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ハンムラビの死後、バビロン第1王朝の王たちは反乱と外敵の侵入に対して長く対処しなくてはならなかった。次の王[[サムス・イルナ]](在位:前1749年-前1712年)の即位から程なく、ラルサで[[リム・シン2世]]が、エシュヌンナで[[トゥプリアシュ]]が反乱を起こした<ref name="クレンゲル1980p52">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 52</ref>。バビロンの年名はこれらに対する勝利を記録しているが、サムス・イルナの治世第20年に至ってもなお反乱勢力に対して「一年に八度の勝利」を記録しているように、その統治は安定しなかった<ref name="クレンゲル1980p52"/>。更にペルシア湾岸地方では[[イルマン]](イルマ・イルム)という人物が自立し、その後「[[海の国]]」と呼ばれる王朝を創立した([[海の国第1王朝|「海の国」第1王朝]]、バビロン第2王朝とも)<ref name="クレンゲル1980p53">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 53</ref>。更に重要なこととして、サムス・イルナの治世中に初めて'''カッシュ'''('''[[カッシート人]]''')の軍勢への言及が見られる<ref name="クレンゲル1980p53"/><ref name="フィネガン1983p81">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 81</ref>。サムス・イルナの次の王、[[アビ・エシュフ]](在位:前1711年-前1684年)は「海の国」に勝利したが、その統治を永続させることはできず、加えてその治世の間にマリ地方を拠点に「ハナ」王朝が創立された<ref name="クレンゲル1980p53"/>。この王朝の王はカッシート語の名前を持っており、当時カッシート人の集団がユーフラテス川中流域に移住を進めていたことを示す<ref name="クレンゲル1980p54">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 54</ref>。
 
アビ・エシュフの後の王たちの時代にも継続的にバビロン第1王朝の支配地域は縮小したが、この王朝の崩壊過程は時代が進むにつれ具体的な状況を把握することができなくなる<ref name="クレンゲル1980p54"/>。弱体化していたバビロン第1王朝は最後の王[[サムス・ディタナ]](前1625年-前1595年)の時、突如アナトリアからバビロニアへ長遠征を行った[[ヒッタイト]]の[[ムルシリ1世]]の攻撃によってバビロンを占領され滅亡した<ref name="クレンゲル1980p54"/><ref name="前川1998p207">[[#前川 1998b|前川 1998b]], p. 207</ref>。このヒッタイトの遠征が行われた理由についてはよくわかっていない。ヒッタイト人が残した記録にもその意図を推測できるようなものはなく、彼らがバビロニアまでも含む巨大な王国を構築していようとしたとするような説は証明されない<ref name="クレンゲル1980p54"/>。バビロニア人もまた、非常に簡潔な記録を残すに過ぎない<ref name="クレンゲル1980p55">[[#クレンゲル 1980|クレンゲル 1980]], p. 55</ref>。しかし、意図はともかく、結果だけを見ればヒッタイトによるバビロンの占領は一時的なものであり、弱体化したバビロン第1王朝にとどめを刺した事件であった<ref name="クレンゲル1980p55"/>。その後にシュメールとアッカドの地の政治的混乱を収拾して新しい秩序を確立したのはヒッタイト人ではなく、カッシート人であった<ref name="クレンゲル1980p55"/><ref name="フィネガン1983p82">[[#フィネガン 1983|フィネガン 1983]], p. 82</ref><ref name="前田ら2000p74">[[#前田ら 2000|前田ら 2000]], p. 74</ref>。
 
=== 中期バビロニア時代 ===