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賊軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

賊軍(ぞくぐん)とは、天皇朝廷)及び政府意思に叛逆し天皇朝廷政府より口頭、詔勅綸旨等の手段により討伐、鎮撫、もしくは宣戦布告を受けた勢力の保持する軍勢のこと。小規模の場合は「賊徒」とも書かれる。「官軍」の対語。

定義

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朝敵、逆賊、国賊などとほぼ同じ意味であるが、「朝敵」や「国賊」という言葉が、最少では一人でも成立する言葉であるのに対して、「賊軍」とは軍勢を率いて戦う規模の反乱で、国家転覆を企む意図を持ち得る部隊を指す。武装戦闘集団であり一揆とは異なる。平将門の様に賊軍の首魁(国賊)でありながら、神として奉られる場合もある(神田明神)。南北朝時代の場合は、南北両帝が並立しており、互いに相手側を「賊」と呼んでいた経緯もあるため、どちらの立場であったかで定義が異なる。対外戦争に関しては、白村江の合戦などにおける唐・新羅の連合軍は「賊軍」の範疇に含まれるが、開戦詔勅を伴わない豊臣秀吉朝鮮出兵の際の敵軍は「賊軍」の範疇に含まれない。同様に日本赤軍は追討の詔勅などが下されていない為、賊軍では無い[1]。嘉永6年以降の戦死者の場合は靖國神社の本殿に奉られているか否かで判別が可能である。

歴史

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  • 長髄彦(神武天皇即位前) -『日本書紀』では自己の正統性を主張するため互いに神璽を示し合ったが、それでも長髄彦が戦い続けたため饒速日命の手によって殺されたとされる。神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衙坂(くさかのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。その後、八十梟帥兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。日本書紀・神武紀には、この時の様子を次のように記している[2]
皇師(みいくさ)遂に長髄彦を撃(う)つ。連(しきり)に戦ひて取勝(か)つこと能(あた)はず。時に忽然(たちまち)にして天(ひ)陰(し)けて雨氷(ひさめ)ふる。乃ち金色(こがね)の霊(あや)しき鵄(とび)有りて、飛び来りて皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止れり。其の鵄(とび)光(ひか)り曄煜(てりかかや)きて、状(かたち)流電(いなびかり)の如し。是に由りて、長髄彦が軍卒(いくさのひとども)、皆迷ひ眩(まぎ)えて、復(また)力(きは)め戦はず。長髄(ながすね)は是(これ)邑(むら)の本(もと)の號(な)なり。因りて亦(また)以て人の名とす。皇軍(みいくさ)の、鵄の瑞(みつ)を得るに乃りて、時人(ときのひと)仍(よ)りて鵄邑(とびのむら)と號(なづ)く。今鳥見(とみ)と云ふは、是(これ)訛(よこなば)れるなり[2] — 岩波日本古典文学大系

長髄彦に率いられて戦った賊軍で後に帰順したのが、饒速日命を祖とする物部氏で、サムライを表す「もののふ」の言葉の語源となった氏族であるが、元々は賊軍の帰順者の末裔である。

外敵

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承久の変

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承久の変官軍は賊軍に敗北したため、以降朝廷は事実上、賊軍(幕府)に屈服する異常事態が続いた。幕府は朝廷を監視し、皇位継承も管理するようになり、朝廷は幕府をはばかって細大もらさず幕府に伺いを立てるようになった。院政の財政的基盤であった八条院領などの所領も一旦幕府に没収され、治天の管理下に戻されたあともその最終的な所有権は幕府に帰属した。承久の変には、鎌倉と京都の二元政治を終わらせて武家政権を確立する意義があったと考える学者もいる[10]

幕末

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律令制および王朝国家体制が崩壊すると、朝廷を政治の中枢から排除した武家政権が台頭した。長らく朝廷は武家政権の下に置かれ、江戸時代では禁中並公家諸法度が制定され、朝廷の影響力は江戸幕府によって制限されていたが、江戸時代末期(幕末)になると黒船来航桜田門外の変で幕府そのものが混乱を始めた為、朝廷の権威が再び注目されるようになった。幕府の衰退に伴って雄藩と呼ばれる諸藩が朝廷の権威を以て幕府に対抗するようになり、幕府も朝廷の権威を以て幕藩体制の再生を図ろうと公武合体を目指すようになる。朝廷内部においても孝明天皇攘夷を幕府に督促するなど政治に介入するようになった。

その過程において、雄藩の一角である長州藩は特に尊王攘夷に厚く、その支持者であった久留米藩士真木保臣が学習院御用掛となり、尊攘派公家の三条実美と交流を行った事で朝廷への影響力を持つようになる。尊攘派公家らは朝廷工作を行い、天皇が大和巡幸を行う詔を出すことに成功したが、天皇自身はこの動きに反発しており、佐幕派の公家や公武合体派の雄藩に対して救いを求め、中川宮朝彦親王二条斉敬薩摩藩京都守護職である松平容保会津藩らは連携し、長州藩と尊攘派排除のためのクーデター計画を進めた。佐幕派公家や薩摩藩・会津藩による八月十八日の政変で長州勢は駆逐され、それを不服として禁門の変を起こすも幕府軍に敗退。その戦闘中に御所へ向けて発砲した事で、孝明天皇は長州討伐の詔を出し、幕府軍を「官軍」とする二度の長州征伐が行われた。この時点では長州は「賊軍」であった。

しかし、幕府軍は第二次長州征伐において各地で敗北し、小倉城浜田城が長州に占領され、戦線は膠着、さらに第14代将軍徳川家茂の死去と孝明天皇崩御による混乱も重なり、失敗に終わる。状況の不利を悟った第15代将軍徳川慶喜は長州と停戦を行う為、朝廷に長州寛典論を奏請し、明治天皇の勅許を得た。慶応3年12月8日の二条斉敬が主催した朝議にて毛利敬親広封父子の官位復旧が決定し、長州は赦免されて「賊軍」から脱することが出来た。それでも政局はさらに幕府にとって不利に傾き、四侯会議の決裂で公武合体路線を放棄した薩摩藩や、明治天皇の即位で朝廷に復帰した岩倉具視が倒幕の工作を行い始める。また岩倉らによって薩摩藩と長州藩に「討幕の密勅」が出された(なお、この詔勅には、その要件である御画可、御璽を欠き、太政官の主要構成員の署名がないなどの疑問点がある)。

これらの動きに対して、徳川慶喜は大政奉還を行い、将軍が自ら幕府を葬ることで討幕の名分を消し去った。しかし、その直後に薩摩藩・尾張藩越前藩土佐藩芸州藩の五藩による政変が起こり、王政復古の大号令が宣言され、天皇親政の政権が誕生した。徳川慶喜や会津藩などは大坂城に退去した。さらに赤報隊相楽総三らが西郷隆盛の命を受けて江戸市中での放火・強盗を繰り返し、旧幕府を挑発。江戸の薩摩藩邸が焼討され、それを知らされた大坂城内も湧き立つ。ついに徳川慶喜は「討薩表」を発し、君側の奸である薩摩などを討伐するとして京都に向けて軍勢を派遣した。

しかし、朝廷は、徳川慶喜に「会津藩と桑名藩を帰国させた上で慶喜の軽装上洛」を求めてた。この軍事行動は明確に朝廷の命に逆らうものであり、鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争)の初戦で旧幕府軍が敗退すると、明治天皇は仁和寺宮嘉彰法親王征討大将軍に任命して、錦の御旗節刀を与え、旧幕府軍の討伐を命じる。薩長軍が「官軍」、旧幕府軍が「賊軍」と認定されることになり、長州征伐の時と官・賊の関係が逆転した。

旧幕府軍が「賊軍」に認定された衝撃は大きく、その多くが戦意を喪失し、山崎関門を守備していた津藩は中立を放棄して旧幕府軍を砲撃し、慶喜も大坂城を放棄して6日に江戸へと帰還した。鳥羽・伏見での旧幕府軍の崩壊を見た諸藩は、反薩長派・親薩長派を問わずその多くが旧幕府を見限り、朝廷に勤王証書を提出して明治政府へ恭順の意を示した。その後、慶喜は江戸城を無血開城して降伏したが、これを不服とする旧幕府軍の一部との戦闘が発生し、また新政府によって朝敵に指定された会津藩庄内藩(薩摩藩邸焼き討ちの主力)などは明治政府への降伏を拒絶して抗戦の構えを見せていた。新政府は仙台藩伊達慶邦ら奥羽諸大名に会津藩・庄内藩の討伐を命じたが、その際に奥州へ派遣された長州藩士世良修蔵が仙台藩の強硬派によって暗殺されたことで、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結成して新政府軍と戦争状態に入った。戦争は東北諸藩が降伏した後も続き、箱館戦争で箱館政権の全面降伏によって戦争は集結した。

これら明治政府と敵対した諸勢力はみな旧幕府軍と同様に「賊軍」と認定された。

明治時代

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明治維新以降、今度は旧討幕派内での争いが勃発し西郷隆盛前原一誠らが不平士族を率いて叛乱を起こしたが、これも「賊軍」として鎮圧され、明治22年(1889年)に西郷が大赦で許されたのを皮切りに、大正時代が終わるまでに関係者の多くは名誉回復した。

昭和時代

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「勝てば官軍、負ければ賊軍」

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「勝てば官軍、負ければ賊軍」というがあり、「道理はどうあれ勝った側が正義である」という意味である。多くは幕末の長州藩を念頭に置いて語られる言葉のため、承久の変など始終一貫して「官軍」の地位にあった側が負けた例もあり、必ずしも勝った側が最終的に「官軍」として認定されるわけではない。また明治政府により「正統」とされた南朝から「賊軍」とされたが最終的な勝者となった足利尊氏とその子孫は、もともと北朝からすれば「官軍」「皇軍」であり、南北朝時代のような「官軍」対「官軍」という状況も場合によっては発生しうるものであった。

「官軍」が敗北した合戦

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脚注

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  1. ^ 官軍でも無い。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本書紀』
  3. ^ 『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年六月二十三日條
  4. ^ 『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年
  5. ^ 『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年八月二日條
  6. ^ 『日本書紀』神武天皇即位前紀戊午年十一月七日條
  7. ^ a b c d 『日本書紀』神武天皇即位前紀己未年二月二十日條
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本書紀』景行天皇12年條
  9. ^ 昭和19年(1944年)、戦争指導に行き詰まり、経済、社会の赤化に向う東條とその側近に代えて、予備役の皇道派将官を起用すべきと奏した近衛文麿に対し、昭和天皇木戸内大臣を通じて次のように論駁している。「第一、真崎は参謀次長の際、国内改革案のごときものを得意になりて示す。そのなかに国家社会主義ならざるべからずという字句がありて、訂正を求めたることあり。また彼の教育総監時代の方針により養成せられし者が、今日の共産主義的という中堅将校なり。第二、柳川は二・二六直前まで第1師団長たりしも、幕下将校の蠢動を遂に抑うこと能わざりき。ただ彼は良き参謀あれば仕事を為すを得べきも、力量は方面軍司令官迄の人物にあらざるか。第三、小畑は陸軍大学校長の折、満井佐吉をつかむことを得ず。作戦家として見るべきもの有るも、軍司令官程度の人物ならん。以上これらの点につき、近衛は研究しありや否や」(『木戸幸一日記』)
  10. ^ 鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史』新人物往来社

参考文献

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関連項目

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