、区間2勝(第13、第14)
- バスク一周 総合優勝、区間2勝(第1、第6)
- ブエルタ・カスティーリャ・イ・レオン 総合優勝
- 北京オリンピック・ITT 4位
- 2009年
- ツール・ド・フランス 総合優勝、区間2勝(第15、第18)(これ以外にTTTの1勝がある)
- バスク一周 総合優勝、区間2勝(第3、第6)
- スペイン国内選手権・ITT 優勝
- パリ〜ニース 総合4位、区間2勝(第1、第6)
- UCI ワールドランキング 年間王者
2回目のグランツール出場となったツール・ド・フランス2007で初優勝、その後ジロ・デ・イタリア2008、ブエルタ・ア・エスパーニャ2008、ツール・ド・フランス2009と、出場したグランツールで4連勝を継続中である。
注釈
- ^ 過去の達成者は、ジャック・アンクティル、フェリーチェ・ジモンディ、エディ・メルクス、ベルナール・イノーの4人。
- ^ 詳細はミカエル・ラスムッセン#2007年ツール・ド・フランス及びツール・ド・フランス2007#ドーピング問題の項目を参照のこと
- ^ http://www.smh.com.au/news/tourdefrance/greatest-swindle-in-sporting-history/2007/07/31/1185647857951.html
- ^ http://www.cyclesports.jp/newsdepot/08/0331/index.html
- ^ 達成までにかかった14か月間という期間は、グランツール完全制覇達成者の中で最短。
- ^ Alberto Contador's Astana Trek Madone 5.2ただしチェーンだけはデュラエースを使用。なお、ジロ・デ・イタリアで使用したホイールはボントレガー。
- ^ 2007年のツール・ド・フランスのプロローグでは、トップのファビアン・カンチェッラーラから35秒遅れの好記録で15位。2008年のバスク一周では、最終ステージのタイムトライアルでライバルを引き離してステージ優勝。同年のジロ・デ・イタリアの最終ステージの個人タイムトライアルではトップのマルコ・ピノッティから39秒遅れの11位につけて、前日まで4秒差でコンタドールを追っていたリカルド・リッコを一蹴(リッコに対してこのTTで1分53秒の差をつけた)。このほかブエルタ・ア・エスパーニャでも5位と2位に入るといった成績を収めている。さらに2009年のツール・ド・フランスでは第18ステージの個人TTにおいてファビアン・カンチェラーラ等並みいるタイムトライアルスペシャリストを抑えてステージ優勝している。
外部リンク