宇都宮三郎
宇都宮 三郎(うつのみや さぶろう、1834年11月15日(天保5年10月15日) - 1902年(明治35年)7月23日)は幕末・明治初期の洋学者・軍学者・化学工学者・技術者である。別名に宇都宮鉱之進など。
略歴
尾張藩士神谷半右衛門義重の三男として名古屋に生まれた。15歳の頃、父が隠居し、兄が家督を相続したのを機に本姓の宇都宮に復した。甲州流軍学や伝統的な砲術を学んでいたが、西洋砲術に興味を持ち、上田帯刀の門人となり、蘭学者らと交流した。同じ上田門下に柳河春三がいた。
ペリー来航後、江戸出張を命ぜられ、浜御殿隣りの尾張藩邸内に砲台を築き、着発弾の開発に当たった。1857年(安政4年)、藩から帰国を命じられるが従わず、脱藩した。翌年、幕府の大砲製造を指導した。1861年、勝海舟の奨めで幕府の蕃書調所(後に洋書調所)に勤めた。また、講武所でも大砲、銃、火薬の製造を指導した[1]。
精錬所、精錬方を化学所、化学方と改称するよう提案し、採用された(1865年)。「化学」という語が公式に採用された初めである。"Chemie"(蘭)もしくは"Chemistry"(英)は、従来「舎密(学)」と訳されていたが、「化学」という訳語が普及することになった。なお、「化学」の語は川本幸民の訳書『化学新書』(1860年)で使われたものである。
第2次長州征伐の際に脊髄を痛め、療養中に明治維新を迎えた。病気は重く、石黒忠悳を通して死後の解剖(献体)を願い出るほどであったが、1869年(明治2年)に回復し、開成学校教官となった。またこの年、大澤貞と結婚。
1872年(明治5年)には工部省の技師となった。鉄道や港湾の建設に必要なセメントの国産化に取り組み、官営深川セメント製造所を建設、国産初のポルトランドセメントの製造に成功した。1882年6月、工部大技長となる。この間に2度の欧米出張を行った。1884年(明治17年)6月、肺病のため辞官。以後は主に民間工業の育成に尽した。
セメントの他、炭酸ソーダ、耐火煉瓦の国産化などに当たり、日本での化学工業界の先駆者として貢献した。醸酒法の特許を取り、1895年には神谷傳兵衛とともに酒類醸造研究所を設立した。
1901年(明治34年)11月11日、勲四等旭日小綬章を受ける[2]。1902年、死去。墓所は愛知県の幸福寺(現豊田市)にある。
名前
- 幼名:神谷銀次郎重行
- 15歳頃:宇都宮小金次
- 脱藩後:宇都宮鉱之進(俗名)、義綱(本名)
- 維新後:宇都宮三郎
エピソード
- (幕末期)蘭医・桂川家によく出入りし、しまいには邸内に西洋館を建て、そこに住んでいたという[3]。
- 渡辺淳一は『白き旅立ち』で、日本で初めて献体を行ったとされる女性美幾と宇都宮三郎の姿をフィクションで描いている(美幾の項を参照)。
- 福澤諭吉の紹介で交詢社入りした。1879年に銀座煉瓦街に持っていた私邸と土地を寄附した[4]。
- 1881年、日本で初めて生命保険に加入した(明治生命に第1号の保険証書が保管されている[5])。宇都宮はまもなく肺病にかかり、自分が死ぬと会社が2千円の損害を受けると考え、掛金を払わず、契約を解消しようとした。数年後、親戚がひそかに掛金を払い続けていたことを知った宇都宮は気の毒に思って、30年分の保険料を前払いし、親戚に掛金を返済したという[6]。
- 工部卿伊藤博文に辞表を出したとき、「そのまま静養したら数ヶ月過ぎれば恩給が出る」と言われたが、「それは大変だ。すぐに辞めさせてもらいたい。」と答えたという[7]。
- 晩年の宇都宮に秋山真之が甲州流軍学を学んだという。
- 死後は特殊な化学装置付きの棺(遺体の腐敗防止のため、自ら考案したもの)に納められ、幸福寺の墓に葬られた。
脚注
参考文献
- 豊田市郷土資料館『舎密から科学技術へ』2003年。
- 小林惟司「福沢諭吉と宇都宮三郎」福沢諭吉年鑑6、1979年。
- 大植四郎『明治過去帳』東京美術、1971年、669頁。