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車内は中央部にある機関室を挟んで2つの戦闘室が配置され、前後の連絡用に[[伝声管]]が設置されていた。前側の第1戦闘室には操縦室があり、操縦士と前方/左右機関銃手の3人が搭乗した。車体後端には上方に傾斜した三角形を持つ大型の[[テールスキッド|尾橇]]を装着していた。これは幅の広い塹壕を渡る際に、車体後部が塹壕に落ちて“[[尻餅]]”を突くことを防ぐためのものである。尾橇は全長2mもあり、鉄道による輸送時など、必要としない場合には取り外すこともできた。
 
第1戦闘室の後部には[[M1897_75mm野砲|modèle 1897 75mmカノン砲]]を車載型に改良した<ref group="注釈">[[駐退機|駐退複座装置]]を揺架に内蔵した方式から砲身上にある外筒式に変更している。このため、主砲の上には駐退複座機の筒があり、一見すると縦列連装の主砲があるように見える。</ref>主砲を装備する三人乗り砲塔が載せられ、後方の第二戦闘室には[[ホッチキス_Mle1914重機関銃|ホッチキス Mle1914 8mm機関銃]]装備の一人用砲塔(銃塔)が備えられていた。主/副砲塔のほか、車体正面、および左右側面の合計3カ所にはMle1914機関銃装備の球形銃架が設けられており、歩兵の肉薄攻撃に対抗した。
 
搭載弾薬は75mm砲弾が124発、8mm機関銃弾が24連保弾板方式で9,504発、後には新開発の非分離式250連金属製弾帯方式に変更されたものを9,500発搭載した。
 
主砲塔の装甲厚は最大35mm、最小13mm、副砲塔の装甲厚は全周22mmである。2つの砲塔には両方ともストロボスコープ<ref group="注釈">ガラス窓のある内筒に多数の縦スリットの入った外筒を被せ、外筒を高速で回転させることにより、人間の[[ファイ現象|視覚の錯覚]]を利用してあたかも全周に視界が開けているかのような視界を得る機構。本車の機構は300回転/分で作動していた。<br />この機構は本来は国際共同開発/生産となるはずだった[[マーク I 戦車#マークVIII|マークVIII型戦車]]<small>([[:en:Tank_Mark_VIII|英語版]])</small>のために開発されていたものである。<br />(機構の詳しい解説([http://www.kotsch88.de/al_kommandantenkuppeln.htm Kampfpanzer im Detail>Kommandantenkuppeln.Teil I])および図解[http://www.kotsch88.de/allgemeines/kommandantenkuppeln/panzerserra.blogspot.de-Char.2c.strob.cupola.jpg])※2016年4月12日閲覧</ref>で視察できる司令塔を持っていた。なお、主砲塔、銃塔共に機構的には360度全周旋回が可能だが、間にある機関室上面部は一段高くなっている関係上、実際の旋回範囲は左右それぞれ170度に制限されていた。そのため、主砲塔は車体後面方向を、銃塔は車体正面方向を指向することはできない。また、主砲塔の直径は車体上部よりも大きいため、砲塔基部(ターレットリング部)は若干左右に張り出している。
 
[[無線機]]は[[モールス符号]]の送受信が可能な[[短波]]無線機ER 53(émetteur-récepteur 53=53型送受信機)を搭載し<ref group="注釈">音声通話の可能なER 51型への変更が計画されていたが、フランス軍の装備する全ての戦車に音声通話の可能な無線機を搭載する計画は[[1940年]]夏まで延期されたので、結局、戦争には間に合わなかった。</ref>、専門の教育を受けた無線士により操作された。
 
中央部の機関室にはドイツ製の出力250[[馬力]]の[[直列8気筒]][[液冷]][[ガソリンエンジン]]が配置されている。2基のエンジンは機関室の左右に配置されており、中央部は後部の第2戦闘室への通路となっていると共に、ここからエンジンの調整と整備を行うことができた。エンジンそのものは液冷式だが、戦闘室と機関室の間に完全な隔壁がなく、エンジンが発生させる熱が直接伝わっていることに対処するためと、後述の発電機および電動機の冷却用に強力な送風機が設置されていた。吸気口は車体側面上部に長方形のものが横列に設置されており、右側面に3口、左側面に4口が開口されている。一段高くなった機関室上面には排気管やラジエーターが並べられており、その様相はさながら工場地帯のごとくである<ref>完成後、各車の機関室上面のレイアウトはエンジンの換装に伴って段階的に変化している。</ref>。ラジエーターや排気管、吸排気口が剥き出しであることは防御上の問題だとして、機関室上面や側面の吸気口を装甲板で囲う、または金網で傾斜した覆いをつける(手榴弾対策用)といった改修がなされた時期もあった。機関室上面部の最後端には後部戦闘室に通じる円形と角形のハッチが横列に並んでおり、左側の円形ハッチの前には無線アンテナの基部がある。このほか、車体側面には前部(左側面)と後部(右側面)に角形のドアがあった。
 
駆動装置には、エンジンからの出力軸に[[直流発電機]](出力 600[[ボルトアンペア|VA]])を直結し、それによって得られる電力で[[電動機]]を用いて駆動する[[ガス・エレクトリック方式]]が用いられている。2基の発電機は1基ずつ左右のエンジンの前部に配置され、第1戦闘室に張り出していた<ref group="注釈">機関構成は設計当初は1エンジン-1発電機-2電動機の構成だが、これでは明らかに馬力不足で、4エンジン-2発電機-2電動機の構成に変更されたが、最終的には2エンジン-2発電機-2電動機の構成に変更されて完成している。</ref>。電動機は最後部に配置され、[[チェーン]]と最終[[減速機]]を介して最後輪である起動輪を駆動した。この機構により、本車は複雑な機械式変速装置を持たずに変速・操向が可能であり、最高速度こそ15km/hと低いものの、その巨体と重量に比してスムーズな操縦が可能であった。ただし、この方式は左右の電動機の回転を完全に同一にすることが難しいため、左右の走行装置が厳密には同調せず、長距離を直進することが難しい、という問題点があり、ガソリンエンジンの出力を直接駆動力にすることに比べると効率の面では劣っていた。また、エンジンに加えて発電機と電動モーターを必要とすることは、機械式変速機が不要になるとはいえ、直接駆動式に比べると機関・駆動関係に大きな容積と重量が必要であり、電気系統の整備と調整・修理のための専門の技術要員を必要とするという問題もあった。発電機と電動機の発生させる熱量も大きく、これらに対する冷却にも問題があり、総じて1920~30年代の技術では無理の多いもので、故障も多かった<ref group="注釈">電気駆動方式は、当時の技術では船舶用はともかく、車輌用としては実用上の問題が多いことは[[サン・シャモン突撃戦車]]の実用結果から既に判明していたが、総重量70トンに達する本車には他の駆動機構の選択肢がなく、技術上・実用上の問題を考慮してもこの方式とせざるを得なかったのである。</ref>。このほか、主機関を動かしていない場合に電源を確保するための[[4ストローク]][[ガソリンエンジン]](80馬力)付き[[発電機]](発生電圧 80ボルト)がある。この発電機は主機始動用にも使用された。ガソリンエンジン用の[[ガソリン|燃料]]は7か所のタンクに1,950リットルを搭載し、150kmの航続距離を有した。
 
[[無限軌道#転輪|転輪]]は小径の車輪を多数並べた方式で、直径がやや広い転輪と狭い転輪を交互に配置した“挟み込み式”と呼ばれる方式になっており、前/後部は板状のフレームに取り付けられた無懸架転輪(障害物を乗り越える際以外は接地していない)であり、中央部(常時接地している部分)は1基の[[リーフ式サスペンション|板ばね]]付[[ボギー台車|ボギー]]につき4個の車輪が組み合わせられた[[サスペンション|懸架装置]]付き転輪が片側5組、左右計10組備えられている、という複合方式になっている<ref>走行装置の構造図([http://1.bp.blogspot.com/-iAmoOcoLHCo/Uve9c1AapzI/AAAAAAAAWsk/SfslnoNdebU/s1600/Char+2c+007+wheels.jpg Char FCM 2C - Super-heavy French tank>Char FCM 2C - wheels])※2016年3月20日閲覧</ref>。転輪は片側37個、左右合計で74個もあった。このほか、前部誘導輪の直後に1つ、後部起動輪の直前に3個、左右計8個の上部支持輪がある。転輪部分側面は鋼鉄板(下端部分はキャンバス製)のスカートで覆われていた(時期や車両によっては装着されていない)。履帯はリンクアッセンブリに大型の踏板(ソールプレート)を組み合わせた独特の形式<ref group="注釈">[[建設機械]]に多く用いられる方法で、この形式は接地圧を低くできるために重量のある車両に向いていたが、表面の凹凸が少ないために地面に噛み込む力が弱く、また横滑りを起こしやすいという欠点があった。</ref>で、この形式の履帯は本車の原形であるFCM 1Aから第二次世界大戦中に開発、戦後に生産されたフランス最後の重戦車である[[ARL-44]]に至るまで、フランス製重戦車ほぼ全てに用いられている。
 
シャール2Cは、幅425cmまでの溝を横断することが可能で、これは標準的なサイズで構築された歩兵用[[塹壕]]であればほとんどのものを無理なく横断でき、想定戦場であったフランス北部にある典型的なサイズの[[運河]]を横断して通過することができた。全高170cmまでの垂直の障害物を乗り越えることができ、70%(34°)までの勾配を登ることができた。水陸両用性能はなく、そのための装備も用意されていないが、設計上の渡渉可能深度は140㎝で、宣伝映像では池や川を事前準備なしで渡渉しており、車体部がほぼ水没する状況で渡渉していることから、短時間ならば車体上面/砲塔まで全没しない程度であれば水中走行も可能であったようである。
 
70トンに達する重量と時速20キロに満たない走行能力のため、長距離の自走移動は不可能と考えられたため、本車には専用の鉄道貨車が用意されていた。これは鉄道用重量物運搬車([[大物車]])の一種で、尾橇を外した<ref group="注釈">取り外された尾橇は台車に積載して輸送した。</ref>2C重戦車の車体前/後面部に結合したビーム(梁)をジャッキで持ち上げた後、ビームと3軸台車を結合し、前後に台車を備えた一両の低床式(吊掛式)貨車として<ref group="注釈">前後の台車上には平床型の荷台が設けられており、搭載作業のための機材ほかが積載された。</ref>牽引するという方式である。この作業のために専用の35t[[ジャッキ]]4基が用意されていた。また、砲塔上の展望塔は[[車両限界#鉄道の車両限界|鉄道の車両限界]]に対応するために取り外すことができた。積載作業には平均して4時間を要した。
 
変わった装備としては、整備作業に用いるための組み立て式の[[クレーン]]が用意されており、砲塔側面と後面にはAフレーム型のクレーンアームを装着するための接続部品が設けられていた。クレーンアームを装着した場合は砲塔を旋回式のクレーンとして用いることができる。このクレーンアームは車体前面に装着することもできた。
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[[1923年]]から[[1926年]]にかけて、車両番号09、後に「シャンパーニュ」と名付けられる生産9号車が、'''シャール 2C bis'''に改修された<ref group="注釈">生産10号車も同様に改修されたとする資料もある。</ref>。
 
前部砲塔を鋳造製砲塔に[[シュナイダーM1917C 155mm榴弾砲|シュナイダー 155 C modèle 1917 155mm榴弾砲]]を基にした車載[[榴弾砲]]を搭載したものに変更し、更に前部砲塔の直後にストロボスコープ付きの司令塔を備えた戦闘室を増設し、前部正面および左右の機関銃座が廃止されていた。エンジンは新型の[[ソッター・オル]](Sautter-Harlé)<small>([[:de:Sautter-Harlé|独語版]])</small>製 [[直列6気筒]][[液冷]][[ガソリンエンジン]](250[[馬力]])2基に換装され、これらの変更により総重量は約74tとなった。しかしこの改修は一時的なもので、[[1926年]]内には車両は元通りに改修しなおされた<ref group="注釈">シャール 2C bisが何年に改修され何年までに原形に戻されたかについては資料によって諸説あるが、155mm砲塔が1934年にはマレスラインの地上砲台として設置されていることから、最大に見積もっても[[1933年]]までには原形に回復する再改修が行われたと考えられている。</ref>。不要となった155mm榴弾砲塔は[[チュニジア]]の[[マレスライン]](<small>[[:fr:Ligne_Mareth|仏語版]]</small>)で地上砲台として使われた。
 
[[1939年]][[11月15日]]から[[12月15日]]の間、生産6号車(車両番号7(後には97)、愛称は「ノルマンディー」(改修後は「ロレーヌ」と改名)は中隊指揮戦車として広域無線機ER 55を追加搭載し、更に[[株式会社|(株)]]オメクール製鉄所({{lang|fr|Société des Aciéries d'Homecourt}})(<small>[[:fr:Compagnie_des_forges_et_aciéries_de_la_marine_et_d'Homécourt|仏語版]]</small>)にて実験的に追加装甲を施された。これはドイツ軍の標準的な対戦車砲に対抗できるようにしたものである。これにより前面装甲は90mm(側面65mm)まで強化された。この追加装甲によりおよそ75トンの重さとなった「ロレーヌ」は、その時点におけるどの実用的な戦車よりも重厚な装甲を施された、最も巨大かつ実戦投入可能な戦車となっていた<ref group="注釈">「ノルマンディー(ロレーヌ)」は他の車両と異なり排気管が車体後面まで延長されており、排気口が機関室上面ではなく車体側面後端にある。</ref>。
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[[1939年]]には全車のエンジンをそれまでのダイムラー製から、同じくドイツより接収された[[マイバッハ]]製[[直列6気筒]][[液冷]][[ガソリンエンジン]](250[[馬力]])<ref name="2C_1" group="注釈">これらのエンジンは[[飛行船]]用として開発・生産されたものであった。</ref>2基に換装する作業が行なわれた。
 
このほか、無線機を[[音声通話]]可能な機種に変更することや、車内にインターコム([[インターホン]])を装備して乗員間の意思伝達を向上させる、といった近代化改修も計画されたが、実施はされないままに終わった。
 
== 後継車両 ==
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再び世界大戦が始まり実戦状態に置かれたものの、シャール 2Cの主要な価値は[[プロパガンダ]]にあり、[[1939年]][[9月]]のフランス軍による[[ジークフリート線]]への小規模な攻撃にも参加しなかった。そのかわり、この巨大な戦車は鉄条網や石造りの建物を圧し潰して進み、古いフランスの砦を登って城壁を踏み潰すといった[[パフォーマンス]]を行い、その一連の広報は多くの[[プロパガンダ映画|士気高揚映画]]に用いられた。そのため、本車を対象とした多くの記録フィルムが残されており、後世にその威容を伝えている。
 
これらの広報は非常に効果的で、フランス国民には「シャール 2Cは無敵の超戦車である」という評判が得られたほか、諸外国にフランスの陸軍力、特に機甲戦力を過大に見積もらせることに成功していた。しかし、フランスの戦車指揮官達は評判からかけ離れた2C重戦車の実力をよく知っていた。[[第二次世界大戦]]の初頭においてさえ、巨大な車体は[[対戦車砲]]の脅威に脆い“いい標的”でしかなく、その鈍足さは迅速な戦場展開の妨げであったからである。
 
=== 第2次世界大戦における戦歴 ===
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第51戦車大隊の8両のシャール2Cは命令に従い[[ナンシー]]の南西にある[[ゴンドルクール=ル=シャトー]]<small>([[:fr:Gondrecourt-le-Château|仏語版]])</small>へ向けて移動すべく、最寄りの鉄道駅であり、重量貨物の取り扱い設備のある[[ランドル]]<small>([[:fr:Landres|仏語版]])</small>への移動を開始したが、[[マリー=マンヴィル]]で修理中であった95号車「トゥーレーヌ」は修理が完了していないために同行できず、更に92号車「ピカルディー」が[[ピエンヌ]]<small>([[:fr:Piennes|仏語版]])</small>で電気系統の故障により行動不可能となり脱落した。残りの6両は6月12日にはランドルに到達して鉄道輸送のための積載作業を開始し、翌13日の13:30から14:30にかけて3両ずつ2つの列車に別れて南への移動を開始した。同行できなかった2両はそれぞれ6月12日と13日に上級司令部の指示により爆破処分された<ref group="注釈">なお、予備車として保管されていた94号車「ブルターニュ」と96号車「アンジュ」もヴェルダンにドイツ軍が迫った際に自爆処分され、大きく損傷した状態でドイツ軍に鹵獲された。</ref>。
 
列車は13日の夜から14日にかけて[[イタリア空軍]]の航空機による攻撃を受けたが、爆撃が不正確なこともあり、損害はなかった。ドイツ軍の侵攻が迫っている中、情報が錯綜して命令系統が混乱し、目的地となる集結地点が再三変更された上、フランス各地の鉄道は[[ドイツ空軍]]の爆撃によって各所で線路が寸断されているため、路線は南部へ移動する他の部隊をせた列車で混雑しており、[[6月15日]]、列車は予定より大幅に遅れて経由通過地点であった[[ヌフシャトー_(ヴォージュ県)|ヌフシャトー]]<ref group="注釈">{{lang-fr| Neufchâteau}}、Google map日本語版等での表記は「ヌシャトー」もしくは「ヌーシャトー」だがここではWikipedia日本語版のページに従い“ヌフシャトー”とした。<br />※なお、これ以外の地名についても、当項目では日本語版ページがあるものはその表記に従い、ないものについてはGoogle map日本語版でのカタカナ表記で記述している。</ref>に到着し、上級部隊との連絡が円滑に行えない中で辛くも受領した命令により、更に南、[[ディジョン]]北方にある[[イス=シュル=ティーユ]]<small>([[:fr:Is-sur-Tille|仏語版]])</small>を目指した。
 
6月15日午後、2C重戦車を載せた列車は[[ヴァル=ド・ムーズ]]<small>([[:fr:Val-de-Meuse|仏語版]])</small>東方にあるムーズ駅付近で、先行する燃料輸送列車が[[急降下爆撃機]]の攻撃により炎上したために前後5本の列車と共に線路上で停止、先行列車と後続列車に挟まれて前進も後進も不可能になり、更に、進路上にある[[キュルモン・シャランドレ駅]]<small>([[:fr:Gare_de_Culmont_-_Chalindrey|仏語版]])</small>が既にドイツ軍により占領されたとの報告がもたらされた。
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放棄された列車と車輌はその後ヴァル=ド・ムーズへ進軍してきたドイツ国防軍第8装甲師団第10装甲連隊によって発見されて捕獲された。放棄車両の中で、99号車「シャンパーニュ」だけは爆破に失敗しており、ほぼ無傷で捕獲された。
 
爆破された他の車両のうち、比較的損傷の小さかった91号車「プロヴァンス」、93号車「アルザス」および97号車「ロレーヌ」(「ノルマンディー」)、90号車「ポワトゥー」の4両は可能な限り損傷を修復した上で、[[1940年]][[7月]]に99号車と共に[[ベルリン]]郊外の[[クンマースドルフ試験場]]<small>([[:de:Heeresversuchsanstalt_Kummersdorf|独語版]])</small>へ輸送された。99号車は他の鹵獲連合軍車両と共に戦利品として展示され、一般に公開された。[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]と[[ヘルマン・ゲーリング|ゲーリング]]は「この時代遅れの世界最大の戦車は我がドイツの新時代の兵器である[[急降下爆撃機]]により破壊された」と喧伝し、このプロパガンダは多くのメディアによって繰り返された<ref group="注釈">そのため、第二次世界大戦後の書籍ほかでも、シャール2Cについて「鉄道輸送中にドイツ空軍の爆撃により破壊された」と解説しているものが多数ある。<br />このほかに、「前線“'''への'''”鉄道輸送中に移動不能となり自爆処分された」と記述している書籍ほかもある。</ref>。
 
ムーズ駅付近で鹵獲された車両群のほか、ドイツ軍はヴェルダン近郊の駐屯地内で自爆処分された状態で鹵獲した94・96号車、およびランドル周辺で自爆処分され鹵獲された92・95号車も[[1941年]][[3月]]にクンマースドルフに移送したとされ<ref group="注釈">これらクンマースドルフに移送したとされる92・94~96号車については「スクラップ状態で鹵獲された[[FCM1A_(戦車)|FCM 1A戦車]](後述)と混同されている」という考察もある。</ref>、これらドイツ軍の保有となったシャール2Cには「'''Schwerer "Durchbruch" Kampfwagen 2C (741) (f)'''(重"突破"戦闘車両 2C(741番)(フランス製)の意)」の分類名称が与えられた<ref group="注釈">海外のWebサイト等ではドイツ軍による分類名称について「'''Panzerkampfwagen 3C 741 (f)'''(装甲戦闘車両 3C(741番)(フランス製)の意)」と記述されていることがあるが、この分類名称が実際に用いられていたのかについては定かではない。<br />シャール2C 99号車は2C bisとして改造されていた時期があること、また2C bisの仕様について、「155mm砲を搭載した主砲塔と75mm砲を搭載した副砲塔に変更された」と、2C重戦車の後継としてプランのみで終わった3C重戦車と混同されている例があることから、情報の混同とも推測される。</ref>。
 
これらPkfw2C 741(f) はドイツ軍により性能の分析と試験が行われた後、[[1942年]]までドイツ軍の装備する数々の対戦車兵器による実射試験の標的として用いられた<ref group="注釈">なお、91号車「プロヴァンス」97号車「ロレーヌ」(「ノルマンディー」)、90号車「ポワトゥー」の3両はドイツ軍に鹵獲された/ドイツへ移送される時点で多数の被弾痕があるが、これが「ドイツ軍により発見時に砲撃され被弾した」ものか「ドイツへの移送以前にも実射実験が行われた」ものなのかは不明である。</ref>。その後は「スクラップとして処分された」という説と「状態はともかく[[ソビエト軍]]がクンマースドルフに進駐した後も[[1948年]]までは残存していた」という説がある<ref group="注釈">これらの説に関しては、