「ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件」の版間の差分

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{{Rwandan Genocide}}
'''ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件'''(ハビャリマナとンタリャミラりょうだいとうりょうあんさつじけん)は、[[1994年]][[4月6日]]夕刻に発生し、[[ルワンダ虐殺]]を触発する引き金となった事件である。この日、[[ルワンダ]]の[[ジュベナール・ハビャリマナ]]大統領と[[ブルンジ]]の[[シプリアン・ンタリャミラ]]大統領を乗せた旅客機が、ルワンダの首都[[キガリ]]に着陸する際に撃墜された。犯人はいまだに判っていないが、当時の反体制派だった[[ルワンダ愛国戦線]](RPF)か、または体制側の[[フツ]]の中でRPFとの交渉に反対していた過激派、のいずれかとするおもに2つの説がある。
 
== 背景と序章 ==
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[[File:Juvénal_Habyarimana_(Andrews_Air_Force_Base,_Maryland,_USA_-_1980).jpg|thumb|left|ルワンダ大統領[[ジュベナール・ハビャリマナ]]、1980年]]
1994年4月初頭、[[国際連合安全保障理事会|国連安保理]]において、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]と非常任理事国はUNAMIRを巡り鋭い対立を見せた。アメリカの[[中央情報局]](CIA)が2月に纏めた秘密報告は、[[アルーシャ協定]]の破綻は50万人の死を招くと予見していたが、米国は先立っての[[モガディシュの戦闘|ソマリア内戦]]の痛手から国連の平和維持活動への積極参加を見直そうとしており、UNAMIRの終了に向けてロビー活動を行っていた。4月5日火曜日の夕刻、UNAMIRの活動を三月間延長するという妥協案が漸く合意を見た。この間、ハビャリマナ大統領は諸国歴訪を終えて帰国しようとしていた。4月4日には[[ザイール]](現:[[コンゴ民主共和国]])に飛んで[[モブツ・セセ・セコ]]大統領と会談し、6日には[[タンザニア]]の[[ダルエスサラーム]]に日帰り予定で飛んでタンザニア大統領主催の近隣国首脳会談に出席した<ref>Melvern, pp. 128-131</ref>。その日の夕刻、帰路の飛行機にはブルンジの[[シプリアン・ンタリャミラ]]大統領とその閣僚数人も便乗した。これはフランス政府がハビャリマナ大統領に贈った専用機[[ダッソー ファルコン 50]]が、ンタリャミラ大統領自身の専用機よりも高速だったためである<ref>Melvern, p. 142</ref>。
 
[[ジャン・カンバンダ]]暫定首相([[:en:Jean Kambanda|en]])が[[ルワンダ国際戦犯法廷]](ICTR)で証言したところによると、ザイールのモブツ大統領から「4月6日はダルエスサラームに行くな」との警告があった。モブツ大統領は「この警告はパリの[[エリゼ宮殿]]の非常な高官が発したものだ」と述べたという。モブツ大統領によれば、この警告と撃墜事件(後述)の翌7日に発生した[[フランソワ・ミッテラン]]大統領の側近の[[フランソワ・ド・グロスーヴル]]([[:en:François de Grossouvre|en]])の自殺事件の間には関連があるという<ref>Melvern, Linda: "Expert Refutes Bruguière Claims that RPF Shot Down Rwandan President’s Aircraft in 1994." ''The New Times.'' November 27, 2006.</ref>。
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地上は大混乱に陥った。大統領を空港から家まで護衛するべく待機していた大統領警護隊は、人々を武器で威嚇した。空港の周囲に沿って配置されていたベルギーの平和維持部隊の要員20名は大統領警護隊に包囲され、一部は武装解除された<ref name=Melvern134/>。空港は閉鎖され、上空で旋回待機していたベルギーのハーキュリーズは[[ナイロビ]]に[[ダイバート]]された<ref name=Dallaire228/>。
 
カノンベ駐屯地では、墜落直後に軍隊ラッパが鳴り響き、これは「[[ルワンダ愛国戦線]]が基地を攻撃してきた」という意味に捉えられた。兵士達は各隊の武器庫に殺到し武装した。空挺コマンド旅団([[:en:Commando Parachute Group|CRAP(en)]])に所属する兵士は午後9時ごろに閲兵場に集結し、他部隊も基地内の各所に集結した<ref name="Melvern, pp. 135-136">Melvern, pp. 135-136</ref>。少なくとも1人の目撃者は、墜落から1時間ほどあとにカノンベで銃声が聞こえたと述べている。当初は、飛行機ではなく空港近くのカノンベ駐屯地の軍需物資が爆発したとの報告も流れた<ref name=Melvern134/>。
 
キガリ地区の担当士官は国防省に一報を入れた。オーギュスタン・ビジマナ国防相([[:en:Augustin Bizimana|en]])は国外に滞在しており、報せを受けた士官は国防省の官房長テオネスト・バゴソラ([[:en:Théoneste Bagosora|en]])大佐と連絡を取れなかった。バゴソラ大佐はUNAMIRの[[バングラデシュ]]人士官らが主催する親睦会に出席していた<ref name=Melvern134/>。
 
墜落の報せは、当初はカノンベ駐屯地の弾薬集積所が爆発したとして、UNAMIRの軍事部門総司令官であるダレールに急報された。彼はUNAMIRのキガリ地区司令官リュック・マルシャルに命じて墜落現場に偵察班を送らせた<ref name=Dallaire221>Dallaire & Beardsley, p. 221</ref>。[[アガート・ウィリンジイマナ]]首相や穏健派政党 ''Parti liberal du Rwanda'' の党首ランド・ンダシンワ([[:en:Lando Ndasingwa|en]])をはじめ、数多の人々がUNAMIRに情報を求めて電話し始めた。ウィリンジイマナ首相がダレール総司令官に伝えたところでは、彼女は閣僚を招集しようとしたが、多くの者が家族を置いて出てることを恐れていたという。彼女はまた強硬派閣僚が全員行方不明になったと報告した。ダレール総司令官は首相に墜落機が確かに大統領機だったか確認できるか尋ね、ついでUNAMIRの政治部門代表であるジャック=ロジェ・ブー=ブー([[:en:Jacques-Roger Booh-Booh|en]])に事態を連絡した。その後ウィリンジイマナ首相が電話を掛け直してきて、墜落機が確かに大統領機であり、大統領が搭乗していた筈であることを伝えた。同時に彼女はUNAMIRに対して政治状況を制御下に取り戻すための助力を求めた。大統領職務の代行順位として彼女は法律上筆頭にあったが、彼女と同盟関係にある穏健派閣僚の一部は身の危険を感じて居宅から逃亡し始めていたためである<ref>Dallaire & Beardsley, pp. 221-222</ref>。
 
午後9時18分、UNAMIRの表現では「過敏で危険な」状態にある大統領警護隊がメリジアン・ホテルの付近の道路を封鎖した。襲撃の前からハビャリマナ大統領の到着に備えた治安措置として他にも何所かが道路封鎖されていた<ref>Melvern, pp. 134-135</ref>。墜落現場を調べるために派遣されていたUNAMIRのベルギー兵から成る偵察班は、大統領警護隊による道路封鎖箇所で午後9時35分に制止され、武装解除された上で空港に送られた<ref name=Melvern135/>。
 
カノンベ駐屯地の兵士達は、墜落後の軍隊ラッパをRPFが駐屯地を攻撃してきたものと捉え、武装しに走った。各隊は午後9時ごろに集結を終えた。その中の一隊だった空挺コマンド旅団(CRAP)は、墜落現場から遺体を回収するよう命じられた。国連平和維持軍は墜落現場への立ち入りを拒否された<ref name="Melvern">{{cite news| url=http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2012/jan/10/rwanda-at-last-we-know-truth?newsfeed=true |year=2010| location=London | work=The Guardian | first=Linda | last=Melvern | title=Rwanda: at last we know the truth | date=2012-01-10|accessdate=2012-10-16}}</ref>。その後、墜落現場に二名のフランス兵が現れ、[[ブラックボックス (航空)|ブラックボックス]]が発見され次第持ち帰りたい旨依頼した<ref name="Melvern, pp. 135-136"/>。ブラックボックスの所在はのちに不明となった。フランス軍はダレールに対し、墜落事件について調査することを申し出てたが、ダレールは即座に断った<ref name="Melvern"/>。
 
墜落から40分ほどのちに軍司令部に連絡したあるルワンダ軍大佐は、大統領が死亡したとの確報はいまだないと伝えられた。その約30分後の午後9時30分ごろになっても、軍司令部は依然状況を把握できていなかったが、大統領機が爆発したこと、おそらくミサイルが命中したということは明らかになった。ついで、参謀総長であるデオグラティアス・ンサビマナ少将も同機に乗っていたとの報せが届いた。居合わせた将校は[[統帥権]]を明確化するために後任者を定めなければならないことに気付き、急遽人選のため会議を開いた。そこにくバゴソラ大佐が現れた<ref>Melvern, p. 136</ref>。午後10時ごろ、ルワンダ政府のUNAMIR連絡官エフレム・ルワバリンダがダレール総司令官に電話し、危機管理委員会がく開かれると伝えた。ダレール総司令官は[[ニューヨーク州|ニューヨーク]]に居る上層部に連絡したのちに危機管理委員会に出向き、バゴソラが議長となっていることを見出した<ref>Dallaire & Beardsley, p. 222</ref>。
 
:''後続した出来事について、別記事[[ルワンダ虐殺における初期の出来事]]を参照。
 
=== 長期的な出来事 ===
この暗殺事件は[[フツ]]の過激派からは[[ツチ]]と講和による戦争終結を求めるフツ穏健派に対する大量殺戮計画を実行に移すためのシグナルとして捉えられた。ここから勃発した[[ルワンダ虐殺]]による犠牲者数は一般に80万人と推計されている。これに対しRPFは侵攻を開始し、1994年8月までにルワンダ全土を掌握し新政権を樹立した。周辺諸国に逃れた[[難民]]は[[国際連合難民高等弁務官事務所|UNHCR]]の推計で210万人に達したが、これは一部にはRPFの報復を恐れたためであるとともに、ジェラール・プルニエなどは「難民キャンプをルワンダ奪還に向けた軍事拠点にしようとする旧フツ政権指導部による計画的な疎開であり、その意味では戦争の継続だった」<ref name=Prunier24>Prunier 24</ref>としている。この結果、[[大湖沼地域難民危機]] ([[:en:Great Lakes refugee crisis|en]]) は著しく政治性と軍事性を高め、1996年にRPFによる隣国ザイール(当時。現[[コンゴ民主共和国]])との国境地帯の難民キャンプに対する越境攻撃が始まるに至った。この尖兵となったコンゴ国内の反体制派[[コンゴ・ザイール解放民主勢力連合]](仏略: AFDL, 英略: ADFL)はモブツ政権の転覆を謀り([[第一次コンゴ戦争]])、1997年5月にザイールの[[モブツ・セセ・セコ]]政権は打倒され、国名はコンゴ民主共和国に改められた。1998年、コンゴの大統領となった[[ローラン・カビラ]]はより従順な政権を求める諸外国から支持を失い、新たな内戦状況に陥った。これから生じた[[第二次コンゴ戦争]] (1998-2003) には8国が介入し、犠牲者数において[[第二次世界大戦]]以来最悪の武力紛争となった。その後も内戦の完全な沈静化には至らず、犠牲者数は540万人とも言われる<ref name="The deadliest war in the world">[http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1198921,00.html The deadliest war in the world]</ref><ref>[http://www.reuters.com/article/worldNews/idUSL2280201220080122 Congo War driven crisis kills 45,000 a month]</ref>。
 
一方で、ンタリャミラ大統領の死去は前年から[[ブルンジ内戦|内戦]]が再発していたブルンジの状況をも悪化させたが、これはルワンダ、コンゴの状況悪化と相互に関連して、互いに煽り煽られる様相となった。2005年に挙国一致政権が樹立されるまでに30万人以上が犠牲となった<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/7354005.stm BBC NEWS | Africa | Heavy shelling in Burundi capital]</ref>。
 
4月6日の暗殺に続くいずれかの時点で、ハビャリマナ大統領の遺体はザイールのモブツ・セセ・セコ大統領のもとに移送され、ザイール(現コンゴ民主共和国)の[[バドリテ]]に位置する非公開の安置所で保管された。モブツ大統領は遺族に対し最終的には遺体をルワンダに正式に埋葬すると約束した。1997年5月12日、[[ローラン・カビラ]]率いる反体制派[[コンゴ・ザイール解放民主勢力連合]] (ADFL) がバドリテに迫ったことから、モブツ大統領は防腐処理の施された遺体を輸送機で[[キンシャサ]]に移し、[[ヌジリ国際空港|キンシャサ国際空港]]のエプロンに駐機した輸送機内で三日間待機させた。モブツ大統領は反体制派による冒涜を危惧して遺体を火葬することとしたが、中部アフリカには火葬の習慣がないため、国内に定住していた[[インド]]人の[[ヒンドゥー教]]司祭に祭儀を委ねた。モブツ大統領がザイールから逃亡する前日の5月15日に火葬が執行された<ref>"[http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=990CEFDA1538F935A25756C0A961958260 Ending a Chapter, Mobutu Cremates Rwanda Ally] by Howard W. French. ''New York Times.'' May 16, 1997.</ref>。
 
==犯人==
事件後当初より、襲撃は続くルワンダ虐殺を実行したフツ過激派によるものと考えられてきたが、2000年以降、襲撃を命じたのはRPFを率いてのちにルワンダ大統領となった[[ポール・カガメ]]だとする報告が幾つか提出されている。しかしながら、いずれの説についても証拠を巡って激しい論争があり、多くの研究機関をはじめ[[国際連合|国連]]も襲撃犯を断定することは避けている。[[BBCニュース]]の特派員であり1994年の虐殺をキガリから報道したマーク・ドイル([[:en:Mark Doyle (journalist)|en]])は、「暗殺者の正体は20世紀末最大の謎の1つとなるかも知れない」と2006年に記している<ref name=BBC>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/6196226.stm "Rwanda's mystery that won't go away"] by Mark Doyle, ''[[BBCニュース]]'', 29 November 2006</ref>。
 
[[アメリカ合衆国国務省|アメリカ国務省]]の現在では情報公開された4月7日付諜報秘密報告によれば、身元不明の情報源から米国ルワンダ駐在大使に「軍内のフツ不穏分子…多分たぶん大統領警護隊エリート、が撃墜に関与した」と報告があった<ref>{{PDFlink|[http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB119/Rw4.pdf Rwanda/Burundi: Turmoil in Rwanda]|101&nbsp;[[キビバイト|KiB]]<!-- application/pdf, 104191 bytes -->}}, U.S. Department of State's Spot Intelligence Report as of 08:45 EDT, 7 April 1994, hosted by [http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB119/index.htm "The U.S. and the Genocide in Rwanda 1994: The Assassination of the Presidents and the Beginning of the 'Apocalypse'"] by William Ferroggiaro, [[アメリカ国家安全保障アーカイブ]], April 7, 2004</ref>。CIAと[[アメリカ国防情報局]]を含む他のアメリカ政府機関もこの結論を支持した<ref>[http://www.globalsecurity.org/military/library/news/2004/03/mil-040330-2ee84303.htm Pentagon/Rwanda genocide], '', [[ボイス・オブ・アメリカ]]'' broadcast on 30 April 1994 (transcript hosted by [[:en:GlobalSecurity.org]])</ref>。フィリップ・ゴーレイヴィッチ([[:en:Philip Gourevitch|en]])は、1998年に刊行したルワンダ虐殺を描いたベストセラー「ジェノサイドの丘」(原題:''We Wish to Inform You That Tomorrow We Will Be Killed With Our Families''([[:en:We Wish to Inform You That Tomorrow We Will Be Killed With Our Families|en]]))の中で、当時の考えを次のように纏めている。<blockquote>ハビャリマナの暗殺犯はいまだ特定されていないが、疑惑の焦点は彼の取り巻きの過激派、なかんずく半ば引退したテオネスト・バゴソラ大佐に絞られている。バコソラ大佐は[[アガト・ハビャリマナ|ハビャリマナ夫人]]と親密であるとともに「[[アカズ]]」とその処刑部隊の創設者の一人であり、1993年1月にはバコソラ大佐がアポカリプス(訳注:ここでは大破壊などの意)を準備中だと発言している。<ref>Philip Gourevitch, ''We Wish to Inform You That Tomorrow We Will Be Killed With Our Families'', New York: Picador, ISBN 0-312-24335-9, p. 113</ref></blockquote>
 
1997年、[[元老院 (ベルギー)|ベルギー元老院]]による報告は、暗殺の詳細を究明するには情報が不足しているとした<ref>[http://www.senate.be/www/?MIval=/publications/viewPubDoc&TID=16778570&LANG=fr#1-611/7_185 Report of the Commission d'enquete parlementaire concernant les evenements du Rwanda], Section 3.5.1: L'attentat contre l'avion presidentiel, [[元老院 (ベルギー)|ベルギー元老院]] 1997-1998年会期, 6 December 1997 {{fr icon}}</ref>。1998年、[[国民議会 (フランス)|フランス国民議会]]による報告は2つの説を提出した。1つは攻撃をRPF(現在のルワンダ政権と軍の指導部)との交渉進展を不服としたフツ過激派によるものとする説である。もう1つの説は首謀者をRPFとするもので、これは[[アルーシャ協定]]の履行が進まないことへの不満が動機であるとした。これら以外に検討対象となった[[仮説]]としては、フランス軍が関与したとするものがあったが、フランスがルワンダ政府を攻撃する理由は不明だった。フランスの1998年報告は、主要な2説についてはいずれが有力とも断定はしなかった<ref name=French1998/>。2000年に公表された[[アフリカ統一機構]]による報告は、首謀者の特定を試みていない<ref>[http://cec.rwanda2.free.fr/doc/Rapport_OUA/Rwanda-f/oua.htm ''Rwanda : le genocide qu'on aurait pu stopper''], Chapter 14: The Genocide, [[アフリカ統一機構]], 29 May 2000 {{fr icon}}</ref>。
 
2000年1月、カナダの『ナショナル・ポスト』([[:en:National Post|en]])紙は、カガメ配下のRPFが外国政府の支援下で暗殺を実行したと主張するツチの情報提供者3名による報告を、[[ルワンダ国際戦犯法廷]]のルイーズ・アルブール([[:en:Louise Arbour|en]])検事が握り潰した、と報じた。<ref name=Edwards>[http://www.geocities.com/iwacu.geo/explosive.htm?200624 "Explosive Leak on Rwanda Genocide"] by Steven Edwards, ''[[:en:National Post]]'', January 3, 2000 (hosted by geocities.com)</ref>国連は後日、その「報告」なるものはオーストラリアの捜査官マイケル・ヒューリガンが作成した3ページのメモであり、彼自身情報の信頼性に確信が持てないままえず資料庫に保管したものにぎない、と説明した。その後国連はそのメモをルワンダ国際戦犯法廷に提出し、被告側弁護士は内容への興味を表明した。<ref name=BBC2000>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/694660.stm "Memo Links R wandan Leader To Killing"], ''BBC News'', 29 March 2000</ref><ref name=ICTR2000>{{cite web|url=http://69.94.11.53/ENGLISH/PRESSREL/2000/228.htm |title=Statement by the President of the ICTR: Plane crash in Rwanda in April 1994 (ICTR/INFO-9-2-228STA.EN)| publisher=[[ルワンダ国際戦犯法廷]] |location=Arusha |date=7 April 2000|accessdate=2010/04/17}}</ref>
 
2004年、事件に巻き込まれたフランス人乗務員の死について捜査していたフランスのジャン=ルイ・ブルギエール対テロ司法官([[:en:Jean-Louis Bruguière|en]])の証言によると、暗殺はカガメが命じたとする報告書を提出した。この報告書は元RPFの中尉だったアブドゥル・ルジビザ([[:en:Abdul Ruzibiza|en]])の証言に大きく依拠している。ルジビザ元中尉は片射肩撃ち式の[[:en:9K38 Igla|SA-16(en)]]を用いて暗殺を実行した細胞に所属していたと述べた<ref name=Grande/><ref name="2004 report coverage">[http://news.bbc.co.uk/2/hi/africa/3501032.stm "Rwanda Denies French Allegations"], ''BBC News'', 11 March 2004. For less critical coverage, see [http://www.counterpunch.org/philpot03122004.html "Nobody Can Call It a 'Plane Crash' Now! Judge Bruguière's Report on the Assassination of former Rwandan President Habyarimana"] by Robin Philpot, ''[[:en:CounterPunch]]'', 12/14 March 2004. For an RPF-responsibility theory pulling together multiple allegations and reports, see [http://www.globalpolicy.org/security/issues/congo/2004/1210secretwar.htm "Rwanda's Secret War"] by Keith Harmon Snow, [[:en:Global Policy Forum]], 10 December 2004</ref>。ルジビザ元中尉はのちに彼の証言をプレスリリースとして配布し、自身の証言を詳細に説明するとともに、紛争を開始し、ジェノサイドを長引かせ、ジェノサイドと政治的弾圧の期間を通じて広範な破壊活動を行った咎でRPFを糾弾した<ref>[http://fdlr.r-online.info/Actualite/Abdul_Ruzibiza_testimony.htm Testimony of Abdul Ruzibiza], 14 March 2004 (hosted by fdlr.r-online.info)</ref>。この元RPF将校は2005年に ''Rwanda. L’histoire secrete'' という著書も出版し、ルジビザ元中尉の説を述べている<ref name=JustWorld2004>[http://justworldnews.org/archives/ruzibiza.html "Kagame Ordered Shooting Down of Habyarimana's Plane-Ruzibiza"], ''Just World News'', 14 November 2004</ref>。ブルギエール対テロ司法官によればハビャリマナ大統領の暗殺にはCIAが関与しているとも主張しているという<ref>[http://www.counterpunch.org/philpot02262005.html "Second Thoughts on the Hotel Rwanda: Boutros-Ghali: a CIA Role in the 1994 Assassination of Rwanda's President Habyarimana?"] by Robin Philpot, ''Counterpunch'', 26/27 February 2005</ref>。
 
[[ポール・ルセサバギナ]]はフツとツチ両方を祖先に持ち、(訳注:虐殺の最中にツチや穏健派フツの)命を救おうと努力したことで2004年の映画「[[ホテル・ルワンダ]]」のモデルとなったが、のちにカガメとRPFが撃墜事件の背後にいたという説を支持し、2006年11月に次のように記している。
<blockquote>
国連安保理がこの航空機ミサイル攻撃事件について、いまだ調査を命じていないのは理解し難い。特に、まさにこの事件が「1994年のルワンダ虐殺」と呼ばれる大量殺戮を引き起こしたことには誰もが同意するのだから尚更なおさらだ。<ref>{{cite web|first=Paul |last=Rusesabagina |title=Compendium of RPF crimes - October 1990 to present: The case for overdue prosecution'' | url=http://www.taylor-report.com/articles/Compendium_of_RPF_Crimes.pdf |date=November 2006|accessdate=4 January 2010}}</ref>
</blockquote>
 
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<blockquote>
フランスの判事がカガメ大統領が前任者殺害に関与したとして示した証拠は甚だ薄弱であり、しかもその中には、大統領機撃墜に使用されたとされる対空ミサイル関連など、フランス議会の以前の調査により既に棄却されたものまで含まれている<ref name=BBC/>。
</blockquote>
 
カガメ大統領はまた「虐殺にフランスが関与した証拠の収集を責務とする」ルワンダ人委員会の編成を命じた<ref name="AFP">{{cite web|publisher=AFP |title=Genocide rwandais: le rapport sur le role de la France remis a Paul Kagame'' |url=http://afp.google.com/article/ALeqM5ivoud7VGPIJv80NnCsNAuC2RnWPw |date=16 November 2007 |accessdate=4 December 2010}}{{fr icon}}</ref>。2007年11月、この委員会は報告書をカガメだけに提出し、委員長であるジャン・ド・ディユー・ムチョは委員会が「調査が有効か否かカガメ大統領が宣言するのを待つ」と述べた。これによってこの調査の政治性は更に際立った<ref name="AFP"/>。
 
2007年、コレット・ブレックマン([[:en:Colette Braeckman|en]])は、[[ル・モンド・ディプロマティーク]]紙掲載記事において、ブルギエール判事による報告書の信頼性には重大な疑問があるとし、ミサイル攻撃の際にルワンダ政府軍の大統領警護隊をフランス軍の人員が直接的に援助したか、または共に行動したのではないかと示唆した<ref>[http://www.monde-diplomatique.fr/2007/01/BRAECKMAN/14367 "Accusations suspectes contre le regime rwandais,"] ''[[ル・モンド・ディプロマティーク]]'', January 2007 (retrieved 13 April 2009){{fr icon}}</ref>。2007年、BBCによるインタビューの際、カガメは公明正大な審問には協力すると述べた。BBCはこれを次のように評した。「果たしてこんな大任を負いたがる判事がるかどうかは全く別の問題だ」<ref name="BBC2">{{cite news| url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/africa/6312579.stm|title=Rwanda leader defiant on killing claim|publisher=BBC|date=30 January 2007|accessdate=26 November 2007}}</ref>。
 
ブルギエールはまた、暗殺について尋問するためカガメの側近9人に対し逮捕状を発行した。2008年11月、ドイツ政府はこの欧州向けの逮捕要請に初めて応え、カガメの儀礼局長である[[ローズ・カブイェ]]が[[フランクフルト]]に到着したところを逮捕した。カブエはフランス当局の拘束下に置かれてブルギエールの審問に応じることに同意を示した<ref name=Kabuye>{{cite web|url=http://afp.google.com/article/ALeqM5iC-uvk0vl9z4FKLADSFv8D7zT2ug |title=Rwandan president's aide arrested in Germany" |publisher=''AFP'' |date= 10 November 2008|accessdate=2010/04/17}}</ref>。のちに判事である Marc Trevidic がブルギエール報告を精査したところ、内容の大半が依拠している RPF の兵士達による証言は、のちに撤回されていたことが明らかになった<ref name="Melvern"/>。
 
2010年1月、ルワンダ政府は「1994年4月6日におけるルワンダ大統領専用機ファルコン50登録番号9XR-NNに対する攻撃の原因と背景および犯人に関する調査報告」、通称ムツィンジ報告(Mutsinzi Report)を公表した。複数巻にわたるこの報告書は、フツ・パワーの支持者が攻撃に関与したとしており、フィリップ・ゴーレイヴィッチは次のように評した。「2月前、ルワンダが[[イギリス連邦]]加入を承認された前日、フランスとルワンダは外交関係を正常化した。当然その前にルワンダは公表直前にあるムツィンジ報告の内容をフランスに伝えていた。関係正常化はすなわちフランスが報告書の結論を認めたことを意味する」<ref>{{cite web | title=The Mutsinzi Report on the Rwandan Genocide |url=http://www.newyorker.com/online/blogs/newsdesk/2010/01/the-mutsinzi-report-on-the-rwandan-genocide.html |first=Philip |last=Gourevitch |publisher=''[[ザ・ニューヨーカー]]''
|date=8 January 2010 |accessdate=11 January 2010}}</ref><ref>See {{cite
|web|
136行目:
||notes=zipped file}}</ref>。
 
ミサイルがどこから発射されたのかについてさえ諸説がある。目撃者の証言はバラバラで、ガソギ丘、ニャンドゥング低地、ルソロロ丘、マサカ丘が挙げられている。一部の目撃者は、使用済みの肩ち式ミサイル発射機をマサカ丘で見たと主張している<ref>Melvern, map 1</ref>。
 
2012年、フランスの調査により「1994年にルワンダ大統領の乗機を撃墜し、同国のジェノサイド事件を引き起こしたミサイルは、軍駐屯地から発射されたものであり、ツチの反政府勢力とは無関係だった」ことが突き止められ、カガメに対する嫌疑は晴らされた<ref name=washingtonpost2012>{{citation|first=Pierre-Antoine |last=Souchard|url=http://www.startribune.com/137025753.html?refer=y|title=French probe finds missile fire from military camp downed Rwandan president's plane in 1994|publisher=Associated Press|year=2012|date=2012-01-10|accessdate=2012-10-16}}</ref>。調査結果はミサイルの発射地点をカノンベの兵舎だと特定した<ref>http://gov.rw/French-Judges-release-report-on-the-plane-crash-used-as-a-pretext-to-start-genocide-in-Rwanda</ref>。この駐屯地は大統領警護隊<ref name="Melvern"/>と空挺コマンド大隊を含むルワンダ軍の管理下にあり、他に対空大隊も駐屯していた<ref>http://sweden.embassy.gov.rw/content/view/287/98/lang,english/</ref>。飛行経路はキガリ国際空港に向かう途上でカノンベの兵舎上空を通過する筈だった。