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'''モーリス・メルロー=ポンティ'''(Maurice Merleau-Ponty、[[1908年]][[3月14日]] - [[1961年]][[5月3日]])は、[[フランス]]の[[ロシュフォール (シャラント=マリティーム県)|ロシュフォール]]生まれの[[哲学者]]。主に[[現象学]]の発展に尽くした。[[パリ]]の自宅で執筆中、[[心臓麻痺]]のため死去。著書の日本語訳等においては、「'''モーリス・メルロ=ポンティ'''」、「'''モーリス・メルロ・ポンティ'''」など、Merleauに長音記号を付けない表記が多く用いられている。
 
[[ロシュフォール (シャラント=マリティーム県)|ロシュフォール]]生まれ。[[パリ]]の自宅で執筆中、[[心臓麻痺]]のため死去。
 
== 生涯 ==
[[1908年]][[フランス]]の[[ロシュフォール (シャラント=マリティーム県)|ロシュフォール]]に生まれる。18歳のとき[[高等師範学校 (フランス)|高等師範学校]]に入学し、[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]、[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール|ボーヴォワール]]、[[クロード・レヴィ=ストロース|レヴィ=ストロース]]らと知り合う。21歳のとき[[エトムント・フッサール|フッサール]]の講演を聴講し、現象学に傾注する。以後現象学の立場から身体論を構想する。37歳のとき主著『知覚の現象学』を出版するとともに、サルトルと「[[レ・タン・モデルヌ|レ・タン・モデルヌ(現代)]]」誌を発刊する。戦後は[[パリ大学]]文学部教授となり([[1949年]])、[[児童心理学]]・[[教育学]]を研究する一方、[[冷戦]]激戦化の状況の中、[[マルクス主義]]に幻滅し、サルトルとは決別した<ref>『新訂版 倫理用語集 ソフィエ ~智を学び夢を育む~』235ページ、[[清水書院]]</ref>。
 
メルロ=ポンティは、知覚の主体である身体を主体と客体の両面をもつものとしてとらえ、世界を人間の身体から柔軟に考察することを唱えた。身体から離れて対象を思考するのではなく、身体から生み出された知覚を手がかりに身体そのものと世界を考察した。[[1959年]]、『見えるものと見えないもの』を刊行。[[パリ]]の自宅で執筆中、[[心臓麻痺]]のため[[急逝]]([[1961年]])。
 
== 思想 ==