ブロンテ姉妹

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ブロンテ姉妹(ブロンテしまい、Brontë sisters, Brontës [bɹɒnti(z)])は、イギリスヴィクトリア時代を代表する小説家姉妹。シャーロットエミリーアンの3人を指す。

1835年ごろ、ブランウェルによって描かれた3姉妹の肖像画。左からアン、エミリー、シャーロット。エミリーとシャーロットの間にはブランウェルが描かれていたが、彼自身の手によって消されている。

ヨークシャーソーントンの牧師の子として生まれた。3人共同の『詩集』を発表ののち、小説を書く。シャーロットは『ジェーン・エア』、エミリーは『嵐が丘』、アンは、『ワイルドフェル屋敷の人々』を発表しイギリス文壇に多大な影響を与えた。

家族と経歴

3人の父は、パトリック・ブロンテといった。北アイルランドダウン州の生まれ。家庭教師を務めたのちケンブリッジ大学に特待免費生として入学。29歳で学位をとり、牧師補となった。本来姓はブランティといったが、ネルソンがブロンテ公爵となると、これにあやかりギリシャ語式のブロンテと変えた。パトリックは文学を嗜み、詩集や散文を発表したが、認められなかった。1812年、35歳のときヨークシャーに移り、そこでマリア・ブランウェルと結婚。1814年マリア、1815年エリザベス、1816年シャーロット、1817年パトリック・ブランウェル(以下、ブランウェル)、1818年エミリー・ジェーン(以下、エミリー)、1820年アンと計6人の子供が産まれた。1820年、一家はハワースに移り、現在ブロンテ協会本部がある牧師館に入ったが、翌1821年、母が癌と結核を併発して38歳で死去。その後は母の姉エリザベス・ブランウェルがブロンテ家の家事を取り仕切った(彼女は1842年に死去)。

1824年、マリア、エリザベス、シャーロット、エミリーは父の意志によりランカシャーのカウアン・ブリッジ校の寄宿舎に入った。しかしここは衛生状態が極めて悪く、翌1825年マリアとエリザベスは栄養失調のため結核にかかり家に戻されたが、間もなく2人とも死去。わずか11歳と10歳の短い生涯であった。その後、シャーロットとエミリーも家に戻され、ブランウェル、アンと共に空想にふけることになる。アメリカ西岸に、ウェリトンを国王とするグレイト・グラス・タウンという架空の国を作り、シャーロットとブランウェルはこれをもとに「アングリア物語」を書いた。またエミリーとアンは太平洋の北にゴンダルという島を空想し、それはエミリーの詩稿の一部から窺い知ることができる。

1831年よりシャーロットは私塾で1年半学び、その後そこで教師を務めた。またエミリーはロウ・ヒル・スクールの教師を短期間務め、のちシャーロット、アンは住み込みの家庭教師として働くようになった。1842年、3人は牧師館で私塾を開くことを計画。シャーロットとエミリーはベルギーブリュッセルのエジェ寄宿学校へ留学する。留学資金を出していた伯母エリザベス・ブランウェルが亡くなると2人はイギリスに帰国し、エミリーはそのままイギリスにとどまったが、シャーロットは再びベルギーへ向かった。シャーロットは寄宿先のエジェに恋慕するようになったが、恋が実ることはなく、やがて帰国。実際に姉妹が開いた私塾も希望者が現れず失敗に終わった。

シャーロットは詩人志望であったが、エミリーが書いてあった詩を発見すると、アンの協力を得て詩集を作る。また小説を書き始めた。1845年、『カラー、エリス、アクトン・ベルの詩集』として刊行。筆名カラー(Currer)はシャーロット、エリス(Ellis)はエミリー、アクトン(Acton)はアンである。これはわずか2部しか売れなかった。さらにシャーロットは「教授」、エミリーは「嵐が丘」、アンは「アグネス・グレイ」とそれぞれ小説を書き、出版社に送った。結果は、シャーロットのみ買われなかったが第2作の執筆を求められ、1847年に『ジェーン・エア』を刊行した。同年エミリーの『嵐が丘』とアンの『アグネス・グレイ』も刊行された。『ジェーン・エア』は反響が大きく、シャーロットは3作目「シャーリー」を書き始めた。

ブロンテ家唯一の息子ブランウェルは、それがために父パトリックに溺愛され、うぬぼれの強い青年に成長した。彼は絵画や文学に才能を求めたが、いずれも失敗に終わっている。そのため生活が荒れ、1848年9月24日、過度の飲酒がもとで31歳で急死。その葬式の折にエミリーは風邪を引き、医者の診察を受けるも彼女は薬を飲むことを拒み、12月19日に30歳で死去した。続いてアンも病に倒れ、翌1849年スカーブラに移ったが、ここで29歳で死去した。

シャーロットはその後『シャーリー』『ビレット』を発表。1854年には父の反対のため求婚を断っていたアーサー・ニコルズと結婚。さらには妊娠が発覚したが、翌1855年、妊娠中毒症のため38歳で死去した。

なお、上記の通り一家のほとんどが短命だったことで知られるブロンテ家にあって、父パトリックだけが例外的に長寿を保った。彼は妻と6人の子供全員を見送った後、1861年に84歳で死去した。