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和田久太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
和田久太郎
アナキストの漫画家望月桂の作(1927年)
生誕 1893年2月6日
大日本帝国の旗 大日本帝国兵庫県明石市材木町
死没 (1928-02-20) 1928年2月20日(35歳没)
大日本帝国の旗 大日本帝国秋田刑務所
別名 酔蜂
職業 ジャーナリスト、俳人
罪名 爆発物取締罰則違反、殺人未遂建造物等損壊罪窃盗罪併合罪
刑罰 無期懲役(減刑で懲役20年)
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和田 久太郎(わだ きゅうたろう、1893年明治26年〉2月6日 - 1928年昭和3年〉2月20日)は、日本の無政府主義者、労働運動家、俳人である。温厚な人柄で「久さん」あるいは「久太」の愛称で親しまれた。福田大将狙撃事件で逮捕され、無期懲役。獄中で俳句等の著述をしたが、しばらく後に自殺した。俳号は酔蜂(すいほう)で、和田酔蜂とも称す。

略歴[編集]

兵庫県明石市材木町に生まれた。父は生魚問屋に勤めていたが、貧乏子だくさんで経済的に貧窮。久太郎は角膜の病気で小学校もあまり行けず、11歳から大阪北浜株屋丁稚奉公に出た。その後、仕事のかたわら実業補習学校に通って、長じて質屋の番頭となり、人足に転じ、抗夫、車夫を経て、労働運動に身を投じるようになった。また15歳のころから俳句をたしなんだ。

売文社に入社して、堺利彦大杉栄らと親交を結んた。サンディカリスムを熱心に研究し、久板卯之助[注釈 1]と共に、日蔭茶屋事件で人望を失った後の大杉栄の両腕と呼ばれるようになった。淀橋町柏木の大杉家の二階に寄宿し、和田と久板、村木源次郎は同宿同飯の仲であった。

社会の底辺の人々を愛し、無政府主義伝道と称して全国を流浪して体を壊したために、1923年2月頃から5月まで栃木県那須温泉の旅館小松屋新館で湯治。そこで浅草十二階娼婦堀口直江と恋に落ち、性病に感染したが、東京に戻ってからも交際を続けた。

1923年9月、関東大震災の直後に親友の大杉栄が殺害された甘粕事件では大きな衝撃を受け、右翼団体に葬儀の際に遺骨を盗まれる(大杉栄遺骨奪取事件)至って激憤。彼の仇を討つという名目で、前年まで戒厳司令官の地位にあった陸軍大将福田雅太郎暗殺を、ギロチン社古田大次郎や村木ら4名と計画。和田らは福田大将が甘粕事件の命令者と考えていた。

爆弾テロを計画した和田らは、爆弾を試作して下谷区谷中清水町の公衆便所や青山墓地で実験し成功[注釈 2]1924年9月1日、震災の一周年忌に和田は自動式爆弾一個及び五連発拳銃一梃を携えて東京本郷三丁目のフランス料理店・燕楽軒[注釈 3]で福田大将を待ち伏せした。そして、車から降りた福田を背後から狙撃するものの、初弾は安全のために空弾が装填されていたことを和田は知らず(異説あり。「福田大将狙撃事件をめぐる異説」参照)、至近距離からの発砲だったにもかかわらずわずかに火傷を負わせたのみで、大将の同行者であった石浦謙二郞大佐にその場で取り押さえられ、逮捕された。

1925年、上記罪状の併合罪にて無期懲役判決。余りに重い量刑に、弁護士の山崎今朝弥は「地震憲兵火事巡査。甘粕は三人殺しで仮出獄? 久さん未遂で無期懲役!」[2]と憤慨した。ただし翌年の大正天皇崩御により恩赦があり、懲役20年に減刑された[3]

最初、網走刑務所に入れられ、秋田刑務所に移送。俳句などを多く作って手紙などにしたため、獄中から友人に送った。著作『獄窓から』は1927年に出版され、その俳句は芥川龍之介の絶賛を受けた[4]

しかし和田は長く肺病を患っており、古田の刑死[注釈 4]、村木の病死を知って悲観し、1928年2月20日午後7時頃、看守の目を盗んで自殺した。

もろもろの 悩みも消ゆる 雪の風                  — 和田久太郎の辞世の句、秋田刑務所にて

和田の遺骸は、労働社の近藤憲二[注釈 5]らが秋田県まで行ってもらいうけて荼毘に付し、都営青山霊園の古田大次郎の墓側に葬られた[注釈 6]

福田大将狙撃事件をめぐる異説[編集]

一般に和田が福田雅太郎を撃った弾丸は空弾だったとされており、このことは事件の判決書にも書かれている。

……被告久太郎ハ此機ニ乗シテ同大将ノ身辺ニ迫リ所持ノ拳銃ヲ以テ其背部ヲ狙撃シタルモ偶々第一弾ハ空弾ニシテ第二弾ハ故障ニ因リ発射セサリシ為メ僅カニ同大将ノ背部ニ一銭銅貨大ノ火傷ヲ被ラシメタルニ止リ……[5]

しかし、和田とともに福田暗殺を目論んだ村木源次郎(当日は事件現場近くの長泉寺に潜り込んでいた。同寺では震災一周年の法要が予定されており、福田が講演することになっていた)は弾が空弾だったという当時の新聞報道を否定していたという。

 その晩の内に、号外で福田の怪我の軽かったことや、和田君の捕まったことなどを知ったが、翌朝の新聞で更に、その事についてのくわしい報道を得た。僕達はむさぼるやうにその記事を読んだ。
 「空弾とは意外だったね」
 二人は顔を見合わせて言った。全く、それは想像も及ばないことだったのだ。
 しかし村木君は、その時まだ空弾といふ事を信じなかった。たしかに実弾で、弾は福田のからだの内に入ってゐるのだと言ってゐた。[6]

仮に実弾だったのなら、なぜ福田は軽傷で済んだのか? これについて和田や村木とも面識のあったプロレタリア作家の江口渙は1966年に刊行した『たたかいの作家同盟記:わが文学半生記・後編』で次のように説明している。

 和田は福田大将の背中に十円硬貨ほどのヤケドをさせただけで、なぜ殺せなかったのか。和田にピストルの知識がなかったからである。あのとき和田が使った旧式の蓮根ピストルではタマが銃口を出るときの速度はゼロに近い。だからタマが銃口を出てから七メートルぐらいとんだとき、はじめて貫徹力をもつことになる。それなのに福田みたいな肥った男の肉体に銃口をじかにあててうったのだから、タマがはいらないのはあたり前だ。この点であきらかに和田久太郎に不用意がある。[7]

当の和田は獄中で次のように自らの行動を振り返っている――「俺の行動は空弾だったなどというお茶番めいた事に終ってしまったが」[8]。しかし、時の陸軍大将が結果的には軽傷だったとはいえテロリストに狙撃されたとすれば軍の威信に関わる。そのため、弾は空弾で狙撃は一場の茶番劇に過ぎなかった、ということで事件が処理された可能性はある[注釈 7]

著書[編集]

  • 『獄窓から』労働運動社、1927年3月。 NCID BA37976886全国書誌番号:46088132 全国書誌番号:73015321 NDLJP:1171961 NDLJP:1908662 

関連作品[編集]

小説
  • 松下竜一『久さん伝―あるアナキストの生涯』(1983) - 伝記的事実をもとにしたノンフィクション小説。
映画
テレビドラマ

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ひさいた うのすけ(1878-1922)大正時代の無政府主義者、画家。大杉、和田と共に「労働新聞」創刊や北風会に関係。1922年1月21日、静岡県伊豆に写生に出かけて遭難し、天城山猫越峠で凍死した。
  2. ^ 判決書には「其成績相当ニ良好ナリシ」[1]と記されている。
  3. ^ 芥川龍之介菊池寛久米正雄ら文壇の著名人や政治家など各界から愛された大正時代の名店。
  4. ^ 古田は福田襲撃事件の前年、活動資金調達の目的で十五銀行を襲撃、その際に銀行員一名を刺殺している(小坂事件)。
  5. ^ 大杉栄の死後、アナキスト運動を引き継いだ。
  6. ^ 現在、古田の墓はあるが、和田久太郎の墓は在所不明。
  7. ^ こうした憶測は江口渙以外からも提示されており、高見順は1963年に発表した『いやな感じ』において登場人物の口を借りて「ブル新聞に、あれは実弾でなく、単なる売名のための空弾を放ったにすぎないなどと書き立てられたのは、それに使用したピストルが駄目だったからだ。(略)くやしいったら、ありゃしない。そのくせ、これで同志二人は死刑になった」と、放ったのは空弾だったという通説に疑問を投げかけている。

出典[編集]

  1. ^ 大橋九平治 編『刑事判決書研究』一星社、1926年11月、320頁。 
  2. ^ 高田 1932, p.301
  3. ^ 高田 1932, p.299
  4. ^ 『獄中の俳人 「獄窓から」を読んで』 芥川龍之介全集 第14巻 (岩波書店 1996.12) pp.236-239
  5. ^ 大橋九平治 編『刑事判決書研究』一星社、1926年11月、322頁。 
  6. ^ 古田大次郎『死刑囚の思ひ出』組合書店、1948年10月、264頁。 
  7. ^ 江口渙『たたかいの作家同盟記:わが文学半生記・後編』新日本出版社、1966年8月、20頁。 
  8. ^ 和田久太郎『獄窓から』労働運動社、1927年3月、81頁。 

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]