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衣笠経平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
衣笠経平
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 嘉禎2年(1236年
死没 文永11年5月7日1274年6月12日
別名 正字:經平
官位 正二位権中納言
主君 後深草天皇亀山天皇
氏族 近衛家庶流衣笠家
父母 父:衣笠家良、母:藤原親能の娘
兄弟 経平伊平、良命
西園寺公基の娘、近衛兼経の娘
冬良兼良[1]、経覚、静運、弁恵、法恵、深海、鷹司基忠
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衣笠 経平(きぬがさ つねひら)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿内大臣衣笠家良の長男。官位正二位権中納言

経歴

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宝治元年12月(1248年1月)従五位上に叙せられる。右・左近衛中将を経て、康元2年(1257年従三位に叙される。正嘉2年(1258年正三位に進み、文永3年(1266年参議に任ぜられる。

文永4年(1267年従二位に叙される。文永5年(1268年土佐権守を兼ね、権中納言に任ぜられ、文永6年(1269年)には帯剣を聴された。文永7年(1270年)正二位に叙されるが、文永11年(1274年)薨去。享年39。

官歴

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※以下、註釈の無いものは『公卿補任』の記載に従う。

  • 宝治元年12月8日(1248年1月5日):従五位上に叙す[2]
  • 康元2年(1257年)正月22日:従三位に叙す。左中将如元。
  • 正嘉2年(1258年)7月9日:正三位に叙す。
  • 文永元年(1264年)9月10日:服解す。
  • 文永2年(1265年)正月30日:復任す。
  • 文永3年(1266年)2月1日:参議に任ず。右中将如元。
  • 文永4年(1267年)2月1日:復任す。2月27日:従二位に叙す。
  • 文永5年(1268年)正月29日:土佐権守を兼ぬ。12月2日:権中納言に任ず。
  • 文永6年(1269年)8月16日:勅授帯剣を聴す。
  • 文永7年(1270年)正月5日:正二位に叙す。
  • 文永10年(1273年)6月28日:最勝寺八講に参仕[3]

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 改名して兼教
  2. ^ 経俊卿記宝治元年12月8日条
  3. ^ 吉続記文永10年6月28日条

参考文献

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