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{{Otheruses|集団としての蝦夷}}
[[File:Monument to Aterui and More2.jpg|thumb|right|[[アテルイ]]、モレの顕彰碑<br>([[京都市]][[清水寺]])]]
 
'''蝦夷'''(えみし、えびす、えぞ)は、[[ヤマト王権|大和朝廷]]から続く歴代の中央政権から見て、[[日本列島]]の[[東国]](現在の[[関東地方]]と[[東北地方]])や、北方(現在の[[北海道]]、[[千島列島]]、[[樺太]])などに住む人々の呼称である<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-kyodokan/files/2010-0604-1449.pdf|title=「エミシ」と「エゾ」|accessdate=2021/04/05|publisher=青森県立郷土館}}</ref>。
 
大きく、「エミシ(蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。
 
大和朝廷の支配に服した東国の蝦夷(エミシ)は、[[俘囚]]と呼ばれ、他地域へ移住させられることがあった。
 
== 語源と用字 ==
蝦夷は古くは'''愛瀰詩'''と書き([[神武東征|神武東征]])、次に'''毛人'''と表され、ともに「えみし」と読んだ。後に「えびす」とも呼ばれ、「えみし」からの転訛と言われる{{Sfn|高橋|1974|p=33}}。「えぞ」が使われ始めたのは11世紀か12世紀である{{sfnm|高橋|1986|1pp=25-26|工藤|2001|2p=26}}。
 
えみし、毛人・蝦夷の語源については、以下に紹介する様々な説が唱えられているものの、いずれも確たる証拠はないが、エミシ(愛瀰詩)の初見は神武東征であり、[[神武天皇]]によって滅ぼされた畿内の先住勢力とされている。「蝦夷」表記の初出は、[[日本書紀]]の[[景行天皇]]条である。そこでは、[[武内宿禰]]が北陸及び東方諸国を視察して、「[[東夷|東の夷]]の中に、[[日高見国]]有り。その国の人、男女並に椎結け身を文(もどろ)けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と述べており、5世紀頃とされる景行期には、蝦夷が現在の東北地方だけではなく関東地方を含む広く東方にいたこと、蝦夷は「身を文けて」つまり、[[邪馬台国]]の人々と同じく、[[入れ墨]](文身)をしていたことが分かっている。
 
古歌で「えみしを 一人 百な人 人は言へども 手向かいもせず」(えみしは一人で百人と人は言うが、我が軍には手向かいもしない)<ref>『日本書紀』神武天皇即位前紀。</ref> と歌われたこと、[[蘇我蝦夷]]、[[小野毛人]]、[[佐伯今毛人]]、[[鴨蝦夷]]のように大和朝廷側の貴族の名に使われたこと、[[平安時代#平安後期|平安時代後期]]には権威付けのために蝦夷との関連性を主張する[[豪族]]([[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]や[[出羽清原氏|清原氏]])が登場していることから、「えみし」には強さや勇敢さという語感があったと推測されている{{Sfnm|高橋|1974|1p=23|高橋|1969|2p=49|工藤|2001|3p=33}}。そこから、直接その意味で用いられた用例はないものの、本来の意味は「田舎の(辺境の)[[勇者]]」といったものではないかという推測もある{{Sfnm|高橋|1974|1p=23|高橋|1969|2pp=49-50}}。
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他方で[[アイヌ語]]に語源があると考えた[[金田一京助]]は、アイヌ語の雅語に人を「エンチュ (enchu, enchiu)」というのが、日本語で「えみし」になったか、あるいはアイヌ語の古い形が「えみし」であったと説いた{{Sfn|金田一|2004|pp=64-65, 110-116, 126}}。
 
文献的に最古の例は毛人で、5世紀の[[倭王武]]から[[宋 (南朝)|宋]]への上表文に「東に毛人を征すること五十五国。西に衆夷を服せしむこと六十六国」とある。蝦夷の字をあてたのは、[[斉明天皇]]5年([[659年]])の[[遣唐使]]派遣の頃ではないかと言われる{{Sfnm|高橋|1974|1pp=27-28|高橋|1969|2pp=52-53}}。後代に人名に使う場合、ほとんど毛人の字を使った。[[蘇我蝦夷]]は『[[日本書紀]]』では蝦夷だが、『[[上宮聖徳法王帝説]]』では蘇我豊浦毛人と書かれている。毛人の毛が何を指しているかについても諸説あるが、一つは体毛が多いことをいったのだとして、後の[[アイヌ]]との関連性をみる説である。また、中国の地理書『[[山海経]]』に出てくる毛民国を意識して、中華の辺境を表すように字を選んだという説もある<ref>『山海経』第9海外東経(平凡社ライブラリー 132-133頁)。{{Full citation needed |date=2019-06-03 |title=刊行年、訳者など不明。}}</ref>{{Sfn|工藤|2001|pp=46-47}}。
 
人名に使った場合であっても、[[佐伯今毛人]]が勤務評定で今蝦夷(正確には夷の字に虫偏がつく'''蛦''')と書かれた例がある{{Sfn|高橋|1986|p=16}}。蝦夷の蝦の字については、あごひげが長いのをエビに見たてて付けたのだとする説がある{{Sfn|高橋|1974|pp=32-33}}。夷の字を分解すると「弓人」、上代日本語で(ユミシ)になり、これが蝦夷の特徴なのだという説もある{{Sfnm|高橋|1974|1pp=32-33|高橋|1969|2p=50}}。
 
[[喜田貞吉]]は、意味ではなく音「かい」が蝦夷の自称民族名だった<ref>松浦武四郎『天塩日記』</ref>のではないかと説いた。アイヌ人はモンゴル人など中国東北部の民族からは「骨嵬(クギ、クイ)」、ロシア人からは「[[千島アイヌ|クリル]]」と呼ばれた。[[千島列島]]のロシア語名はクリル諸島である。斉明天皇5年の遣使の際に、聞き取った唐人が蝦夷の字をあて、それを日本が踏襲したという{{efn2|高橋崇は蝦夷の自称とは言わないが、中国側が呼んだものとしてこの説に傾く{{sfn|高橋|1986|pp=20-21}}。}}。平安初期の「[[日本書紀私記|弘仁私記]]」の序文には、蝦夷に「カイ」とルビをふっている。平安末期の「[[伊呂波字類抄]]」にも、カイの条に「蝦夷」とある<ref>正宗敦夫編『[{{NDLDC|1912551/64}} 日本古典全集 伊呂波字類抄 第三]』、昭和3年</ref>。[[秋田藩]]の藩士であった[[人見蕉雨]]によって[[1798年]](寛政10年)頃に著された黒甜瑣語には、蝦夷(夷は大と弓の上下の合字になっている)のルビを「かい」としている。そこでは「[[ダケカンバ]]と思える植物をタッチラと唱える」という記述からも、これがアイヌの事を指している事がわかる<ref>人見蕉雨『[{{NDLDC|898467/15}} 黒甜瑣語. 第3編]』、人見寛吉、明治29年</ref>。明治政府は[[開拓使]]の設置に伴い蝦夷地の名称の変更を検討。[[1869年]](明治2年)蝦夷地探査やアイヌとの交流を続けていた[[松浦武四郎]]は政府に建白書を提出し、「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6案を提示した<ref name="faq02">{{Cite web |和書|url=http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/mnj/d/faq/faq02.htm|title=北海道の名前について|publisher=北海道立文書館|accessdate=2020-01-20}}</ref>。明治政府は「北加伊道」を基本とし「加伊」を「海」に改めた「'''北海道'''」とすることを決定<ref name="faq02" />。明治2年8月15日太政官布告により「蝦夷地自今北海道ト被稱 十一ヶ国ニ分割國名郡名等別紙之通被 仰出候事」と周知された<ref name="faq02" />。松浦は建白書において「北加伊道」案はアイヌが自らを「カイ」と呼んでいることから考案したと説明している<ref name="faq02" />。[[青森県]]の伝承を集めた[[中道等]]の『奥隅奇譚』では「蝦夷崎」のルビを「かいざき」としている<ref>中道等『[{{NDLDC|1464158/11}} 奥隅奇譚]』、郷土研究社、昭和4年、p.3</ref>。
 
金田一京助は喜田らの説を批判し、「えび」の古い日本語「えみ」が「えみし」に通じるとして付けたとする説を唱えた{{Sfn|金田一|2004|pp=116, 127}}{{efn2|工藤雅樹もこれを支持する{{Sfn|工藤|2001|pp=117-118}}。}}。
 
諸説ある中で唯一定まっているのは、「夷」が東の異民族([[東夷]])を指す字で、[[中華思想]]を日本中心にあてはめたものだということである。「夷」単独なら『古事記』などにも普通にあるが、その場合古訓で「ひな」と読む。多くの学者は用字の変化を異族への蔑視の表れとし、[[蘇我蝦夷|蘇我毛人]]を蘇我蝦夷としたのも『日本書紀』編者が彼を卑しめたものとする{{Sfn|高橋|1969|p=53}}。だが、佐伯今毛人や[[小野毛人]]の例を引いてこれに反対する意見もある{{Sfn|高橋|1986|pp=22-24}}。
 
用字については、『日本書紀』では蝦夷の夷の字に[[むしへん|虫偏]]をつけた箇所も散見される{{Sfn|高橋|1986|ps=(81例中14)|pp=12-13}}。蝦夷の字の使用とほぼ同じ頃から、北の異民族を現す「狄」の字も使われた。「'''蝦狄'''」と書いて「えみし」と読んだらしい。毛人と結合して「毛狄」と書かれた例もある<ref>『日本後紀』延暦16年2月己巳(13日)条。</ref>。一字で「夷」と「狄」を使い分けることもよくあった。これは管轄する国([[令制国]])による人工的区分で、[[越後国]](後に[[出羽国]])所轄の日本海側と北海道のえみしを'''<u>蝦狄・狄</u>'''、[[陸奥国]]所轄の太平洋側のえみしを'''<u>蝦夷・夷</u>'''としたのである{{sfn|熊田|1986|pp=162-165}}。
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古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した<ref name=":0" />。統一した政治勢力をなさず、積極的に朝廷に接近する集団や敵対した集団が記録に残っている。しかし、次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていった。
 
「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。蝦夷に統一な[[自己同一性|アイデンティティー]]は無かったと解するか、朝廷側との交渉の中で民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。
 
=== 歴史 ===
==== 弥生時代 ====
概ね[[関東地方]]から[[東北地方]]、[[北海道]]にかけて、広く日本列島の東方に住んでいたと考えられている。
蝦夷「えみし」についての形式上最も古い言及は『[[日本書紀]]』[[神武東征]]紀中に詠まれている[[久米歌|来目歌]]の一つに'''愛濔詩'''として登場する。
: '' '''えみし'''を ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず''
: ''(訳:''えみし''を、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった)''
:: 「愛瀰詩烏 <span style="text-decoration:underline;">毗</span><span style="text-decoration:underline;">儾</span>利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽<span style="text-decoration:underline;">毗</span>毛勢儒」<ref group="注">下線部「「<span style="text-decoration:underline;">毗</span>」は[[田部 (部首)|田へん]]に「比」の一文字、「<span style="text-decoration:underline;">儾</span>」は「{{lang|zh|亻}}」([[人部|にんべん]])に「嚢」の一文字。</ref>
しかし、この来目歌がどの程度史実を反映するものかどうかは判然とせず、またここで登場する「'''えみし'''」が後の「'''蝦夷'''」を意味するかどうかも判然としないため、古い時代の蝦夷の民族的性格や居住範囲については諸説があり確かなことはわかっていない。概ね[[関東地方]]から[[東北地方]]、[[北海道]]にかけて、広く日本列島の東方に住んでいたと考えられている。
 
[[東北地方]]北部へも水田・稲作が一時的に伝わったが放棄され、狩猟・採集文化が伝統として続いた。
 
==== 古墳時代 ====
[[5世紀]]の中国の歴史書『[[宋書]]』倭国伝に、[[478年]]([[順帝 (南朝宋)|順帝]][[昇明]]2年)倭王武が[[宋 (南朝)]]に届けた上表文として以下の記述がある。
 
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これにより既にこの時代には蝦夷の存在とその支配が進んでいた様子を確認することが出来る。
 
蝦夷は、その優れた[[弓術]](和人の伝統の[[長弓]]に比べると[[短弓]]を用いた)に、[[ウマ|馬]](古墳時代に日本へもたらされた[[ウマ|馬]]を和人から取り入れ組合せ、飛鳥時代・奈良時代には[[騎射]]の技を磨き狩猟に用いた<ref>蝦夷は、[[倭・高句麗戦争]]直後から日本へもたらされた[[ウマ|馬]]および[[騎射]]の技を、和人よりも高度に習得し磨いた。</ref>。また同時に、騎乗武器([[蕨手刀]]を和人から取り入れた)改良・発達させた。これらの強力な戦闘術は奈良時代・平安時代に和人へ取り入られた。
『[[日本書紀]]』[[景行天皇]]条には、[[武内宿禰]]が北陸及び東方諸国を視察した際の記述とし「[[東夷|東の夷]](あずまえびす)の中に、[[日高見]]国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という」とあり、荒々しく勇猛な者、情を理解せず教養や文化に欠ける者としている。40年条には、天皇が[[日本武尊]]に[[東夷]]の征討を命じる際、蝦夷の特徴として「冬は穴居、夏は樹上家屋の生活」「山に登るときは飛ぶ鳥のように速く、草原を走るときは逃げる獣のように速い」「束ねた髪の中に矢を隠し、刀は衣の中に隠し持つ」「攻撃すると草原に隠れてしまい、追いかけると山中に逃げてしまう」と記述がある。
 
===== 古墳の分布 =====
蝦夷は、その優れた[[弓術]](和人の伝統の[[長弓]]に比べると[[短弓]]を用いた)に、古墳時代に日本へもたらされた[[ウマ|馬]]を和人から取り入れ組合せ、飛鳥時代・奈良時代には[[騎射]]の技を磨き狩猟に用いた<ref>蝦夷は、[[倭・高句麗戦争]]直後から日本へもたらされた[[ウマ|馬]]および[[騎射]]の技を、和人よりも高度に習得し磨いた。</ref>。また騎乗武器([[蕨手刀]]を和人から取り入れた)を改良・発達させた。
 
=====古墳の分布=====
古墳の分布は和人文化の範囲を示し、蝦夷との境界が北限となる。これまでの発掘調査により、[[古墳時代]]前期における最古級の[[前方後円墳]]の北限は、現在の[[新潟県]]・[[越後平野]]中部、[[福島県]]・[[会津盆地]]、[[宮城県]]・[[仙台平野]]であったと考えられている。同時代の終末期までに北限は、日本海側沿岸ではほとんど北進せずむしろ[[中越地方]]に後退するが、日本海側内陸では[[山形県]]・[[村山地方]]中部まで、太平洋側では[[岩手県]]・[[北上盆地]]南部まで北進した。
 
{|class="wikitable"
|+[[前方後円墳]]の北限<ref>{{citeCite web |和書|format=PDF |author=滝沢規朗 |url=http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/864/789/H25-1300kirokusyu-3t.pdf |title=概説2 新潟県の弥生時代後期~古墳時代前期 |publisher=[[新潟県]] |accessdate=2019-06-02}}</ref><ref>{{citeCite web |和書|format=PDF |url=http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/913/677/H25-1300kirokusyu-9k.pdf |title=概説3 新潟県の古墳時代中期~後期 |author=春日真実 |publisher=新潟県 |accessdate=2019-06-02}}</ref><ref>{{citeCite web |和書|format=PDF |url=http://www.lib.niigata-u.ac.jp/Zuroku/63-112.pdf|title=Ⅱ-2 考古学 |publisher=[[新潟大学]]附属図書館 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160306040511/http://www.lib.niigata-u.ac.jp/Zuroku/63-112.pdf |archivedate=2016-03-06 |accessdate=2019-06-02}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.city.niigata.lg.jp/kanko/rekishi/maibun/kuni_furutsuhachiman/seminar/sinpojiumu.files/kinenkouen2.pdf 記念講演2「東北からみた古津八幡山古墳」 菊地芳朗(福島大学)]}}{{リンク切れ|date=2019-06-02}}, {{Cite web |和書|url=http://www.city.niigata.lg.jp/kanko/rekishi/maibun/kuni_furutsuhachiman/seminar/sinpojiumu.html |title=シンポジウム「蒲原平野の王墓古津八幡山古墳を考える‐1600年の時を越えて‐」を開催しました |publisher=新潟市 |archiveurl=https://archive.is/QgmO3 |archivedate=2014-10-19 |accessdate=2019-06-02}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=藤澤敦 |title=小規模墳の消長に基づく古墳時代政治・社会構造の研究 |issue=平成15年度-平成17年度科学研究費補助金(基盤研究(C))研究成果報告書,課題番号:15520473 |date=2006-03 |url=https://hdl.handle.net/10097/39724 |accessdate=2021-10-01}}</ref>
!rowspan="3"|<br />
!colspan="3"|日本海側
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!最北端
|align="center" rowspan="3" |なし
|[[菖蒲塚古墳]]({{Coord|37|46|3.7|N|138|51|57.5|E|region:JP|name=菖蒲塚古墳(4世紀後半)}})<ref name="Ayamezuka">{{Cite web |和書|url=http://www.city.niigata.lg.jp/kanko/rekishi/maizobunka/shiseki/ayameduka.html |title=国指定史跡 菖蒲塚古墳 |publisher=新潟市 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170324103922/http://www.city.niigata.lg.jp/kanko/rekishi/maizobunka/shiseki/ayameduka.html |archivedate=2017-03-24 |accessdate=2019-06-02}}</ref>
|[[坊主窪古墳群]]第1号墳<br />({{Coord|38|18|40.9|N|140|15|10.5|E|region:JP|name=坊主窪古墳群第1号墳(6世紀後半)}})<ref>{{citeCite web |和書|format=PDF |url=http://www.town.yamanobe.yamagata.jp/yakuba/05_chiiki/pdf/200607.pdf |title=山辺 歴史散歩 第293話 |publisher=山辺町 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141025052631/http://www.town.yamanobe.yamagata.jp/yakuba/05_chiiki/pdf/200607.pdf |archivedate=2014-10-25 |accessdate=2019-06-02}}</ref>
|[[角塚古墳]]({{Coord|39|8|29.2|N|141|5|37.4|E|region:JP|name=角塚古墳(5世紀後半)}})<ref>{{Cite web |和書|url=http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/bp6 |title=胆沢のクニの始まり |website= いわての文化情報大事典 |publisher=岩手県 |accessdate=2019-06-02}}</ref>
|-
!最大
|菖蒲塚古墳({{Coord|37|46|3.7|N|138|51|57.5|E|region:JP|name=菖蒲塚古墳(全長:53m)}})<br />全長:53m<!--新潟県最大--><ref name="Ayamezuka"/>
|[[亀ヶ森・鎮守森古墳|亀ヶ森古墳]]({{Coord|37|35|34.8|N|139|49|44.8|E|region:JP|name=亀ヶ森古墳(全長:127m)}})<br />全長:127m<!--福島県および山形県最大--><ref>{{Cite web |和書|url=http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2014/pdf/no04_03.pdf |format=PDF|title=福島県喜多方市 灰塚山古墳第3次発掘調査報告 |publisher=[[東北学院大学]] |accessdate=2019-06-02}}</ref><ref>{{Cite web |和書|url=https://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/river/enc/material/hearing/pdf/inf17_03.pdf |format=PDF|title= 最上川流域における古墳の出現と展開 |author=川崎利夫 |publisher=国土交通省東北整備局山形河川国道事務所 |accessdate=2019-06-02}}</ref>
|[[雷神山古墳]]({{Coord|38|9|4.1|N|140|52|46.9|E|region:JP|name=雷神山古墳(全長:168m)}})<br />全長:168m<!--東北地方最大--><ref>{{Cite journal|和書|author=大塚初重 |title=東北日本における古墳文化の成立と展開:とくに福島・宮城・山形県を中心として |journal=駿台史学 |ISSN=05625955 |publisher=駿台史学会 |date=1986-03 |volume=67 |pages=90-118 |naid=120001442149 |url=https://hdl.handle.net/10291/6067}}</ref>
|-
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{{座標一覧}}
 
====飛鳥時代 神武東征伝説 ====
蝦夷「えみし」についての形式上最も古い言及は『[[日本書紀]]』[[神武東征]]紀中に詠まれている[[久米歌|来目歌]]の一つに'''愛濔詩'''として登場する。
[[飛鳥時代]]([[7世紀]])頃には、蝦夷は現在の[[宮城県]]中部から[[山形県]]以北の[[東北地方]]と、[[北海道 (地方公共団体)|北海道]]の大部分に及ぶ広範囲に住んでいた。平時には和人と交易を行い、[[コンブ|昆布]]・[[ウマ|馬]]・[[毛皮]]・羽根などの特産物と引き換えに、[[米]]・[[布]]・鉄器・工芸品を得ていた。大和政権が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、また和人の築いた[[城柵]]を襲撃したため、[[日本書紀]]には襲撃や討伐の記録が記録されている。大和に帰順した蝦夷の集団は[[俘囚]]と呼ばれ、関東地方へ移住させられたり、西日本で兵隊集団を勤めるなどした。
: '' '''えみし'''を ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず''
: ''(訳:''えみし''を、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった)''
:: 「愛瀰詩烏 <span style="text-decoration:underline;">毗</span><span style="text-decoration:underline;">儾</span>利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽<span style="text-decoration:underline;">毗</span>毛勢儒」<ref group="注">下線部「「<span style="text-decoration:underline;">毗</span>」は[[田部 (部首)|田へん]]に「比」の一文字、「<span style="text-decoration:underline;">儾</span>」は「{{lang|zh|亻}}」([[人部|にんべん]])に「嚢」の一文字。</ref>
しかし、この来目歌がどの程度史実を反映するものかどうかは判然とせず、またここで登場する「'''えみし'''」が後の「'''蝦夷'''」を意味するかどうかも判然としないため、古い時代の蝦夷の民族的性格や居住範囲については諸説があり確かなことはわかっていない。概ね[[関東地方]]から[[東北地方]]、[[北海道]]にかけて、広く日本列島の東方に住んでいたと考えられている
 
『[[日本書紀]]』[[景行天皇]]条には、[[武内宿禰]](実在不明)が北陸及び東方諸国を視察した際の記述とし「[[東夷|東の夷]](あずまえびす)の中に、[[日高見]]国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という」とあり、荒々しく勇猛な者、情を理解せず教養や文化に欠ける者としている。40年条には、天皇が[[日本武尊]]に[[東夷]]の征討を命じる際、蝦夷の特徴として「冬は穴居、夏は樹上家屋の生活」「山に登るときは飛ぶ鳥のように速く、草原を走るときは逃げる獣のように速い」「束ねた髪の中に矢を隠し、刀は衣の中に隠し持つ」「攻撃すると草原に隠れてしまい、追いかけると山中に逃げてしまう」と記述がある。
 
==== 飛鳥時代 ====
[[飛鳥時代]]([[7世紀]])頃には、蝦夷は現在の[[宮城県]]中部から[[山形県]]以北の[[東北地方]]と、[[北海道 (地方公共団体)|北海道]]の大部分に及ぶ広範囲に住んでいた。平時には和人と交易を行い、[[コンブ|昆布]]・[[ウマ|馬]]・[[毛皮]]・羽根などの特産物と引き換えに、[[米]]・[[布]]・鉄器・工芸品を得ていた。大和政権が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、また和人の築いた[[城柵]]を襲撃したため、[[日本書紀]]には襲撃や討伐の記録が記録されている。大和に帰順した蝦夷の集団は[[俘囚]]と呼ばれ、関東地方などへ移住させられたり、西日本で兵隊集団を勤めるなどした。
 
蝦夷と接する地域([[陸奥国]]・[[出羽国]]・[[越後国]])では、国内の行政・司法・軍事を管掌する[[国司]]の守と介が饗給(慰撫)、征討、斥候などの外交・軍事も担当していた。特に陸奥国は面積が広く軍事的衝突が頻繁におきるため、[[陸奥国司]]には[[大宝律令]]が定める特例が多く、自らの判断で征討に出ることも許されていた。なお同じ辺境でも[[西国]]の国司は、征討のかわりに防守、饗給ではなく蕃客(外国使節の接待)と帰化が任務であった([[鎮西府]])。
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蝦夷は、産馬、産金の地である陸奥で経済力および戦闘力を付けていったのに対し、朝廷は産出物に依存する形となるなど、次第にその王権外の存在が問題視され、完全に大和化する政策に次第に舵が切られていった([[蝦夷征討]])。
 
==== 奈良時代 ====
<!--[[奈良時代]]になると[[平城京]]の造営や[[軍団 (古代日本)|軍団]]の整備により財政が悪化したことから、それまで支配の外と考えていた蝦夷を取り込んで徴税するために大規模な侵略を行ったことで戦いが激化した<ref name=":0" />。-->
『[[扶桑略記]]』[[養老]]2年([[718年]])8月14日、出羽と渡嶋の蝦夷が78人が馬1000頭を献納したので位と録を授けた記録がある<ref>ただし渡嶋については、北海道南西部は、考古学的に古代の馬の骨は発見されておらず詳細は不明である。</ref>。
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[[延暦]]6年([[787年]])の記録に「蝦夷に横流しされた綿で敵が[[綿襖甲|綿冑]]を作っている」という記述<ref>『[[類聚三代格]]』巻19</ref> があり、不正な交易が行われていたことがうかがえる。
 
==== 平安時代以降 ====
[[延暦]]20年(801年)には[[征夷大将軍]][[坂上田村麻呂]]が遠征し勝利した。延暦21年(802年)に[[胆沢城]]を築き、その周辺の蝦夷との戦いは記録に残っている中でも最大である。延暦22年(803年)には[[志波城]]を築城し、[[蝦夷征討]]の目的がほぼ達成されたと見なされた。
 
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奥州藤原氏が[[源頼朝]]率いる[[関東地方]]の[[鎌倉政権]]によって滅ぼされると、幕府は東北地方各地に東国[[武士]]を派遣し、ここに蝦夷の系譜ではなく、朝廷の系譜による鎌倉幕府(関東政権)による支配がはじめて東北北端にまで及び、大和化が成ったことになる。相前後して蝦夷、俘囚などと言った民族的諸概念は文献から姿を消し、次項に述べる「エゾ」に置き換わる。
 
=== 民族系統 ===
東北地方の蝦夷(えみし)の民族系統については、後のアイヌとの関係を中心に、[[江戸時代]]から二種類の学説に分かれている。蝦夷をアイヌ人とする蝦夷アイヌ説と、蝦夷を[[和人]]の一部とする蝦夷辺民説である。
 
日本列島の[[縄文人]]が朝鮮半島からの渡来人との混血が進み、北九州から始まり本州全域までんだ[[弥生文化]]を生んだのが、[[弥生人]]・[[和人]]だが、[[縄文人]]・[[縄文文化]]は、その後も日本列島に残った。しかし[[弥生人]]・[[和人]]との混血の度合いも、北海道を除く日本列島内で明確な地理的境界はなかに連続的だった。
 
[[弥生人]]は[[弥生時代]]に東北地方北部へ達した[[弥生人]]は、[[古墳時代]]の[[寒冷化]]に伴い南へ退き、そこへ、[[北海道]]の[[道央]]や[[道南]]地方を中心に栄えていた[[続縄文文化]]の担い手(のちの[[アイヌ民族]])が東北地方北部を南下して[[仙台平野]]付近にまで達し<ref>この頃、[[オホーツク人]]が南下し、道北・道東へ居住した。</ref>、[[西南日本]]から北上して来た[[古墳文化]]の担い手([[和人]])と接触・交流を行なったことが、考古学的に明らかとなっている。なお、東北地方に到来した[[続縄文文化]]の担い手は、その後再び北海道へ退いたとの研究もあるが、東北地方の和人との接触・交流自体は続いた。
 
==== 蝦夷アイヌ説 ====
蝦夷アイヌ説では、この[[続縄文文化]]の担い手が東北地方に残り蝦夷(えみし)となった考える。現在では、[[考古学]]からする[[文化圏]]の検討と、[[北東北]]にアイヌ語で説明できる地名が集中しているから、少なくとも飛鳥時代(7世紀)以降の蝦夷について、アイヌとの連続性を認める説が有力である。[[朝廷|中央政府]]側に通訳がついていたことから蝦夷の言語が日本語と相当異なっていたことが分かり、前述の通りアイヌ語系の地名が東北北部に数多く残っていることから、アイヌ語系統の言葉を話していたと推定される<ref>{{Cite book |和書 |editor=宇野俊一ほか|editor-link=宇野俊一|title=日本全史(ジャパン・クロニック) |publisher=[[講談社]] |date=1991 |page=141 |isbn=4-06-203994-X}}</ref>。<!--[[古墳時代]]の[[寒冷化]]に伴い、[[北海道]]の[[道央]]や[[道南]]地方を中心に栄えていた[[続縄文文化]]の担い手が東北地方北部を南下して[[仙台平野]]付近にまで達し、[[西南日本]]から北上して来た[[古墳文化]]の担い手と接触・交流していたことが、考古学的に明らかとなっている。彼らが文献上の蝦夷そのものであり、その後、北海道の蝦夷は最終的にアイヌに継承され、東北地方の蝦夷と国内に[[移配]]された俘囚は和人に合流したとされる。-->
蝦夷アイヌ説では、[[続縄文文化]]の担い手が東北地方に残り蝦夷(えみし)となったと考えられている。この理論は、[[考古学]]からする[[文化圏]]の検討と、[[北東北]]にアイヌ語で説明できる地名が集中していることから、少なくとも飛鳥時代(7世紀)以降の蝦夷について、アイヌとの連続性を認める説が有力である<ref name="Uno">{{Cite book |和書 |editor=宇野俊一ほか|editor-link=宇野俊一|title=日本全史(ジャパン・クロニック) |publisher=[[講談社]] |date=1991 |page=141 |isbn=4-06-203994-X}}</ref>。
蝦夷と日本の他の民族群との正確な民族関係については多くの学説が存在するが、そのうちの一つは蝦夷が[[アイヌ民族]]と関連しているとするものである。しかし、この理論は議論の的となっている。なぜなら、多くの蝦夷の部族は優れた騎馬弓兵や戦士として知られている一方で、アイヌもまた弓兵として知られているものの、彼らは馬を使用せず、戦闘スタイルは明らかに異なっていたためである。また、文化的な面でも彼らは異なっていた<ref name="Takahashi, Tomio 1982">Aston, W.G., trans. Nihongi: Chronicles of Japan from the Earliest Times to AD 697. Tokyo: Charles E.Tuttle Co., 1972 (reprint of two volume 1924 edition), VII 18. Takahashi, Tomio. ''"Hitakami.''" In Egami, Namio ed. ''Ainu to Kodai Nippon''. Tokyo: Shogakukan, 1982.</ref>。
[[朝廷|中央政府]]側に通訳がついていたことから蝦夷の言語が日本語と相当異なっていたことが分かり、前述の通りアイヌ語系の地名が東北北部に数多く残っていることから、アイヌ語系統の言葉を話していたと推定される<ref name="Uno" />。
[[縄文人]]は歴史的変遷の中で蝦夷とアイヌの両方の祖先と考えられており、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)の名前は同じ漢字で表される。すでに、'蝦夷'の名前が中世初期に津軽半島の人々を指すために使われ、北海道の縄文人が直接アイヌの祖先であったことが知られているため、この理論によれば、これは論理的な進行である。北本州の恵山文化はこの人々と関連しており、後に北海道の現代アイヌ民族を形成する上で重要な役割を果たした[[擦文文化]]に発展した。蝦夷は馬に乗り、鉄を扱う人々であった(アイヌとは異なり)。農業(キビと米)の証拠がある一方で、彼らは主に馬に乗り、狩り、漁業、交易を行っていた<ref name=":1">{{Cite book |last=Yiengpruksawan |first=Mimi Hall |url=https://books.google.com/books?id=8tTaDwAAQBAJ&dq=emishi+tungusic&pg=PA17 |title=Hiraizumi: Buddhist Art and Regional Politics in Twelfth-Century Japan |date=2020-03-31 |publisher=BRILL |isbn=978-1-68417-313-6 |pages=17 |language=en}}</ref>。
最近の研究では、アイヌ語を話す人々が地元の日本語を話す人々と連携してヤマト王権の拡大に抵抗したことを示唆している<ref name="Tjeerd de Graaf">Tjeerd de Graaf "''Documentation and Revitalisation of two Endangered Languages in Eastern Asia: Nivkh and Ainu"'' 18 March 2015</ref>。[[マタギ]]は、これらのアイヌ語話者の子孫であり、彼らは地元の日本語話者に地理や彼らが狩猟した森や水の動物に関連した[[地名学|地名]]と借用語を提供したとされている<ref name="Tjeerd de Graaf" /><ref>{{Cite journal|last1=Boer|first1=Elisabeth de|last2=Yang|first2=Melinda A.|last3=Kawagoe|first3=Aileen|last4=Barnes|first4=Gina L.|date=2020|title=Japan considered from the hypothesis of farmer/language spread|journal=Evolutionary Human Sciences|language=en|volume=2|doi=10.1017/ehs.2020.7|issn=2513-843X|doi-access=free}}</ref>。
縄文文化の人々の骨格特徴の研究は、先住民族の間に非均質性を示し、複数の起源と多様な民族群を示唆している。2014年の人類学的・遺伝学的研究では、「この点で、縄文時代の人々の生物学的なアイデンティティは非均質であり、それは多様な人々が存在し、それらはおそらく共通の文化、縄文文化に所属していたことを示している」と結論付けている<ref>{{Cite web|last=Schmidt, Seguchi|year=2014|title=Jōmon culture and the peopling of the Japanese archipelago|url=http://www.jjarchaeology.jp/contents/pdf/vol002/2-1_034-059.pdf | access-date=2023-06-30 |quote=These results suggest a level of inter-regional heterogeneity not expected among Jomon groups. This observation is further substantiated by the studies of Kanzawa-Kiriyama et al. (2013) and Adachi et al. (2013). Kanzawa-Kiriyama et al. (2013) analysed craniometrics and extracted aDNA from museum samples that came from the Sanganji shell mound site in Fukushima Prefecture dated to the Final Jomon Period. They tested for regional differences and found the Tokoku Jomon (northern Honshu) were more similar to Hokkaido Jomon than to geographically adjacent Kanto Jomon (central Honshu).{{pb}}Adachi et al. (2013) described the craniometrics and aDNA sequence from a Jomon individual from Nagano (Yugora cave site) dated to the middle of the initial Jomon Period (7920–7795 cal BP). This individual carried ancestry, which is widelydistributed among modern East Asians (Nohira et al. 2010; Umetsu et al. 2005) and resembled modern Northeast Asian comparison samples rather than geographical close Urawa Jomon sample.}}</ref>。
 
==== 蝦夷辺民説 ====
これに対し蝦夷辺民説では、上記の[[西南日本]]から北上して来て接触・交流を行なった[[古墳文化]]の担い手([[和人]])が東北地方に住み蝦夷(えみし)となったと考える。遺伝子特徴の研究では、蝦夷は、[[アイヌ]]よりも[[和人]](特に出雲地方の古代人)に近いとの研究もある。また日本語の「[[ズーズー弁]]」(現在の[[東北方言]]の始祖)を話す和人とする説もある<ref name="小泉1998">{{Cite book |和書 |author=小泉保 |date=1998|title=縄文語の発見 |publisher=青土社 |isbn=4791756312 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-06-02}}</ref> 。特に[[東北方言]]と[[出雲方言]]の類似性から、[[古代出雲]]系の民族のうち[[国譲り]]後も[[ヤマト王権|大和王権]]に従わなかった勢力が蝦夷となったとする見方もある<ref>{{Cite book |和書 |author=高橋克彦 |date=2013|title=東北・蝦夷の魂 |publisher=現代書館 |isbn=9784768457009 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-06-02}}</ref>。最近の研究、例えばBoer et al.らの2020年の研究では、それ蝦夷主に出雲方言に密接に関連した日本語を話していたと結論付けている。さらに、蝦夷による[[弥生時代]](稲作]]拡大に伴い)また証拠と馬の使用[[墳時]]に出雲日本人と蝦夷との間の結びつきを強化している。この理論によれば、蝦夷は大和日本人から東北北部にもたら追い出されたと推定出雲日本人であり、彼らは天皇の統治に対て同調することを受け入れなかった<ref>De{{Cite journal|last1=Boer, E.,|first1=Elisabeth de|last2=Yang, M., Kawagoe,|first2=Melinda A., & |last3=Kawagoe|first3=Aileen|last4=Barnes,|first4=Gina GL. (|date=2020). |title=Japan considered from the hypothesis of farmer/language spread. |journal=Evolutionary Human Sciences, |language=en|volume=2, E13. {{doi|doi=10.1017/ehs.2020.7|issn=2513-843X|doi-access=free}}.</ref>。
 
==== ツングース説 ====
出雲弁と[[ツングース諸語]]の類似<ref>{{Cite book |和書|title=古代に真実を求めて |volume=第7集 |series=古田史学論集 |date=2004 |editor=古田史学の会 |publisher=明石書店 |isbn=4750318981 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-06-02}}</ref> などから、蝦夷はもともと日本にいなかった馬を引き連れて大陸から来た北方[[新モンゴロイド]]の[[騎馬民族]]とする説もあるが、空想の域を出ない<ref>『[[吾妻鏡]]』[[貞応]]3年([[1224年]])2月29日条にある難破した[[高麗]]船の荷物の調査記録では、高麗の弓について「(本朝の弓と比べて)短く、夷弓(蝦夷の弓)に似ていて、皮製の弦である」と記されており、[[長弓]]を用いる和人に対し、[[短弓]]を使用していた。このような蝦夷の武器([[短弓]]、毒矢)や戦術(騎射、軽装甲)はモンゴル系民族と類似している。なおアイヌも短弓と毒矢を使用する。しかし、北方系の[[騎馬民族]]には[[刺青]]の風習はなく、[[日本在来馬]]の起源も[[蒙古馬]]から[[対州馬]]を経て、拡散されたものであり、この説は空想の域を出ない。北米の[[ネイティブ・アメリカン]]の例でもある様に、渡来した集団(この場合[[白人]])から[[馬]]を手に入れ、[[文化]]に組みこまれたものと思われる。</ref>。
出雲弁と[[ツングース諸語]]の類似<ref>{{Cite book |和書|title=古代に真実を求めて |volume=第7集 |series=古田史学論集 |date=2004 |editor=古田史学の会 |publisher=明石書店 |isbn=4750318981 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-06-02}}</ref> などから、蝦夷はもともと日本にいなかった馬を引き連れて大陸から来た北方[[新モンゴロイド]]の[[騎馬民族]]とする説もある。[[アムール]]地域の騎馬遊牧民、特に[[ツングース諸族]]と蝦夷との間に顕著な類似性を指摘している歴史学者もいる。蝦夷の起源はツングース系住民であり、後に日本語を話す出雲系住民と同化したと提唱されている<ref name="Oishi">{{cite book |last1=直正 |first1=大石 |last2=秀人 |first2=辻 |last3=公男 |first3=熊谷 |last4=進 |first4=榎森 |last5=嘉美 |first5=守屋 |date=1998 |title=歴史のなかの東北―日本の東北・アジアの東北 |publisher=河出書房新社 |isbn=978-4309223254}}</ref>。
 
蝦夷を半遊牧の[[靺鞨]]と関連付ける説がある。また、本州の蝦夷と北海道の渡島蝦夷との間には区別があった。歴史的な証拠は、本州の蝦夷と渡島蝦夷との間の頻繁な戦闘を示している。渡島蝦夷は本州の蝦夷とプロトアイヌ語話者から成っていたと主張されている。蝦夷は主にツングース起源で、一部は同化した日本語群(出雲人)であったと結論付ける説がある<ref name="Kitakamae">{{cite book |last=保男 |first=北構 |date=1993 |title=古代蝦夷の研究 |publisher=雄山閣出版 |isbn=9784639010319}}</ref>。
===民俗資料に見えるエミシ===
以前アイヌ語であると考えられていた地名は、アムール地域のツングースの基層によってプロトアイヌ語に説明できるとされている。また、マタギ猟師は実際には蝦夷の子孫であり、特定の狩猟語彙はアイヌ語ではなくツングース語由来であるという説がある。菊池俊彦は、北本州と北海道の先住民族が形成した擦文文化とオホーツク文化と、ロシア極東のツングースと古アジア諸族との間には、特にアムール川流域や満州平原で多くの接触があったと主張している<ref name=":1" />。
東北地方に伝わる[[坂上田村麻呂伝説]]を始め種々の伝説中に、エミシの族長クラスの名として、[[悪路王]]、[[アテルイ|阿弖流為]]、[[大武丸]]、[[赤頭]]の名が残る。
出雲弁と[[しかし、蝦夷ツングース諸語]]の類似<ref>{{Cite book |和書|title=古代に真実を求めて |volume=第7集 |series=古田史学論集 |date=2004 |editor=古田史学の会 |publisher=明石書店 |isbn=4750318981 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-06-02}}</ref> などから、蝦夷もともと日本にいなかった馬を引き連れて大陸から来た北方[[新モンゴロイド]]の[[騎馬民族]]とする説もあるが、空想の域を出ないという批判もある。<ref>『[[吾妻鏡]]』[[貞応]]3年([[1224年]])2月29日条にある難破した[[高麗]]船の荷物の調査記録では、高麗の弓について「(本朝の弓と比べて)短く、夷弓(蝦夷の弓)に似ていて、皮製の弦である」と記されており、[[長弓]]を用いる和人に対し、[[短弓]]を使用していた。このような蝦夷の武器([[短弓]]、毒矢)や戦術(騎射、軽装甲)はモンゴル系民族と類似している。なおアイヌも短弓と毒矢を使用する。しかし、北方系の[[騎馬民族]]には[[刺青]]の風習はなく、[[日本在来馬]]の起源も[[蒙古馬]]から[[対州馬]]を経て、拡散されたものであり、この説は空想の域を出ない。北米の[[ネイティブ・アメリカン]]の例でもある様に、渡来した集団(この場合[[白人]])から[[馬]]を手に入れ、[[文化]]に組みこまれたものと思われる。</ref>。
 
民俗学者・[[柳田國男|柳田国男]]はこの「赤頭」について、赤髪か、または赤い顔の事だろうとしていた<ref>{{Cite book |和書 |author=柳田国男|title=山の人生 |series=岩波文庫 |publisher=岩波書店|chapter=第25章 |date=2019-06-02}}{{Full citation needed |date=2019-06-02 |title=刊行年が不明。1976年以降、複数ある。}}</ref>。柳田は同時にエミシの伝説として、東北人は「赤頭太郎などと称して赤い[[山男|大人(おおひと)]]がたくさんに来たと信じていた」というものを挙げていた。この「赤い大人」というのも、赤髪か赤い顔が考えられ、また、大きな人であったという事らしい{{efn2|東部日本では、山中の背の高い「異人」を大人(おおひと)と呼んでいたという<ref>柳田国男『山の人生』第29章。{{Full citation needed |date=2019-06-02 |title=刊行年・発行元が不明。}}</ref>。}}。さらに、蝦夷の語の「蝦」の漢字はエビまたは[[ガマガエル]]の意だが、ここから蝦夷を、エビの様な赤い色をした異族とする解釈もある<ref name="金髪碧眼">{{Cite book |和書 |author=中村昻|title=金髪碧眼の鬼達 |publisher=JDC出版 |date=2015|chapter=第六章 第二節 |isbn=978-4-89008-536-1}}</ref>(夷は異民族を指す語)。
 
==== 鬼とエミシ ====
エミシは、当時の東北人から[[鬼]]と呼ばれていたらしい<ref name="金髪碧眼" />。例を挙げると、大武丸の生誕地が「鬼生田(福島県)」の地名、討ち取られた首が落ちた場所が「[[鬼首村]](宮城県)」、体を埋められた場所が「鬼死骸村(岩手県)」、エミシの子孫を自称していた[[安倍氏 (奥州)|安倍一族]]と政府軍の戦闘([[前九年の役]])が「鬼切部」という具合である。鬼は、例えば今に残る[[酒呑童子]](しゅてんどうじ)の絵を見れば、髪色は金色か赤色-茶色で、体格も大きく、絵によっては眼も明るい色になっている。そして肌色は赤である。エミシ伝説にまつわる「赤」と「大人」(おおひと)、これらに共通した特徴を持っている事が分かる。
 
[[鬼#正体]]も参照。
 
== えぞ ==
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[[室町時代]]([[15世紀]]から[[16世紀]]にかけて)、和人とアイヌの抗争の時代を生き抜き、和人勢力を糾合して渡島半島南部の領主に成長していった[[蠣崎氏]]は[[豊臣秀吉]]・[[徳川家康]]から蝦夷地の支配権、交易権を公認され、名実共に安東氏から独立し、[[江戸時代]]になると蠣崎氏は松前氏と改名して[[大名]]に列した。
{{main|アイヌ}}
 
== クリル ==
{{出典の明記|date=2022年9月|section=1}}
蝦夷全体を'''クリル'''({{lang-ru|курил}})としているものもある。現在、ロシア連邦では千島列島や[[歯舞諸島]]や色丹島を指しているとされているが、また日本領土北海道を指す用語としてという説もあり、北海道全体や東北地方や関東などの北東日本をさす用語としても使用されている。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
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* {{Cite book |和書 |author=高橋富雄|authorlink=高橋富雄|title=県史シリーズ 4 : 宮城県の歴史|publisher=山川出版社 |date=1969 |ref={{SfnRef|高橋|1969}} }}
* {{Cite book |和書 |author=高橋富雄|title=古代蝦夷 |publisher=学生社 |date=1974 |ref={{SfnRef|高橋|1974}} }}
* 中村昂『金髪碧眼の鬼達』JDC出版、2015年。ISBN 978-4-89008-536-1
* [[新野直吉]]『古代東北の兵乱』、吉川弘文館、1989年、ISBN 4-642-06627-6
* {{cite book |url=https://archive.org/details/acrossamericaan00pumpgoog |title=Across America and Asia |author=Raphael Pumpelly |date=1870 |publisher=Leypoldt & Holt}} - アメリカ人冒険家による1861-1863年の蝦夷調査記録収録