コンテンツにスキップ

Page:Kojiki-gairon1936.djvu/18

提供:Wikisource
このページはまだ校正されていません

難言とあるもの)の虛空に初めて生れるより始めて次笫に笫十圆の如くに成り了るまでこれ皆悉く髙御產巢日神、神產巢日神の產靈によりて生成るなり。其の產靈はいともいとも靈く奇く妙なるものにしてさらに世の尋常の理を以て測り知るべき限にあらず。云云と。哲學的宗敎的の見解であつて興味ある者であるが彼れ等の特見であって一般論ではない。

卽ち兩者共に天地が初めて開けたとするのはー致して居る。次ぎに國稚くして浮き脂の如くして久羅下那洲多陀用幣琉といふは「地は定形なく曠空くして黑暗、淵の面に在り云云」と似たり。共に液體狀態を想定して居る。次ぎに吾國にては其の中から神の發生する者ありとなせるが辦太は神の靈水の面を覆ふとして居る。次ぎに豐雲野神は豐は「多きと」雲は「こもると」野は「ぬ」で「たまること」にて泥土の一方に凝集せる意である。宇比地邇神、須比知邇神。涅土とは浮き脂の如くなる物の潮と土と混りて未た分れざるを云ひ,沙土とは其の潮と土と漸く分れたるをいふ。古事記傳角𣏾神活代神。「つぬぐひ」とは神の御形の生り初めたまへる山なり。 葦などの生り初るを「つのぐむ」とはいふは此の神の名と全く同じ。云云活𣏾は生