遠山友政
遠山 友政(とおやま ともまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。美濃国苗木城[3]の城主、苗木藩の初代藩主。遠山友忠の三男(嫡男)。母は織田信長の姪[1][2]で、通称は初めは三郎兵衛と言ったが、後に父と同じ久兵衛に改めた。
中津川市苗木遠山史料館所蔵 | |
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 弘治2年(1556年) |
死没 | 元和5年12月19日(1620年1月23日) |
別名 | 通称:三郎兵衛、久兵衛 |
戒名 | 雲林寺殿心月宗伝居士 |
墓所 | 苗木遠山家廟所 |
官位 | 刑部少輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 織田信長→徳川家康→秀忠 |
藩 | 美濃苗木藩 |
氏族 | 飯羽間遠山氏→苗木遠山氏 |
父母 | 父:遠山友忠、母:織田信長の姪[1][2] |
兄弟 | 友信、友重、友政、勘兵衛、女(山村良勝室) |
妻 | 正室:平井七郎右衛門の娘 |
子 |
秀友、女(生駒利豊室)、女(山村良安室)、 女(加藤順正室)、女(遠山万五郎室)、 女(五十川某室)、女(原某室) |
略歴
弘治2年(1556年)、飯羽間城で生まれる。 元亀3年(1573年)、父遠山友忠に従って明照城に移ったが、その後苗木遠山氏を継いでいた祖父友勝が亡くなったため、父の友忠と共に苗木城に移った。
天正2年(1574年)、武田勝頼が東美濃に侵攻した際に、長兄で飯羽間城主の友信は武田方に内応し、次兄友重は阿寺城が落城の際に討死した。このため三男の友政が苗木遠山氏の家督を継ぐことになった。
天正11年(1583年)、東美濃の覇権を巡って森長可と争い、その降誘を蹴って戦って敗れた。友政は父や家臣をつれて、浜松の徳川家康を頼って落ち延び、菅沼定利の配下に属した。
天正18年(1590年)の小田原征伐後、徳川氏が関東転封となると、榊原康政(あるいは井伊直政[1])に属して、その領地である上野国館林に移住した。この時に苗木遠山氏の遠山弥右衛門景利が榊原康政に仕えて500石を得て舘林に移住した。
慶長5年(1600年)、上杉景勝が命令に従わないとして家康が会津征伐を始めると、石田三成が決起して関ヶ原の役が始まった。この時、東美濃では岩村城主の田丸直昌[4]、苗木城主の河尻秀長、犬地城主の遠藤胤直、また犬山城主で木曽代官も兼務していた石川貞清等は尽く西軍に属した。
徳川秀忠を大将とする東軍が中山道を進軍して来ると知ると、彼らはこれを封鎖しようとしたので、家康は木曾義利[5]の家臣山村良勝・千村良重を木曽へ、友政を苗木へ、明知遠山氏の利景を明知へ、小里光親を小里へ派遣するなどして、故郷に戻って兵を集めて城を攻略するように命じた。
河尻秀長は、家康が東征の際には大坂警衛を命じられて大和口の守備に任務しつつあったが、ついに西軍に属した。苗木城は関盛祥が城代として守っていた。友政は木曾衆の応援を受けて旧領に入ると、従う者は奥田次郎右衛門・遠山次郎左衛門・伊藤五郎左衛門・井口善右衛門・保母清右衛門・小倉猪右衛門・井口與三左衛門等で、次いで陶山茂左衛門、棚橋八兵衛・纐纈藤左衛門・伊藤太兵衛などが次々に付属した。中津川・駒場に放火した上で苗木付近の数百人の領民を諭して味方につけて眞地平に陣を敷いて城に迫り、関盛祥は防戦は無理と見て家臣の大塚将監・犬飼半左衛門・乗竹八右衛門等と共に苗木城を出て上地村を経て去った。友政は18年ぶりに風吹門から入城した。
各々も各城を落として田丸勢を岩村城に包囲したところで、関ヶ原は勝敗が決し、田丸勢も投降した。(東濃の戦い)。
徳川秀忠軍が木曽路を西に向かって進軍した際に沿道の住民は悉く山中に隠れるなどして離散し人がおらず秀忠軍の兵士は食料を得ることができなかった。友政は所々に制札を立てて離散していた住民を家に帰らせて、米、大豆、馬などを秀忠軍に献じ、また大井宿にて秀忠に駿馬を献じた。
結局は秀忠軍は遅参となったが、東美濃衆のこれらの働きは家康からも賞賛され、友政は河尻が没収された1万石をそのまま与えられて、苗木城と恵那郡・加茂郡、1万500石の知行を回復した。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では伊勢国桑名城を守備し、翌年の大坂夏の陣では松平忠明の隊に属して、首級2つの武功を挙げた。
系譜
父母
- 遠山友忠(父)
- 織田信長の姪(母)
正室
- 平井七郎右衛門の娘
子女
脚注
参考文献
- 堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 利仁流遠山」『寛政重修諸家譜』 。
- 大日本人名辞書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本人名辞書』 下、大日本人名辞書刊行会、1926年 。
- 加藤護一 編「国立国会図書館デジタルコレクション 第六篇 戦国時代(近古後期の二)」『恵那郡史』恵那郡教育会、1926年、172, 183-193頁 。