陶弘護

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陶 弘護(すえ ひろもり、康正元年9月3日1455年10月13日)- 文明14年5月27日1482年6月13日))は、室町時代武将大内氏の重臣で、周防筑前守護代家系は帰化氏族多々良氏の流れを汲むという大内氏の傍系、右田氏庶流にあたる陶氏陶弘房の子で、母は仁科盛郷の娘。右田弘詮の兄。正室は益田兼堯の娘。子に武護興明興房、弘宗、弘輔。幼名は鶴寿丸。五郎、尾張守を称する。

陶弘護像(龍豊寺蔵)

陶氏は大内氏の一族であり、代々周防守護代職を務めた。父が応仁の乱応仁2年(1468年)に戦死し、13歳で陶氏当主を継いだ。翌年元服して、当主大内政弘から一字を受けて「弘護」と名乗る。文明2年(1470年)に正式に周防守護代に任じられる。同年、政弘が西軍方として京都に滞陣中、政弘の叔父教幸(道頓)が東軍方の誘いに応じて内藤武盛吉見信頼らと共に留守中の周防で反乱を起こした時には、弘護はこれを鎮圧し、留守居役としての務めを全うした。

文明10年(1478年)には筑前守護代も務めるなど、弘護の大内家での地位は揺るぎないものとも思われたが、同14年(1482年)5月、帰国した政弘が諸将の慰労のために開いた宴席の席上で、弘護は長年敵対関係にあった吉見信頼に刺されて死亡。なお、信頼はその場で内藤弘矩(武盛の弟)に討ち果たされている。以後、この弘矩が大内家で重きをなすことになる。弘護の子達はまだ幼かったので、弘詮が陶家の番代をつとめた。

法名は昌龍院殿建忠孝勲大居士。山口県周南市龍豊寺雪舟筆と伝わる弘護の肖像画がある。

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