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大きく、「エミシ(蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。
 
大和朝廷の支配に服した東国の蝦夷(エミシ)は、[[俘囚]]と呼ばれ、他地域へ移住させられることがあっ
 
== 語源と用字 ==
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==== 飛鳥時代 ====
[[飛鳥時代]]([[7世紀]])頃には、蝦夷は現在の[[宮城県]]中部から[[山形県]]以北の[[東北地方]]と、[[北海道 (地方公共団体)|北海道]]の大部分に及ぶ広範囲に住んでいた。平時には和人と交易を行い、[[コンブ|昆布]]・[[ウマ|馬]]・[[毛皮]]・羽根などの特産物と引き換えに、[[米]]・[[布]]・鉄器・工芸品を得ていた。大和政権が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、また和人の築いた[[城柵]]を襲撃したため、[[日本書紀]]には襲撃や討伐の記録が記録されている。大和に帰順した蝦夷の集団は[[俘囚]]と呼ばれ、関東地方などへ移住させられたり、西日本で兵隊集団を勤めるなどした。
 
蝦夷と接する地域([[陸奥国]]・[[出羽国]]・[[越後国]])では、国内の行政・司法・軍事を管掌する[[国司]]の守と介が饗給(慰撫)、征討、斥候などの外交・軍事も担当していた。特に陸奥国は面積が広く軍事的衝突が頻繁におきるため、[[陸奥国司]]には[[大宝律令]]が定める特例が多く、自らの判断で征討に出ることも許されていた。なお同じ辺境でも[[西国]]の国司は、征討のかわりに防守、饗給ではなく蕃客(外国使節の接待)と帰化が任務であった([[鎮西府]])。
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以前アイヌ語であると考えられていた地名は、アムール地域のツングースの基層によってプロトアイヌ語に説明できるとされている。また、マタギ猟師は実際には蝦夷の子孫であり、特定の狩猟語彙はアイヌ語ではなくツングース語由来であるという説がある。菊池俊彦は、北本州と北海道の先住民族が形成した擦文文化とオホーツク文化と、ロシア極東のツングースと古アジア諸族との間には、特にアムール川流域や満州平原で多くの接触があったと主張している<ref name=":1" />。
しかし、蝦夷ツングース説は空想の域を出ないという批判もある。<ref>『[[吾妻鏡]]』[[貞応]]3年([[1224年]])2月29日条にある難破した[[高麗]]船の荷物の調査記録では、高麗の弓について「(本朝の弓と比べて)短く、夷弓(蝦夷の弓)に似ていて、皮製の弦である」と記されており、[[長弓]]を用いる和人に対し、[[短弓]]を使用していた。このような蝦夷の武器([[短弓]]、毒矢)や戦術(騎射、軽装甲)はモンゴル系民族と類似している。なおアイヌも短弓と毒矢を使用する。しかし、北方系の[[騎馬民族]]には[[刺青]]の風習はなく、[[日本在来馬]]の起源も[[蒙古馬]]から[[対州馬]]を経て、拡散されたものであり、この説は空想の域を出ない。北米の[[ネイティブ・アメリカン]]の例でもある様に、渡来した集団(この場合[[白人]])から[[馬]]を手に入れ、[[文化]]に組みこまれたものと思われる。</ref>。
 
 
== えぞ ==