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策彦周良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『集古十種』より

策彦周良(さくげんしゅうりょう、文亀元年4月2日1501年4月19日) - 天正7年6月30日1579年7月23日))は、戦国時代臨済宗禅僧外交官。号は策彦のほか謙斎、怡斎、怡雲子など。

生涯

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五山の俊英

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文亀元年(1501年)、室町幕府管領細川氏の家老井上宗信の三男として丹波に生まれる。永正6年12月24日1510年2月2日)に、京都北山の鹿苑寺心翁等安のもと仏門に入る。同8年に起きた船岡山合戦鹿苑寺から焼け出され、師とともに丹波に逃れる。永正15年(1518年)、18歳に至って天竜寺にて剃髪具足戒を受け、を周良とする。五山文学の影響下、等安から漢籍・詩文の手ほどきを受け、漢文力を磨く。大永2年(1522年)に師の等安が入寂。天竜寺の塔頭妙智院の住職となる。

二度の入明

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天文6年(1537年周防国戦国大名大内義隆の主催により、勘合貿易船(遣明船)を派遣を計画した際に、副使に任命される(正使は湖心碩鼎)。寧波の乱以降、日明貿易の主体は大内氏に移っていたが、形式上は室町幕府の正式な使節であった。実際には翌々年の4月19日1539年5月7日)に3隻に分乗した460名の船団を率い五島列島を出帆する。同5月2日温州府に到着。しばらく同地に滞在し、翌年3月2日北京に入城、朝貢任務を果たす。5月28日7月2日)に北京を離れて寧波へ向かい、風待ちの後、帰国したのは同10年6月26日1541年7月19日)であった。

天文16年(1547年)には二度目の渡明を命じられ、今度は正使として4隻630名あまりを率い5月20日6月7日)に同じく五島の奈留島から出発、途中海賊に襲撃され死者89人を出すも、6月1日に入明。ただし、当時の明側では日本を「十年一貢の国」(十年に1度しか朝貢貿易を許可しない国)としていたため入国を拒否された。翌年3月10日(1548年4月18日)に至ってようやく寧波上陸を許され、4月18日北京入り。再び正使として朝貢任務を果たし、同19年6月9日1550年7月22日)、大内氏の本拠山口へ3年ぶりに帰着した。翌年、陶隆房(のち晴賢)の下克上により、大内義隆が自害、事実上大内氏が滅亡したため、これが最後の遣明船となった。

二度に渡る遣明船往来の詳細を『策彦入明記』として克明に記録しており、末期の日明貿易を知る上での貴重な史料となっている。

著名人との交流と隠棲

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弘治2年には駿河へ下向、11月17日1556年12月18日)には今川義元主催の詩歌会に参加し、同地に滞在中の三条西実枝山科言継らと同席している。同年から翌年にかけて、武田信玄に招かれて甲斐に赴き、恵林寺住職となって滞在。 正親町天皇からの信頼も篤く、勅命により曲直瀬道三の著『啓迪集』の序文を寄せている。この他にも織田信長をはじめ、五山の碩学として多くの公家・武士らと交流したが、自身はあまり世に出るのを望まず、住職として妙智院で隠棲し、天竜寺の護持に務めた。また、詩文にすぐれ『謙斎詩集』『城西聯句』『漢倭聯句』など、五山文学史に多くの作品を残している。

天正7年(1579年)6月末日に入寂。享年79。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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