コンテンツにスキップ

Page:Kojiki-gairon1936.djvu/35

提供:Wikisource
このページはまだ校正されていません

そして後世終に觸穢の習慣すら生ずるに至つた。而して神社に於ては六月十ニ月の兩度、晦日を以て大祓を行ふて居る。淸淨潔白を好むの至りである。

註曰く。穢れは身心兩方面に涉りて存在する者である。而して穢れを來たす所の原因と之を淸むる原因とある。卽ち男神が小門に於て先づ初めに「上つ瀨は瀨速し、下つ瀨は瀨弱し」と詔ひ、初めて中つ瀨に於て滌ぎ給ふた時成りませる御神の名は八十禍津日神。次ぎに大禍津日神。此のニ神は其穢きと繁かりし國に到りし時汚垢に因りて成りませる神である。次ぎに其の禍を直ほさんとして成りませる神の名は神直毘神。次ぎに大直毘神。云云であつたといふ。古事記の此文に據れば善惡ニ神あり。惡神は穢れを作り,善神は之を祓はんとするものである。若し廣義に之を解釋すれば人間の身心を惡るくする所の活動と善くするの活動とがある此の解釋は人の哲學的根性を最も善く滿足せしむるもので宣長の如きも旣に之れを用ひて居る。今日の解釋にすれば徼菌は身體の惡神であり、ホルモンは善神である。從來の神道家が身體の惡るいのは自然に直るものであるといふたのは暗に之れ