赤尾氏

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赤尾氏(あかおし、あかおうじ)は、日本の武家のひとつ。

家紋は四つ柏。本姓は源氏を称する(『赤尾家譜』より)。しかし、近江国伊香郡発祥の伊香氏、並びに正親町三条家(嵯峨家)の支族(姓氏類別大観)の系統にも名が見えその出自は定かではない。

古くより近江国伊香郡赤尾(現滋賀県長浜市木之本町赤尾)を本貫地とし、土豪国人領主として赤尾の地を治めた。近江国湖北四家(赤尾氏、雨森氏磯野氏井口氏)の一つとされ、戦国時代にあらわれた赤尾清綱はもっとも知られている。また、北近江の戦国大名浅井氏にあって、清綱は海北綱親雨森清貞とあわせて海赤雨の三将と呼ばれた。


京極氏家臣時代

赤尾氏は代々近江国の守護大名京極氏譜代の家臣で、『江北記』には京極氏の「根本当方被官之事」として今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・弓削・浅井・小野八郎・河瀬九郎・二階堂ら12氏のうちの一つとして記されている。 また後に家臣になったものとして「一乱初刻御被官参人衆」が文明二年(1470年)であることから、少なくともそれ以前より京極氏に仕えたものと考えられる。 京極氏の源流である佐々木氏近江源氏)が、平安時代中期より近江にある事を考えると、かなり古くから京極氏に仕えたものと考える事が出来る。

浅井氏家臣時代

戦国大名浅井氏の台頭により京極氏が衰退すると、同じく京極氏根本被官であった浅井氏に従う。 『寛政重修諸家譜』には浅井亮政の生母に赤尾教政女(むすめ)とあり、『姓氏類別大観』では赤尾教政は 浅井亮政の兄とされている。 尚 『赤尾家譜』によると浅井氏庶流である浅井賢政の長子、教政(二男に亮政)が母方の赤尾新次郎の後を継いだと記されている。 戦国大名浅井氏内での赤尾氏の重要性を考えると、浅井氏と赤尾氏は何らかの血縁があったものかと思われる。

赤尾清綱は初め孫三郎、後に美作守と称す。を清綱とする。戦国大名浅井氏初代浅井亮政の頃から浅井家に仕え、浅井家の宿老として浅井氏三代に仕えた。小谷城内の防衛の要所、本丸横下に赤尾屋敷と呼ばれる袖曲輪をもちそこに在番していた。通常、家臣は城下に屋敷を持ちそこを居館とするものだが、城内に自身名の付いた曲輪を任せられていた事をからも、浅井氏に於いて赤尾氏の重要性が窺われる。

信長公記(第六巻阿閉謀叛の事)では小谷城落城で、『浅井備前(長政)・赤生(赤尾)美作生害させ』の記述があり最後まで命運を共にしたことが窺える。 尚 清綱の子供らの命は、清綱のそれまでの働きと忠義に免じて織田信長直々に助命したといわれている。

浅井氏の滅亡により赤尾氏も本貫地の赤尾を追われ、新たな主家の地に移り住むようになる。

宮部氏、京極氏家臣時代

清綱の長男は通称新兵衛尉、後に清冬。浅井氏滅亡後宮部継潤に仕え、因州諸磯の城代となる。 その後継潤の子宮部長房に仕えるも、関ヶ原の戦いで長房が西軍に組した為に長房は所領鳥取5万石を没収される。 清冬の子三右衛門清正は初め宮部継潤に仕え、関ヶ原の戦いの後、元の主家である京極高次に1000石(京極高次分限帳)で仕る。 寛永11年(1634年)に高次の子京極忠高出雲松江藩へ転封されると、忠高につき従い小浜より出雲へ移った。 富山赤尾氏の祖となる勝野は清正の次女である。

次男は初め加兵衛尉と称し、のち四郎兵衛と改める。浅井氏滅亡後、関ヶ原の戦いで福原右馬介に属し戦死する。

三男は初め新介と称し、後に赤尾伊豆守と称する。浅井家滅亡後京極高次に仕官する。1600年、大津城の留守を黒田伊予守とともに預かる。高次の帰還(西軍として出陣し東軍となり帰還する)の後の大津城の戦い山田大炊良利らと共に奮戦し活躍はめざましく、精兵500を率いて城外の大軍へ討って出て、存分に暴れ回ったという。 その為西軍は大津城をなかなか落とせず、本来なら関ヶ原にあったはずの1万5000人の兵力を欠いたまま東軍と戦うという不利な状況を自ら招いたのである。 関ヶ原の戦いののち、高次の新しい封地の小浜城の築城に際して、縄張りをして石垣の基礎を基づいた。 伊豆守の子、通称 主殿助は初め京極高次に3500石(京極高次分限帳)で仕え、後加賀藩第3代藩主前田利常に1000石(加賀藩寛文侍帳)で召抱えられる。

四男は孫介と称し、小谷落城後羽柴秀吉に仕え、尾州長峰で討ち死にする。小谷落城の時織田信長の預かりとなる。15歳であった。

※ 清綱の四人の子供については『赤尾家譜』に諱の記載なし。清綱の子以外の男子には諱の記載有り。女子は一部以外なし。

富山赤尾氏

清綱の孫にあたり出雲京極家に仕える赤尾清正の娘勝野は才女の誉れ高く、徳川秀忠の次女である珠姫天徳院)が3歳で加賀前田家前田利常(第2代藩主)に輿入れした際に召しだされ仕えた。 これは徳川秀忠の正室 崇源院)が浅井長政の娘であり、赤尾氏とのつながりの強さを物語っていると考えられる。 やがて前田利次(利常の次男)が生まれると傅役を任され、寛永16年 利次に富山藩10万石が分藩されると富山城に移り、富山藩の大奥を創設し御広式を整備して奥女中を束ねた。30人扶持と金50両が給された。

勝野の父 三右衛門清正も寛永17年に前田利次に仕え(500俵・銀100枚)、長兄の弥三左衛門(後に三右衛門)清治(500石)は寺社奉行町奉行、次兄の覚太夫清長(200石、後に50石加増)も寛永16年に利次の御馬廻として仕え、後に呉服御土蔵奉行等を務めた。清長の子覚太夫清貞は前田正甫の小姓である。

勝野は延宝8年に兄清治の孫の甚左衛門清房を養子に迎える(5人扶持・金10両)。清房は御手廻組御広聞番を勤め、貞享2年に勝野の跡を継いだ。 なお清房の妹は前田正甫の側室となり、天和2(1682)年8月1日に富山で蘭姫を産むが翌年7月2日に夭折、城を出て奥村杢左衛門具頼(400石、寺社奉行宗門奉行を歴任)に嫁した。

勝野は貞享2年に没したが、赤尾三家はそれからも富山藩主の側近くに仕え廃藩置県を迎える。



系譜

==系譜==

赤尾教政

美作守清綱
新兵衛尉清冬 四郎兵衛 新介伊豆守 孫介

清正

加兵衛

主殿助
清治 清長 勝野 助左衛門

清範

清貞

清房

作左衛門

清統

徒路

清方

潔澄

清房

清宣

範髙

清當

清行

清篙

運誠

権佑

清常

覚大夫

清庸

清知

清時

清孝

参考文献

  • 富山藩士由緒書 ・赤尾家譜(富山県立図書館蔵)・富山藩分限帳・加賀藩寛文侍帳・江北記・信長公記== 関連項目 ==
  • 長浜市木之本町赤尾(旧東浅井郡木之本町[1]