「サンド・アイランド収容所」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
 
56行目:
'''ハワイに移送された捕虜'''
 
1944年、約1,000 人のイタリア人捕虜がハワイに移送された。また沖縄戦の捕虜が[[沖縄の収容所]]から1945年6月から7月で3回に分けてハワイに移送された。1945年9月には1,010人の朝鮮人捕虜{{Efn|日本軍のもとで基地構築などの労働力として朝鮮半島から動員された軍属[[朝鮮人軍夫]]も捕虜として捕虜収容所に収容された。また一部、[[陸軍士官学校]]を卒業した朝鮮人将校が、共に捕虜収容所の朝鮮人捕虜の区画に収容された。沖縄戦では多くの朝鮮人軍夫が[[沖縄の収容所]]から海外の収容所へと移送されている。See. 参照:[[屋嘉捕虜収容所]]|name=":1"}}と952人のイタリア人捕虜が収容されていたことが記録に残っているが<ref name=":0" />、沖縄の学徒兵を含む沖縄人捕虜も多く移送されていた。
 
* 第1回目 - 6月10日頃、嘉手納捕虜収容所から約180人
76行目:
 強制労働も始まった。飛行場や道路の草刈り。洗たくや炊事などもあった。労働に対する報酬は80セントの日給。食費を差し引き、キャンプ内の売店で使えるクーポン券が支給された。諸見里さんは途中、カネオヘの収容所で診療所勤務もはさんだが、サンドアイランドで多くを暮らした。|琉球新報「戦禍を掘る」1985年1月28日掲載}}
[[ファイル:Sand Island internment camp - flood and fence.png|サムネイル|244x244px|雨で地面が水浸しになっているサンド・アイランド収容所(1942年頃)(米陸軍信号隊)]]
ホノウリウリからサンド・アイランドへと移された学徒兵を含む多くの捕虜は、サンド・アイランドでの食事や労働環境が悪化したと感じ、またそれに抗議して捕虜のストライキもおこっている。陸軍病院の建築やランドリーの軍作業に3カ月使われた崎間喜光は「あまり激しく使われたのでこのままでは体が持たないと主張し、40人ぐらいでストライキを起こした。(中略) その中から私を含めた 7-8人が衛所に連れ込まれ、パンと水で1週間閉じ込められた」と証言している<ref>宜野湾市史編集委員会『宜野湾市史 第三巻資料編二』(1982) from 秋山かおり「沖縄人捕虜の移動からみるハワイ準州捕虜収容所 ―ホノウリウリからサンドアイランドへ―」(2018)</ref>。
 
終戦後、1945年9月26日付のハワイ収容所文書「フィラリアか身体的障害のある捕虜の送還予定者リスト」には、フィラリア感染者、戦闘で身体障害をうけたもの、衰弱が激しい者、「16歳以下で身体が小さいため作業の詳細に不適合」とされた者、「45歳以上で厳しい仕事には不向き」とされた者がリストに上げられており、軍作業の労働力として不適当とみなされた者が送還されている。
秋山かおり「沖縄人捕虜の移動からみるハワイ準州捕虜収容所 ―ホノウリウリからサンドアイランドへ―」(2018)</ref>。
 
終戦後、1945年9月26日付のハワイ収容所文書「フィラリアか身体的障害のある捕虜の送還予定者リスト」には、フィラリア感染者、戦闘で身体障害をうけたもの、衰弱が激しい者、「16歳以下で身体が小さいため作業の詳細に不適合」とされた者、「45歳以上で厳しい仕事には不向き」とされた者がリストに上げられており、軍作業の労働力として不適当とみなされた者が送還されている。
 
'''県系ハワイの人々の支援'''