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== 生涯 ==
[[永正]]6年([[1509年]])に明知遠山氏当主の景成の子として生まれ、[[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])までには、家督を継いでいたようである<ref name=kansei>『寛政重修諸家譜 利仁流遠山2』</ref>。この時代、東美濃においては、土岐[[明智氏]]が盟主有力であったとされるが<ref>『美濃国諸旧記』</ref>、天文21年([[1552年]])土岐明智家で当主の[[明智定明]]が弟の[[明智定衡]]に殺されるという内紛があり(一説に[[斎藤道三]]の陰謀)、その混乱に乗じて、[[御嵩城]]主の[[小栗信濃守]]が、土岐明智氏の居城である[[山城]]を攻略しようとした。その際、景行は[[甲斐国]]の[[武田氏]]の支援を受けて[[小里光忠]]らとともにが反撃し、御嵩城を攻め落とした{{要出典|date=2009年2月}}。以降、景行は、[[小里光忠]] とともに[[武田信玄]]に属し、東美濃の主勢力となった。
 
後に明知遠山氏を含めた遠山氏は、美濃で勢力を拡張する[[織田信長]]に接近する事になる。(後述の異説によると、景行は[[織田信長]]の正室の伯父となり、織田家と結びつく必然性がある。その縁もあったためか、[[織田氏]]と[[武田氏]]が対立してからは、織田氏につくことになった。)[[弘治]]元年([[1555年]])9月には、順調かに見えた[[今川氏]]の三河経略も遠山景行と[[岩村遠山氏]]の支援を受けた[[足助鈴木(鱸)氏]]が蜂起、これに三河加茂郡広瀬の[[三宅高貞]]が同調した他、[[大給松平氏]]の[[松平親乗]]も今川氏に叛旗を翻した。これに対して[[今川義元]]は同月中に遠江衆を動員して親乗討伐に向かわせるが退けられ失敗した。