高岡御車山祭

富山県高岡市の関野神社の春季例祭

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高岡御車山祭(たかおかみくるまやままつり)は、毎年5月1日に行われる富山県高岡市高岡関野神社の春季例祭で、御車山(みくるまやま)と呼ばれる7基の山車が囃子とともに高岡の旧市街を巡行する。4月30日には宵祭りが行われる。

概要

御車山は、1588年天正16年)に豊臣秀吉聚楽第後陽成天皇の行幸を仰いだ時に使用した御所車前田利家が拝領したものと言い伝えられており、それを加賀藩2代目藩主前田利長1609年慶長14年)に高岡に城を築いて町を開いた際に城下の町民に与え、以来、山町(やまちょう〔山町筋〕)と呼ばれる高岡城下10ヶ町が手を加えながら代々受け継いできたものである。御車山は安土桃山文化の面影を残す優雅な装飾が施されている。装飾金具は江戸時代の名工達の手による作品であり木部も漆工達の優れた作品である。7基が揃って巡行する姿は絢爛豪華であり、町衆のエネルギーを示すものといえる。1991年平成3年)に見つかった高岡市立博物館所蔵の絵図「越中国高岡関野神社祭礼繁昌略図」には1883年明治16年)に鴨島町の大旗を先頭に、獅子、母衣武者行列、神輿、そして7基の御車山の巡行の様子が描かれている。

高岡御車山」7基が1960年昭和35年)6月9日に重要有形民俗文化財[1]に指定され、行事自体は「高岡御車山祭の御車山行事」として1979年(昭和54年)2月3日に重要無形民俗文化財に指定された。また山車の「工芸品」は1967年(昭和42年)富山県指定有形文化財に指定されている。

同一の行事に関連して、国の重要有形民俗文化財および重要無形民俗文化財の両方に指定されているものは全国で5例のみで、高岡御車山祭はその内の1つである。

築山行事

毎年4月23日に高岡市の二上射水神社では築山(つきやま)行事が行われる。この行事は祭神を境内の三本杉の前に作った臨時の築山(祭壇)に迎え入れる行事で、一年の豊作を祈る古代信仰の形態で現在も続けられている。神事が終わると二上山の悪いが暴れるとされるため、築山は大急ぎで解体される。

なお御車山は京都祇園祭の山鉾を模しながら、この築山行事を移動できるように発展させたものと考えられている。またこの行事は富山県でもここ二上射水神社と放生津八幡宮で行われているだけであり、全国的にも珍しい行事で、両神社の築山行事は富山県の無形民俗文化財に指定されている。

山町

山町(山町筋は豊臣秀吉の御所車(山車)を加賀藩2代藩主前田利長より与えられ保有する由緒ある10ヶ町で、土蔵造りの建造物が多く残る町である。山町は利長が高岡城城下町として開町し、利長死後3代藩主前田利常が商工業都市として発展させた町だか、高岡の町では1900年(明治23年)に大火災がおこり、山町(山町筋)の大部分が被災した。その中でも元々あった土蔵造り2軒が焼け残ったため、その後旧北陸道沿いと、その周辺の建物は防火構造の土蔵造りにせよとの富山県の法令によって、旧北陸道沿いの山町(山町筋)に土蔵造りの家屋が多く建てられた。2000年(平成12年)12月4日には、「高岡市山町筋伝統的建造物群保存地区」の名称で国の「重要伝統的建造物群保存地区」として選定されている。

小馬出町の高岡市指定文化財「高岡市土蔵造りのまち資料館(旧 室崎家住宅)」や、木舟町の重要文化財菅野家住宅」では、土蔵造りの商家を一般公開(ともに有料)している。

山車と獅子頭(獅子舞)を保有する10か町

  • 通町(とおりまち)、御馬出町(おんまだしまち)、守山町(もりやままち)、木舟町(きふねまち)、小馬出町(こんまだしまち)、一番街通(いちばんまちどおり)この山車だけが「源平町」「三番町」「一番町」の三町で共有されている。二番町(にばんまち)
  • 坂下町(さかしたまち) 源太夫(げんたい)獅子頭を保有。

母衣宿

昭和前期まで御車山を保有しない9町によって神輿や山車の露払いのため、大旗を先頭に母衣武者行列が行われていたが、現在では6町で祭礼時に設けられる母衣宿に、母衣武者や旗を飾り神輿や山車を迎え入れる形となっている。

獅子舞

坂下町(さかしたまち)

  • 坂下町は山車は保有しないが、山車を先導する源太夫(げんだい)獅子を保有し露払いのため獅子舞を舞う。獅子舞は小さな獅子頭を紋付姿の3人でゆったりと舞うもので、頭を操る人は幕を被らないで操る。獅子頭は1983年(昭和58年)に古くからの言い伝えを元に復元再興されたもので、復元には二上射水神社の築山行事で使用される富山県内最古の獅子頭といわれる源太夫獅子を元としている。前述のとおり1991年(平成3年)には、言い伝えを裏付ける山車を先導した様子を描いた1883年(明治16年)当時の「越中国高岡関野神社祭礼繁昌略図」が見つかった。

山車

高さ約8.4m、長さ2.29m〜2.85m〔前後の轅(ながえ)間5.07m〜5.89m〕の山車は御所車に心柱を立て、心柱の上部には竹籠を付け、その周りに3色の和紙で出来たの花を5個付けた割竹32〜36本を放射状に広げた花傘の鉾山で、花山車とも言われ京都祇園祭の山鋒より由来、伝承されたものであるといわれているが、形態が独特でかなり異なっておりルーツは定かではない。

飾り山(上層)と地山(下層)の2層構造で飾り山には本座といわれる御神体人形)を供え、地山(下層)には幔幕(まんまく)が張られ、この中に囃し方が数人入り囃子を奏でる。山車は高岡の工芸の粋を集めた彫刻漆工彫金、などの装飾を纏い、後部には町名入りの標旗が立てられ、桜の花の送り花が飾られている。また、本座後部に後塀(こうへい)を設けた山車もある。

鉾(心柱)の先端には鉾留が付いており、これは神が山車に供えられている御神体(人形)に降臨するための目印とされている。

車輪は4輪の大八車(外車)様式の輻車(やぐるま[スポーク式])で直径1.60m〜1.67m、車輪にも漆や彫金などが施されている。二番町の山車だけは二輪で2.05mある。富山県内の曳山では大門曳山の枇杷首の曳山とここ二番町だけである。

各山車には鈴棒(りんぼう)引きと二名の役員を先頭に町衆が紋付・袴に麻を着け、頭には一文字笠といういでたちで山車の前後左右に供奉する。なお曳き手・囃し方は山町の人達ではなく近郊の町の人達であり、囃し方は特定の町の人達で受け継がれる世襲制である。また、曳き手の衣装(法被)は中綿が入った厚手のもので、各町意匠を凝らした模様が染められている。

1904年(明治37年)まで隔年で提灯山を出していたが、町に電線が引かれる様になりそれ以降中止された。

富山県内で最も早く創建された御車山の山車様式は、のちに富山県西部の各地で創建された曳山に影響を与え、今日も御車山様式の曳山が多く現存している。放生津〔新湊〕・海老江伏木〔けんか山〕・石動大門福野〔夜高祭〕・氷見〔祇園祭〕)

通町(とおりまち)

  • 鉾留 鳥兜
  • 本座 布袋和尚
  • 相座 カラクリを施した唐子人形5体。中央の1体が回転棒を握りでんぐり返しをする。
  • 幔幕 白羅紗地剣梅鉢紋 本金糸刺繍
  • 囃子 越天楽・青海波(囃し方・二塚)
通町御車山交流館
通町の山車に関する資料や御車山祭の紹介、組み立て作業の紹介パネル、現在使われなくなった車軸などを展示している。2009年(平成21年)12月27日に開館した。土曜・日曜、祝日の午前9時から午後5時まで開館[2]

御馬出町(おんまだしまち)

  • 鉾留 胡籙(やなぐい)に弓矢
  • 本座 佐野源左衛門
  • 幔幕 仙境図綴錦織
  • 囃子 慶雲楽(囃し方・江尻)
    • 本座人形の前にはの鉢と木が飾られている。

守山町(もりやままち)

  • 鉾留 五鈷鈴(ごこれい)
  • 本座 恵比須
  • 幔幕 緋羅紗地暈繝波濤模様 絹糸刺繍一部金糸隈取
  • 囃子 振舞(囃し方・石塚)

木舟町(きふねまち)

  • 鉾留 胡蝶(こちょう)
  • 本座 大黒天
  • 相座 カラクリを施した唐子人形1体。太鼓を叩く。
  • 幔幕 朱地綴織宝珠模様刺繍
  • 囃子 胡蝶(囃し方・横田)

小馬出町(こんまだしまち)

  • 鉾留 太鼓に鶏
  • 本座 猩々(しょうじょう)
  • 相座 カラクリを施した猿人形1体。太鼓を叩きながら下顎を動かし、頭を前・左右に振る。
  • 幔幕 春秋舞楽図綴織
  • 囃子 迦陵頻(囃し方・米島)

一番街通(いちばんまちどおり)

  • 鉾留 釣鐘
  • 本座 尉(じょう)と姥(うば)
  • 幔幕 朱地綴織剣梅鉢紋 本金糸刺繍
  • 囃子 桃李花(囃し方・萩布)
    • 本座人形の前には「相生の松」が飾られている。

二番町(にばんまち)

  • 鉾留
  • 本座 千枚分銅(唯一人形ではない)
  • 唐垣地幕 緋羅紗地剣梅鉢紋 本金糸刺繍
  • 囃子 還城楽(囃し方・枇杷首)

津幡屋与四兵衛と安永の曳山車騒動

安永の曳山車騒動は、その後の富山県内各地の曳山祭りならびに曳山の発展に大きな影響を与えた事件であるが、二番町の若者頭であった津幡屋与四兵衛は、高岡では御車山の由緒と格式を守った義人である。御車山は豊臣秀吉が使用した御所車を前田家より拝領し山車へ改造した特別な由緒正しい山車とされるため、高岡側は1762年宝暦12年)近隣の町が同じような大八車(外車)様式の輻車(やぐるま[スポーク式])の曳山を曳こうとしていたところを加賀藩に抗議し中止を認められ、それ以降同じ様な山車を曳き回す事は認めない事を取り付けていた。しかし1774年安永3年)に近郊の町城端今石動〔石動〕放生津〔新湊〕が類似した山車を製作したため説得し差し止めを行った。だが放生津だけはこの騒動以前より曳山が曳けない状態だったこともありなかなか解決せず、祭の当日は一時的な対処として車輪に板を張付けて曳き回す事になった。しかし与四兵衛とその一行が見物に出掛けたところ、実際は板を付けていなかったので抗議したが、放生津側は「曳き回しの途中で板が外れたが、それをもう一度取り付けろとは指示されていない」と主張、与四兵衛側は「板を付けないで曳き廻すことはならぬ。もう一度取り付けろ」、放生津側は「付け直す必要は無い」と口論になり、やがて与四兵衛達が鳶口などを振り回すなど騒動を起し来町中の魚津の役人に捕まり投獄された。

与四兵衛は投獄後も高岡側の主張を繰り返していたが拷問を受け衰弱して獄死した。しかし与四兵衛の死後、1776年(安永5年)には高岡側の主張が通り、その後明治の初め頃まで越中では、他町の曳山は大八車(外車)使用が認められず地車(内車)の曳山のみが認められることになった。そのため現在富山県内に現存する曳山の殆んどが大八車(外車)様式の輻車(やぐるま)または板車だが、内車から外車に変更されたのは明治時代になってからであり、各地の曳山は騒動後、曳山の塗り(漆)、彫り物、金具など装飾の充実に力を注ぐこととなり、県内には絢爛豪華な曳山が揃うこととなった。

津幡屋与四兵衛は御車山の威厳を守った安永の義人として「弥眞進大人命(まごころいやすすめうしのみこと)」と崇められ、関野神社にを作り毎年4月3日に与四兵衛祭を執り行なうとともに、この日にその年の御車山祭の詳細も決めている。また二番町の与四兵衛生家跡には1991年(平成3年)に石碑が建てられ、5月1日の祭礼当日は石碑に供物を供え、すべての山車がその前で止まり詣でる。

なお後にこの判決には、「今日も御車山の由緒を守り伝承されてきた事に、先人達に感謝する」とする高岡側と、判決によって大八車(外車)様式の車輪が今後使用できなくなったうえに、取り調べを受け入牢した者がいたり、曳山祭り自体がしばらく中止に追い込まれたり(今石動)、曳山や車輪を没収されたり(城端・放生津)したことなどから、放生津や城端などの騒動に巻き込まれた町では、「歯切れの悪い結果」、「御車山祭が始まった経緯などから、為政者が藩の威厳を守るため勝手な論理を持ち込み、他の曳山の追随を認めたくなかった高岡側を擁護した」と厳しい論評をするなど、判決の評論には大きな相違がみられる。

主な日程

宵祭(4月30日)

4月29日(祝日)または30日に関野神社脇に作られた山蔵から曳き出された山車は山宿前に運ばれ、30日の夜最終の飾り付けの後午後6時半から7時にかけて入魂式など修祓(しゅうばつ)神事が行われる。また午後6時半より9時まで山車がライトアップされ曳山囃子の披露や調度品の展示、スタンプラリーなどが行われる。 各山宿前では御神酒の振舞、神饌の配布など町内ごとにもてなしが行われる。動く文化財の細部の鑑賞はこの宵祭が一番好都合である。

本祭(5月1日)

各山車は早朝から山車の組み立てを開始し、出発時に修祓(しゅばつ)神事のあと午前10時ごろに自町を曳き廻し、坂下町に午前11時に勢揃いし11時20分に出発する。 御車山巡行の一番山は毎年の慣例により通町の山車である。 午後12時には片原町交差点に7基が横一列に勢ぞろいし、保存会長が挨拶し市長の答礼を受ける。その後も各山町内を夕方の高岡関野神社への曳納まで厳かに奉曳される。

巡行コース・巡行時間は当日の天候によって変更となる場合がある。雨天の場合は原則的に中止になるが、その場合でも雨天対策用のテントに収納された御車山の華麗な姿は見学することができる。

御車山特別巡行

  • 2009年(平成21年)9月13日、高岡開町400年を記念して「高岡開町まつり」が開催され、山町筋を中心に御車山の特別巡行が行われた。

高岡御車山会館の建設予定と平成の御車山

高岡市は北陸新幹線開業予定の2015年(平成27年)春を目処に守山町と利屋町にまたがる敷地面積2051㎡の建設予定地に、鉄筋コンクリート造り2階建て一部3階建ての高岡御車山会館の完成を目指し2013年(平成25年)10月に着工する。総工費は約23億円[3]

これまで市は2009年(平成21年)に建設地を決定し同年に建設計画策定委員会を組織して、高岡御車山保存会側へ実物の山車と、新たに制作するレプリカの山車(平成の御車山)2基を展示したい意向で協議を続けていたが、保存会側が冬季間の組立場所の確保や展示中の山車のダメージ問題などを指摘し、実物の展示期間の合意には至らなかった経緯があるが、2011年(平成23年)6月に高岡市が国の歴史まちづくり法による歴史都市に認定されたこともあり、同年7月1日に組立場所の確保や維持管理への配慮などを市に求めることで全7基を交代で通年展示することに努めることで合意した。市は保存会の意向を尊重し平成の御車山制作検討委員会を月内に設置、会館の基本設計などの協議に入ることとなった[4]

平成の御車山はアレンジを加えつつ7基の山車の特徴を融合して造ることとなった。車輪は4輪とし鉾留や本座人形、幔幕などについてのデザインも話し合われ製作総費用は2億2千万~5千万と試算された。2012年の2月までに全体デザイン案を複数作成し同年夏には決定の予定で[5]、2012年3月には山車の基本デザイン3案が示され、3月15日から4月15日まで高岡市役所高岡駅など市内28ヶ所で、また郵送やFAX、メールで意見を募集し、結果を踏まえ協議の上デザインを決定し5月1日の祭礼当日正式発表された[6]。 決定した基本デザインは、鉾留は鳳凰、本座は前田利長と正室の永姫、相座が実の娘である満姫、幔幕は前後左右の4面で高岡古城公園の四季を表現する。なおこの山車のテーマは「平和な時代 豊かなまち高岡を象徴する 前田利長公の家族」とし、サブテーマは「家族の絆」で、今後細部の装飾やデザインの詳細を詰めて行くこととなった[7]

その他

  • 御車山巡行のために路面電車架線を一時撤去するという全国でも大変珍しい光景が見られる。祭礼当日、御車山を通すため高岡の中心市街地を走る路面電車万葉線の架線を、巡行路にあたる坂下町交差点から片原町交差点間で外し、巡行後に架け直す処置をとる。架線を架ける際、電車の上での点検作業なども見ることができる。また当日は急患医療センター前停留場から高岡駅停留場間は期間(時間)運休となる。
  • 山町筋では2012年(平成24年)に、大正時代から昭和初期まで御車山祭時に各家庭の前に提灯を吊るしていた提灯台を復元し90台制作した。今も残る台を参考に高さ3.6mの木製の棒の上部に三角屋根(かさ)をつけたもので、同年3月に完了した山町筋の無電柱化工事に合せ、提灯台の棒を差し込む穴を各家庭前の路上に設けたことにあわせ、「土蔵造りのある山町筋まちづくり協議会」が高岡市や県の補助を受け制作に至った。今後御車山祭や土蔵造りフェスタなどで使用する。提灯台は1913年大正2年)の高岡開町300年に合せ作られたとされ、その後御車山祭で昭和初期まで使用されていたがその後使用されなくなり、提灯は各家庭の玄関先に吊るすなどしていた[8][9][10]

関連項目

参考文献

  • 『高岡御車山』(高岡市教育委員会)平成12年3月31日発行
  • 『富山県の曳山』(富山県教育委員会)昭和51年3月発行
  • 『加越能の曳山』(著者 宇野通)能登印刷出版部 平成9年8月20日発行
  • 『新湊の曳山』(新湊市教育委員会)昭和56年10月発行
  • 『城端曳山史』(城端町曳山史編纂委員会編)昭和53年5月15日発行
  • 『路面電車EX 2013 vol.02』(イカロス出版)平成13年11月20日発行

脚注

  1. ^ 指定当時は「重要民俗資料」。1975年(昭和50年)の文化財保護法改正により「重要有形民俗文化財」となる。
  2. ^ 御車山交流館が開館 高岡・通町北日本新聞 2009年12月27日
  3. ^ 「豪華な山車通年展示へ 高岡御車山会館 工事安全祈願祭」北日本新聞 2011年10月8日19面
  4. ^ 「高岡御車山会館 保存会合意14年度完成へ」北日本新聞 2011年7月2日1面
  5. ^ 「平成の御車山制作検討委員会 デザインを協議」北日本新聞 2011年11月29日27面
  6. ^ 「高岡平成の御車山デザイン3案の意見募る」北日本新聞 2012年3月14日24面
  7. ^ 「平成の御車山『本座』は利長と永姫 高岡デザインの方向決定」北日本新聞 2012年4月19日1面
  8. ^ http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20120502201.htm/ 北國新聞web 2012年5月2日
  9. ^ http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20120126205.htm/ 北國新聞web 2012年1月26日
  10. ^ http://webun.jp/news/A100/knpnews/20110927/46235/ 北日本新聞webun 2011年9月27日

外部リンク