「バルフ」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
→脚注: を注釈と出典に分割 |
→中世: 注釈追加 |
||
97行目:
=== 中世 ===
[[画像:Timur during attack on Balkh 1370.jpg|thumb|250px|right|ティムールの攻撃]]
1135年、[[セルジューク朝]]のスルターン・[[アフマド・サンジャル]]がマザーリシャリーフで[[アリー・イブン・アビー・ターリブ|ハズラト・アリー]]の遺体を発見し、墓を作ったと言う。1173年、[[ゴール朝]]がバルフを奪回したが<ref>フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史と文化』、309頁</ref>、1215年に[[ホラズム・シャー朝]]に滅ぼされた。[[1218年]]からの[[モンゴル帝国]]のホラズム・シャー朝攻撃に際してバルフはモンゴルに降伏するが、バルフの動向を警戒した[[チンギス・カン]]の命令によって市民は虐殺され、城壁が破壊される<ref>C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1968年3月)、236-238頁</ref>。チンギス・カンに仕えた[[耶律楚材]]は「大河に臨んで'''斑城'''なる町あり、すこぶる富盛なり」と記している<ref>耶律楚材「[[西遊録]]」</ref>。13世紀後半、中国に向かう途中の[[マルコ・ポーロ]]がバルクを訪れた。その頃のバルクは'''巴里黒'''と呼ばれており<ref>「元史」巻一63</ref>、ヨーロッパでは[[アレクサンドロス3世|アレクサンダー大王]]とダ
1318年から26年頃、[[チャガタイ・ハン国]]の[[ケベク]]によってバルフは再興された<ref>フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史と文化』、318頁</ref>。[[1333年]]にバルフを訪れた[[イブン・バットゥータ]]は荒廃してはいるものの、堅固で壮大な市街地や[[モスク]]、[[マドラサ]]の遺跡から往時の繁栄の跡が偲ばれると書き残している<ref>イブン・バットゥータ『大旅行記』4巻(家島彦一訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1999年9月)、193頁</ref>。1340年頃からチャガタイ・ハン国は分裂し、アフガニスタン北部のうちバルフ川流域はスルドゥス部族によって支配された<ref>川口『ティムール帝国』、40,42頁</ref>。[[1368年]]に西チャガタイ・ハン国の有力[[アミール]](貴族)であるフサインはバルフを本拠地に定めて防備を固めた。1369年、フサインと対立するアミール・[[ティムール]]はバルフに進軍し、包囲の末に街を陥落させる({{仮リンク|バルフ包囲戦 (1370年)|en|Siege of Balkh (1370)|label=バルフ包囲戦}})<ref>川口『ティムール帝国』、50,55頁</ref>。1370年4月9日にティムールはバルフで。臣従の誓い([[バイア (イスラーム)|バイア]])を受け、[[ティムール朝|新たな政権]]を樹立する<ref>川口『ティムール帝国』、57頁</ref>。。[[15世紀]]初頭、[[明]]の[[永楽帝]]の命を受けた[[陳誠 (明朝)|陳誠]]が「八剌黒」(バルフ)を訪れた<ref>陳誠、李暹「[[西域番国志]]」</ref>。[[1447年]]には再び{{仮リンク|バルフ包囲戦 (1447年)|en|Siege of Balkh (1447)|label=バルフ包囲戦}}があったという<ref name="kikou"/>。[[1480年]]頃、[[フサイン・バイカラ|スルターン・フサイン・バイカラ]]がマザーリシャリーフのハズラト・アリー廟を修復した<ref>フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史と文化』、325頁</ref>。1507年に草原地帯から南下を続ける[[ウズベク]]国家の[[シャイバーニー朝]]([[ブハラ・ハン国]])がアフガニスタンに到達し、[[サファヴィー朝]]と衝突した。1510年のマルウ近郊の戦いでシャイバーニー朝は敗北し、一旦は押し戻されたものの、1568年にシャイバーニー朝のアブドゥッラー・ブン・イスカンダルはバルフを占領する<ref>フォーヘルサング『アフガニスタンの歴史と文化』、329-331,335-338頁</ref>。
|