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大島治喜太

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大島 治喜太(おおしま じきた、1889年明治22年)4月[1] - 1939年昭和14年)2月10日[1])は、日本剣道家。大日本武徳会剣道範士居合術教士銃剣術教士。

国士舘専門学校教授警視庁皇宮警察東京帝国大学陸軍士官学校陸軍戸山学校海軍横須賀鎮守府法政大学等の師範を務めた。

経歴

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佐賀県出身。大日本武徳会武術教員養成所を卒業。武専では持田盛二堀正平と並び「三勇士」と謳われた。

19歳のとき中山博道に稽古を願い、5本のうち3本をせしめたという。同年、青年大会で23人を勝ち抜き優勝。

1919年(大正8年)、剣道教士に昇進。

1929年(昭和4年)、御大礼記念天覧武道大会指定選士の部に出場。持田盛二と共に優勝候補に挙げられたが、リーグ戦で持田に敗れる。持田は優勝した。

1931年(昭和6年)、剣道範士に昇進。

1934年(昭和9年)、皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会特選試合に出場し、植田平太郎との試合を披露した。

1939年(昭和14年)、死去。享年51。墓所は多磨霊園

脚注

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  1. ^ a b 『剣道事典 技術と文化の歴史』338頁。

参考文献

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