「チェスター・W・ニミッツ・ジュニア」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2024-06}}
 
{{基礎情報 軍人
| 氏名 = チェスター・W・ニミッツ・ジュニア
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| 所属組織 = {{USNAVY}}
| 軍歴 = 1936 - 1957
| 最終階級 = 海軍[[海軍少将]]
| 指揮 = [[サーダ (潜水艦)|SS-488 サーダ]]艦長
| 部隊 =
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}}
 
'''チェスター・ウィリアム・ニミッツ・ジュニア'''('''Chester William Nimitz.Jr.'''、[[1915年]][[2月17日]] - [[2002年]][[1月2日]])は、[[アメリカ海軍合衆国]]の[[海軍軍人]]。[[第二次世界大戦]]中の[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官[[チェスター・ニミッツ]]の長男。最終階級は[[少将]]。
 
== 経歴 ==
[[1915年]][[2月17日]][[ニューヨーク州]]ブルックリン海軍工廠の病院で父チェスター・ニミッツと母キャサリン・ヴァンスの間に生まれる。当時父ニミッツはブルックリンのワシントン通り415番地に住んでおり、ブルックリン海軍工廠で給油艦モーミーの建造に従事していた。家族は父母のほか前年に生まれた姉ケイトがいた。1936年[[アメリカ海軍兵学校|アナポリス]]を1936年に卒業し[[少尉]]に任官する。[[1941年]][[太平洋戦争]]開戦時は[[フィリピン]]沖で潜水艦乗組員として勤務についていた。1938年6月18日、メア・アイランド海軍造船所でニカラグア出身のイギリス系アメリカ人女性のジョアン・レオナ・ラベーンと結婚した。ニミッツ・ジュニアはレオナとの間にフランシス・メアリー、エリザベス・ジョーン、サラ・キャサリンの三人の娘を儲けたが息子には恵まれなかった。1945年には[[中佐]]に昇進しており潜水艦[[サーダ (潜水艦)|サーダ]]艦長に着任が予定されたが進水の9日前に日本が[[ポツダム宣言]]を受諾、全軍に戦闘停止命令が下ったことからこれ以上の戦力増強は不要となりサーダはスクラップか就役かで激論が戦わされることとなった。ニミッツ・ジュニアは艦を救うべく数ヶ月に及ぶ議論を戦わせた。最終的にサーダはニミッツ・ジュニアの指揮下で[[1946年]][[4月19日]]に就役した。
 
[[1957年]]に[[大佐]]で退役、退役軍人名簿上では名誉[[少将]]に[[名誉進級]]したとなる。退役後は会社員となり複数の企業に勤務した。
 
2002年、健康状態の悪化を苦にして妻と共に自殺した。
 
{{DEFAULTSORT:にみつ ちえすたあ しゆにあ}}
[[Category:アメリカ合衆国海軍の軍人将官]]
[[Category:第二次世界大戦期のアメリカ合衆国の軍人]]
[[Category:海軍十字章受章者]]
[[Category:チェスター・ニミッツ|しゆにあ]]
[[Category:自殺した朝鮮戦争の人物]]
[[Category:海軍兵学校 (アメリカ合衆国)出身の人物]]
[[Category:自殺したアメリカの人物]]
[[Category:ニューヨーク市出身の人物]]
 
[[Category:アメリカ海軍の軍人]]
[[Category:1915年生]]
[[Category:2002年没]]
[[Category:自殺した人物]]