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ザクセン=ラウエンブルク

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ザクセン=ラウエンブルク公の紋章
1400年のザクセン=ラウエンブルク
ザクセン=ラウエンブルク公爵家最後の女子相続人、アンナ・マリア(右)と妹ジビッラ・アウグスタ(左)、1690年頃
1848年のザクセン=ラウエンブルク
1860年代のザクセン=ラウエンブルクの国旗

ザクセン=ラウエンブルク公国Herzogtum Sachsen-Lauenburg)は、神聖ローマ帝国の公爵領。1296年から1803年、1814年から1875年まで存在した。現在のドイツ、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の東南端部に位置し、公国の中心部は現在のヘルツォークトゥム・ラウエンブルク郡 (enに相当する領域だった。首都は国名の由来であるラウエンブルク/エルベ (enだったが、1619年にラッツェブルク (enに移された。

歴史

ザクセン公国は1296年の分割相続により、ザクセン=ラウエンブルクとザクセン=ヴィッテンベルクに分裂した。ザクセン=ラウエンブルク公爵の居所はラウエンブルクおよびラッツェブルクに置かれた。分裂した二つの公国は、成立当初からザクセン公が持つ選帝侯の地位を巡って対立した。1314年のドイツ国王選挙では、ハプスブルク家のフリードリヒ3世(美王)とヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世が競合状態となった。このとき、ザクセン=ラウエンブルク公ヨハン2世はザクセン選帝侯としての資格でルートヴィヒ4世に投票し、一方でザクセン=ヴィッテンベルク公ルドルフ1世は同じくザクセン選帝侯の資格でフリードリヒ美王に票を投じた。

1314年の国王選挙では、ザクセン=ラウエンブルクの支持したルートヴィヒ4世が最終的に勝利した。しかしルートヴィヒ4世は1346年、対立王に選出されたルクセンブルク家のカール4世によって廃位された。カール4世はザクセン=ヴィッテンベルク公ルドルフ1世に支持されており、1356年の金印勅書では、ザクセン=ヴィッテンベルク公がザクセン選帝侯と定められた。ザクセン選帝侯に昇格したザクセン=ヴィッテンベルク系のアスカン家が1422年に絶えたとき、ザクセン=ラウエンブルク公は選帝侯位を相続しようとしたが叶わず、ヴェッティン家がザクセン選帝侯位を獲得した。

ザクセン=ラウエンブルクは14世紀以後、1180年に崩壊した部族公国時代のザクセン公国の後継国家であることを示すため、ニーダーザクセンNiedersachsen)と称するようになった。1500年に神聖ローマ帝国が税の徴収や共同軍事行動のために帝国クライスを設置した際、ザクセン=ラウエンブルクとその近隣地域はニーダーザクセン・クライス (enとされた。一方、ヴェッティン家の支配下に移っていたザクセン選帝侯領とその近隣地域はオーバーザクセン・クライス (enとされた。

1689年に公爵ユリウス・フランツが死ぬと、ザクセン=ラウエンブルク系アスカン家の男系は絶えた。しかしながら、ザクセン=ラウエンブルク公爵家の家内法では女子相続も可能とされていた。ユリウス・フランツの二人の娘、アンナ・マリアジビッラ・アウグスタは、亡き公爵の長女であるアンナ・マリアが公国を相続できるよう奔走した。しかし近隣のブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国の一部を統治するリューネブルク侯ゲオルク・ヴィルヘルムは姉妹の弱みにつけ込み、軍勢を引き連れてザクセン=ラウエンブルクを侵略し、武力でアンナ・マリアの女子継承を阻止した。

リューネブルク侯が継承に異議を唱えると、同様に近隣諸国の君主たちもザクセン=ラウエンブルクの相続権を主張したため、継承争いが起きた。ザクセン=ラウエンブルクの相続人に名乗りを挙げたのはメクレンブルク=シュヴェリーン公国、デンマーク王領ホルシュタイン公国、同族の5つのアンハルト侯領ザクセン選帝侯領(1422年にザクセン=ヴィッテンベルクを獲得)、スウェーデンおよびブランデンブルク=プロイセンである。リューネブルク侯とデンマーク王は1693年10月9日にハンブルクの和議(Hamburger Vergleich)を結んだ。この和議では、ザクセン=ラウエンブルク公国の大部分を事実上支配しているリューネブルク侯領が、占領後にホルシュタインに対峙するために築いたラッツェブルクの要塞が解体されることを認めた。その代わり、デンマーク領ホルシュタインはラッツェブルク要塞を破壊したうえで、ザクセン=ラウエンブルク領内から撤退することになった。

結局、ラント・ハーデルン (enを除くザクセン=ラウエンブルクはヴェルフ家リューネブルク系が相続することが認められた。一方、正統な女子相続人であるアンナ・マリアと妹のジビッラ・アウグスタはラッツェブルク宮廷から追放されてボヘミア領プロスコヴィツェ (enに亡命した。神聖ローマ皇帝レオポルト1世はリューネブルク侯ゲオルク・ヴィルヘルムのザクセン=ラウエンブルク継承を認めず、リューネブルク侯が支配を及ぼせないハーデルンを自分の管理下においた。1728年、皇帝カール6世はゲオルク・ヴィルヘルムの孫息子のブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯ゲオルク2世アウグストにザクセン=ラウエンブルク継承に関する承認を与え、ゲオルク・ヴィルヘルムが1689年と1693年に行った占領行為を正当化した。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯は1714年よりイギリス王を兼ねたため、ザクセン=ラウエンブルクはグレートブリテン王国と同君連合関係になった。

公国は1803年にフランス軍に占領されたが、1805年にフランス軍はオーストリアに対する遠征に参加するためザクセン=ラウエンブルクを離れた。イギリス、スウェーデン、ロシアは1805年の秋、第三次対仏大同盟戦争の初期にザクセン=ラウエンブルクを占領した(1806年まで)。1806年の初頭には、プロイセン王国がフランスよりザクセン=ラウエンブルク公国の領有権を譲られる形で、同公国を占領支配した。しかしプロイセンは1806年8月6日の神聖ローマ帝国解体により、ブランデンブルク選帝侯の称号を失ったことに反発し、第四次対仏大同盟に加わってフランスに敵対した。フランスは1806年11月にイェーナ・アウエルシュテットの戦いでプロイセンに勝利すると、ザクセン=ラウエンブルクを再占領した。

ザクセン=ラウエンブルクはしばらくフランスの占領下に置かれたが、1807年から1810年まで領土の大部分がフランスの衛星国ヴェストファーレン王国に併合され、人口1万5000人ほどの公国領の一部のみがナポレオン1世の直接支配下に残された。1811年1月1日、ヴェストファーレン王国内のザクセン=ラウエンブルクの大部分が再びフランス帝国領に戻された。

ナポレオンの失脚後、1813年にザクセン=ラウエンブルク公国はブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領との同君連合に戻された。ウィーン会議の決定により、ザクセン=ラウエンブルクはドイツ連邦の独立構成国の一員となった。1814年、ハノーファー王国(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領が昇格)はプロイセンとの領土交を行い、ザクセン=ラウエンブルクを譲渡してオストフリースラント (enを手に入れた。

1815年6月7日、プロイセンはザクセン=ラウエンブルクに260万ターラーの補償金を付けてデンマーク王国に譲渡し、代わりにデンマークのポンメルンに対する相続請求権を放棄させた。当初、プロイセンはスウェーデン領ポメラニア (enの取得に対する補償としてスウェーデン政府にザクセン=ラウエンブルクを渡そうとしたが、デンマークがスウェーデン領ポメラニアに対する相続請求権を有していたため、スウェーデンが譲歩したのである。これにより、デンマーク王国とザクセン=ラウエンブルクの同君連合が成立した。

プロイセンは第2次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 (enを占領した。1865年、ザクセン=ラウエンブルクの封建身分はプロイセン王ヴィルヘルム1世にザクセン=ラウエンブルク公爵位を差し出し、ヴィルヘルム1世はこれを受諾したためプロイセンとの同君連合が成立した。ヴィルヘルム1世はプロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクをザクセン=ラウエンブルク宰相に任命し、公国はビスマルクの政府の下で1867年に北ドイツ連邦に加盟した。

1871年のドイツ帝国成立に際し、ザクセン=ラウエンブルクも帝国の構成国に加わった。しかし、1876年7月1日に公国の政府と身分議会は公国の解体を決定し、ザクセン=ラウエンブルクはプロイセン領シュレースヴィヒ=ホルシュタイン県 (enのヘルツォークトゥム・ラウエンブルク郡 (enとされた。その後、同郡は1918年の君主制廃止に際してプロイセン州に所属し、1946年にはドイツ連邦共和国シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州に属し、現在に至っている。

ザクセン=ラウエンブルク公

アスカン家(1296年 - 1689年)

  • ヨハン2世(在位1296年 - 1305年、兄弟との共同統治)
  • アルブレヒト3世(在位1296年 - 1305年、兄弟との共同統治)
  • エーリヒ1世(在位1296年 - 1305年、兄弟との共同統治)

1305年、公国はベルゲドルフ=メルン系とラッツェブルク=ラウエンブルク系に分裂する。

ベルゲドルフ=メルン系(1305年 - 1401年)

  • ヨハン2世(在位1305年 - 1321年)
  • アルブレヒト4世(在位1321年 - 1343年)
  • ヨハン3世(在位1343年 - 1356年)
  • アルブレヒト5世(在位1356年 - 1370年)
  • エーリヒ3世(1370年 - 1401年)

ベルゲドルフ=メルン系は1401年に断絶し、ラッツェブルク=ラウエンブルク系が公国を再統合する。

ラッツェブルク=ラウエンブルク系(1305年 - 1401年)

  • アルブレヒト3世(在位1305年 - 1308年、エーリヒ1世と共同統治)
  • エーリヒ1世(在位1305年 - 1361年、アルブレヒト3世と共同統治)
  • エーリヒ2世(在位1361年 - 1368年)
  • エーリヒ4世(在位1368年 - 1401年) 

1401年、ベルゲドルフ=メルン系の断絶に伴いラッツェブルク=ラウエンブルク系が公国を統合する。

ザクセン=ラウエンブルク系(1401年 - 1689年)

  • エーリヒ4世(在位1410年 - 1412年)
  • エーリヒ5世(在位1412年 - 1436年)
  • ベルンハルト2世(在位1436年 - 1463年)
  • ヨハン4世(在位1463年 - 1507年)
  • マグヌス(在位1507年 - 1543年)
  • フランツ1世(在位1543年 - 1581年)
  • フランツ2世(在位1581年 - 1619年)
  • アウグスト(在位1619年 - 1656年)
  • ユリウス・ハインリヒ(在位1656年 - 1665年)
  • フランツ・エルトマン(在位1665年 - 1666年)
  • ユリウス・フランツ(在位1666年 - 1689年)

ヴェルフ家(1689年 - 1803年)

リューネブルク=ツェレ系(1689年 - 1705年)

ハノーファー系(1689年 - 1705年)

  • ゲオルク1世ルートヴィヒ(在位1705年 - 1727年) - ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯、1714年よりイギリス王
  • ゲオルク2世(在位1727年 - 1760年) - イギリス王、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯
  • ゲオルク3世(在位1760年 - 1803年) - イギリス王、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯

1803年から1814年まで、ザクセン=ラウエンブルクは諸外国の占領統治下に置かれる。

オルデンブルク家(1814年 - 1864年)

デンマーク王家系(1814年 - 1863年)

  • フリードリヒ1世(在位1814年 - 1839年) - デンマーク王、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公としてはフレゼリク6世
  • クリスティアン1世(在位1839年 - 1848年) - デンマーク王、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公としてはクリスチャン8世
  • フリードリヒ2世(在位1848年 - 1863年) - デンマーク王、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公としてはフレゼリク7世

グリュックスブルク系(1863年 - 1864年)

  • クリスチャン9世(在位1863年 - 1864年) - デンマーク王、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公としてはクリスチャン9世

1864年、ザクセン=ラウエンブルクはプロイセン軍に占領される。

ホーエンツォレルン家(1865年 - 1876年)

1876年、ザクセン=ラウエンブルクは同君連合となったプロイセン王国に併合される。

1890年、ドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルク侯爵が、プロイセン王国貴族の爵位としてザクセン=ラウエンブルク公爵位を授けられる。

関連項目