「蝦夷」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし |
m Bot作業依頼#Cite webの和書引数追加 |
||
1行目:
{{Otheruses|集団としての蝦夷}}
[[File:Monument to Aterui and More2.jpg|thumb|right|[[アテルイ]]、モレの顕彰碑<br>([[京都市]][[清水寺]])]]
'''蝦夷'''(えみし、えびす、えぞ)は、[[ヤマト王権|大和朝廷]]から続く歴代の中央政権から見て、[[日本列島]]の[[東国]](現在の[[関東地方]]と[[東北地方]])や、北方(現在の[[北海道]]や[[樺太]])などに住む人々の呼称である<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-kyodokan/files/2010-0604-1449.pdf|title=「エミシ」と「エゾ」|accessdate=2021/04/05|publisher=青森県立郷土館}}</ref>。
大きく、「エミシ(蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。
20行目:
人名に使った場合であっても、[[佐伯今毛人]]が勤務評定で今蝦夷(正確には夷の字に虫偏がつく'''蛦''')と書かれた例がある{{Sfn|高橋|1986|p=16}}。蝦夷の蝦の字については、あごひげが長いのをエビに見たてて付けたのだとする説がある{{Sfn|高橋|1974|pp=32-33}}。夷の字を分解すると「弓人」、上代日本語で(ユミシ)になり、これが蝦夷の特徴なのだという説もある{{Sfnm|高橋|1974|1pp=32-33|高橋|1969|2p=50}}。
[[喜田貞吉]]は、意味ではなく音「かい」が蝦夷の自称民族名だった<ref>松浦武四郎『天塩日記』</ref>のではないかと説いた。アイヌ人はモンゴル人など中国東北部の民族からは「骨嵬(クギ、クイ)」、ロシア人からは「[[千島アイヌ|クリル]]」と呼ばれた。[[千島列島]]のロシア語名はクリル諸島である。斉明天皇5年の遣使の際に、聞き取った唐人が蝦夷の字をあて、それを日本が踏襲したという{{efn2|高橋崇は蝦夷の自称とは言わないが、中国側が呼んだものとしてこの説に傾く{{sfn|高橋|1986|pp=20-21}}。}}。[[秋田藩]]の藩士であった[[人見蕉雨]]によって[[1798年]](寛政10年)頃に著された黒甜瑣語には、蝦夷(夷は大と弓の上下の合字になっている)のルビを「かい」としている。そこでは「[[ダケカンバ]]と思える植物をタッチラと唱える」という記述からも、これがアイヌの事を指している事がわかる<ref>人見蕉雨『[{{NDLDC|898467/15}} 黒甜瑣語. 第3編]』、人見寛吉、明治29年</ref>。明治政府は[[開拓使]]の設置に伴い蝦夷地の名称の変更を検討。[[1869年]](明治2年)蝦夷地探査やアイヌとの交流を続けていた[[松浦武四郎]]は政府に建白書を提出し、「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6案を提示した<ref name="faq02">{{Cite web
金田一京助は喜田らの説を批判し、「えび」の古い日本語「えみ」が「えみし」に通じるとして付けたとする説を唱えた{{Sfn|金田一|2004|pp=116, 127}}{{efn2|工藤雅樹もこれを支持する{{Sfn|工藤|2001|pp=117-118}}。}}。
58行目:
{|class="wikitable"
|+[[前方後円墳]]の北限<ref>{{
!rowspan="3"|<br />
!colspan="3"|日本海側
74行目:
!最北端
|align="center" rowspan="3" |なし
|[[菖蒲塚古墳]]({{Coord|37|46|3.7|N|138|51|57.5|E|region:JP|name=菖蒲塚古墳(4世紀後半)}})<ref name="Ayamezuka">{{Cite web
|[[坊主窪古墳群]]第1号墳<br />({{Coord|38|18|40.9|N|140|15|10.5|E|region:JP|name=坊主窪古墳群第1号墳(6世紀後半)}})<ref>{{
|[[角塚古墳]]({{Coord|39|8|29.2|N|141|5|37.4|E|region:JP|name=角塚古墳(5世紀後半)}})<ref>{{Cite web
|-
!最大
|菖蒲塚古墳({{Coord|37|46|3.7|N|138|51|57.5|E|region:JP|name=菖蒲塚古墳(全長:53m)}})<br />全長:53m<!--新潟県最大--><ref name="Ayamezuka"/>
|[[亀ヶ森・鎮守森古墳|亀ヶ森古墳]]({{Coord|37|35|34.8|N|139|49|44.8|E|region:JP|name=亀ヶ森古墳(全長:127m)}})<br />全長:127m<!--福島県および山形県最大--><ref>{{Cite web
|[[雷神山古墳]]({{Coord|38|9|4.1|N|140|52|46.9|E|region:JP|name=雷神山古墳(全長:168m)}})<br />全長:168m<!--東北地方最大--><ref>{{Cite journal|和書|author=大塚初重 |title=東北日本における古墳文化の成立と展開:とくに福島・宮城・山形県を中心として |journal=駿台史学 |ISSN=05625955 |publisher=駿台史学会 |date=1986-03 |volume=67 |pages=90-118 |naid=120001442149 |url=https://hdl.handle.net/10291/6067}}</ref>
|-
|