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ソビエト・ウクライナ戦争

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ソビエト・ウクライナ戦争
ウクライナ・ロシア戦争

キエフ聖ムィハイール大聖堂の前に立つウクライナ人民共和国の軍人
1917年‐1921年
場所ウクライナ
結果 ウクライナ人民共和国滅亡、ソ連結成。
領土の
変化
ソビエト派によるウクライナ占領
衝突した勢力
ウクライナ人民共和国 ロシア社会主義共和国
ウクライナ社会主義共和国

ソビエト・ウクライナ戦争(ウクライナ語:Українсько-радянська війна)は、1917年12月から1921年11月にかけてウクライナの支配を巡って、キエフを首都とするウクライナ人民共和国と、ソビエトのロシアおよびその傀儡政権ウクライナ・ソビエト社会主義共和国との間に行われた戦争である。ロシア革命後に起こった紛争の一つ。ソビエト派の勝利で終わった。戦争中にウクライナの人口が著しい被害を受け、10人に1人が死亡した。1922年12月にウクライナ・ソビエト社会主義共和国はロシアが指導するソ連へ取り込まれた。

なお、ウクライナやロシアではこの時期にそれまでのユリウス暦からグレゴリオ暦へ変更していることに注意。

第一次ソビエト・ウクライナ戦争

背景

第一次世界大戦中の1917年の二月革命後のキエフでは、フルシェフスキーらのウクライナ中央ラーダ(ラーダは「評議会」、ロシア語の「ソビエト」の意)によってウクライナ民族運動が再興した[1]。しかし、ロシア臨時政府はウクライナ中央ラーダによるウクライナ化政策をめぐって対立した。

十月革命後の10月にキエフで臨時政府とボリシェヴィキとが軍事衝突を開始すると、ラーダはボリシェヴィキ側に立った[1]

1917年11月の憲法制定会議の選挙ではウクライナ社会革命党が52%の票を獲得し、ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)は10%にとどまった[2]

ソビエト軍によるキエフ侵攻

臨時政府降伏後、ラーダが権力を掌握し、1917年11月22日ウクライナ人民共和国が成立したが、これに反発したボリシェヴィキは12月11日に「第一回ウクライナ・ソビエト大会」を開催して人民書記局を選出し、赤軍が占拠したハリコフにソビエト政府を樹立する動きをみせた。ハリコフでのソヴィエト会議は、そのほとんどがロシア人だった[2]

アントノフ・オフセエンコ(Vladimir Antonov-Ovseenko)率いる3万の革命遠征軍が12月上旬、ウクライナに侵攻した[1]

1917年12月16-18日のキエフのソヴィエト会議での選挙でもウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)は11%しか獲得できず、事実上否認された[2]

12月25日、ボリシェビキの傀儡政権であるウクライナソビエト共和国がハリコフで樹立を宣言した。

1918年
  • 1月、革命遠征軍がキエフに総攻撃を開始した[1]
  • 1月9日、中央ラーダは第四次宣言で独立を宣言した[1]。キエフのラーダ軍は約18000人の兵力であった[1]
  • 1月23日、ソビエト軍はキエフのドニエプル左岸に到達し、1月24-25日にキエフへ攻撃した[1]
  • 1月26-27日にキエフのラーダ軍はキエフを脱し、西へ向かった[1]。ラーダ・ウクライナ人民共和国ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国との単独講和1月27日(新暦2月9日)にブレストで締結した[1]。このブレスト講和はウクライナ人民共和国を国際的にはじめて承認したものだった[1]
  • 1月28日、キエフにソビエト政権(ウクライナ・ソビエト政府人民書記局)が樹立した[1]。ラーダ軍が戻ってくるまでの二週間、ムラヴィヨフのソビエト軍は少なくみつもっても2000人のウクライナ市民を無差別に逮捕し処刑した[1]
  • 2月12日、ハリコフのモスクワ傀儡政権が、赤軍とともにキエフに侵入した[2]。。この際、ボリシェビキは10人1組の「食料派遣隊」を伴っており、これはレーニンの穀物を送れという命令に基づいて農村の穀物を没収する部隊だった[2]。1918年2月18日から3月9日までにヘルソン州だけで1090車両の穀物がロシアに発送された[2]。ドイツ軍、オーストリア軍が迫ると、ボリシェビキは退却し、4月にウクライナソビエト政府は解散した[2]
  • 2月16日にラーダ軍はキエフに50万のドイツ軍とともに入城した。
  • 2月26日にオーストリア軍25万がキエフに入った[1]
  • 3月3日にはドイツ・オーストリアの中央同盟国ロシア共和国およびウクライナのボリシェヴィキ政府との間でブレスト=リトフスク条約が締結された。

第二ソビエト・ウクライナ戦争

ロシアのウクライナへの再侵攻

1918年11月11日に第一次世界大戦でドイツ軍、オーストリア軍が敗北すると、11月17日にロシアはウクライナ・ソビエト戦争の再開の準備を進め、モスクワでウクライナの傀儡政権「ウクライナ臨時労働農民政府」が成立する。ソビエトは再び、ウクライナ侵攻を計画した。12月19日にスコロパードシキーの政権が倒され、執政内閣政権が成立し、国号は再びウクライナ人民共和国になると、その翌日の12月20日、赤軍が宣戦布告なしでウクライナへ攻め入る。12月31日1919年1月3日1月4日1月9日にウクライナ執政内閣が4度にわたりロシア政府に和解を提案するが、すべて無視されたため、1月16日にウクライナ執政内閣はロシア政府に対し戦争布告する。

1919年1月6日ハルキウでソビエトの傀儡政権としてウクライナ・ソビエト社会主義共和国樹立が宣言された。

  • 1月22日キエフウクライナ人民共和国西ウクライナ人民共和国との併合を宣言する。
  • 2月5日にソビエト軍がキエフを占領する。ウクライナの執政内閣は右岸ウクライナに避難する。ソビエトは、2月11日にウクライナに対して、一人当たり消費量を130kgとしてそれを超える「余剰穀物」の徴発を命じ、3月19日には82万トンの穀物の徴発を命じた[3]。計画では1919年中に231万7000トンの穀物を徴発する予定であったが、実際に徴発されたのは42万3000トンにとどまった[3]

こうしたボリシェヴィキの強硬策に対してウクライナでは反発が強まり、ウクライナでは1919年4月に93回、5月に29回、6月に63回の暴動が発生。4月から7月までに合計300回の暴動が発生した[3]

ウクライナ軍の反攻

5月7日、ソビエト軍がポジーリャへ乱入。5月24日、ウクライナの執政内閣はポーランド軍と和議を結び、7月16日にウクライナ軍が反撃を開始し、ソビエト軍をポジーリャから追い出す。その後ウクライナ軍は反攻し、8月12日ヴィーンヌィツャを、8月21日にはジトーミルを、8月31日にはキエフを解放する。

1919年8月、デニーキン白軍が侵攻し、赤軍はウクライナ東部から撤退した[3]。その間、ドニエプル川西部にウクライナ人民共和国が再建された[3]

10月2日、モスクワはウクライナソビエト政府を解散させ、ボリシェビキは、ウクライナ支配の失敗の原因をウクライナの民族主義にみた[3]

第一冬期作戦

1919年11月6日、ウクライナ軍の一部が白軍に寝返る。ウクライナの執政内閣が再びポジーリャ地方へ撤退し、12月4日にはウクライナ執政内閣が白軍・ソビエトの赤軍・ポーランド軍に囲まれる。ウクライナ軍が正式な軍事行動を止め、白軍・赤軍の支配地域においてゲリラ戦を開始し、翌1920年5月6日までウクライナの中部で第一冬期作戦を実行する。

ペトリューラ亡命政府のポーランドとの連携とポーランド・ソビエト戦争

1920年4月21日、ウクライナ人民共和国の亡命政府(ペトリューラ)がポーランド政府と攻守同盟を完結すると、4月25日ポーランド・ソビエト戦争が開始。5月7日にはポーランド・ウクライナ同盟軍がキエフを解放する。

ソビエト軍は6月14日にキエフを奪還し、8月には西ウクライナを占領する。8月15日ワルシャワの戦いでソビエト軍の進行が撤退へ交替する。

10月18日:ポーランド政府がソビエト政府と和議を結ぶ。ウクライナ軍が独断で戦闘を続け、ウクライナの中部で第二冬期作戦を実行する。11月21日、ウクライナ軍はポーランド領へ撤退するが、ポーランド政府により強制収容所へ送られて抑留される。

1921年3月18日:ポーランド、ソビエトの両政府がリガ条約を結び、ウクライナが分割される。西ウクライナはポーランド領、中部・東ウクライナはソビエト領となる。

1921年4月にはウクライナ人民共和国の亡命政府がポーランドの首都ワルシャワを離れてフランスパリへ移った。

ソビエト連邦成立

ロシア内戦で赤軍が勝利し、さらにポーランドとの講和も成立、1921年10月にはクリミア自治ソビエト社会主義共和国のロシア帰属が決定され、1922年12月30日ウクライナ・ソビエト社会主義共和国もその一員となるソビエト連邦が成立した。

タイムライン

1917年

1918年

  ウクライナ国
  ロシア
  1918年の和議による境界

1919年

1920年

1921年

  • 1921年3月18日:ポーランド、ソビエトの両政府がリガ条約を結び、ウクライナが分割される。西ウクライナはポーランド領、中部・東ウクライナはソビエト領となる。
  • 4月:ウクライナ人民共和国の亡命政府がポーランドの首都ワルシャワを離れてフランスパリへ移った。

1922年

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 中井和夫他『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p303-313
  2. ^ a b c d e f g コンクエスト『悲しみの収穫』恵雅堂出版、2007年、,p63-64.
  3. ^ a b c d e f コンクエスト『悲しみの収穫』恵雅堂出版、2007年、,pp70-73.

参考文献

関連項目